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現代小説 『冷めた食卓』

kage

2008/12/19 (Fri)

競作参加作品  テーマ「冬」 お題「白い息」

 『冷めた食卓』

 ――モモコ:こんばんは♪ さっきバイト終わって帰ってきたの。疲れた~。

 ひとりで食べる夕食。この時間に二人が家にいることはめったにない。
 献立は炊き込みご飯、さんまの塩焼き、あさりのお吸い物、小松菜のおひたし。
 炊き込みご飯はちょっと味が薄すぎた。

 ―― モモコ:バイト帰りにハンバーガー食べました! ハッピーセットは子供しかダメだって(笑)

 静かすぎる部屋には食器を重ねる音がやけに響く。一人分の食器を洗いに流しへ向かう。ラップのかかった二人分の夕食。彼らは冷めた食事が私の味なのだろう。きっと炊き込みご飯の失敗にも気が付かない。

 ―― モモコ:今日は早いですね。残業しなかったんですか。
 ―― ヒロ:うん。珍しく早く終わってね。覗いてみたらちょうど君も来てた。
 ―― モモコ:そろそろヒロさん来る頃かなーって思ったの。タイミングばっちり!

 私はモモコ。十九才の女子大生。チャットの中では。

 ネットで知り合ったヒロさんは、私が三十九才の主婦だとは知らない。夫が残業で遅くなる月曜日と水曜日はこうしてチャットで話す。退屈な一人の夜。相手をしてくれるのは画面の向こうにいる顔も知らない彼だけだ。
 夫に内緒で買った中古のノートパソコンに向かう。インターネットを使い慣れない私が、ブログサーフィンでたまたま見つけた新人サラリーマンの日記ブログ。初々しさのある彼の日記に私がメッセージを送ったのをきっかけにたびたび返事を返してくれるようになった。そしてヒロさんは自分のブログに設置したミニチャットに私を招待してくれた。一時間程度のチャットでの会話。彼とチャットで話すときは違う自分になれる。寂しさを知らない、明るい未来があると信じていた十九才の頃の私に。
 ヒロさんは先輩に付いて得意先回りをしていたが今日から一人で回るようになったとか、初めて契約が取れて嬉しかったとか、新人さんらしい職場での奮闘振りを話してくれた。
 私も制服が気に入ったからバイト先をそこに決めたとか、短大の全部の授業が休講だったので友達とショッピングに行ったとか、女子大生らしさを作ってヒロさんに話題を合わせた。
 夫と息子が帰って来るまでのわずかな時間の私のもう一つの顔。チャットの中には、夫も息子もいない過去にタイムスリップしたモモコがいる。

 玄関でドアが開いた音がした。息子が帰ってきたようだ。

 ―― モモコ:そろそろお風呂に入らなきゃ。ママがうるさいの。ではまた月曜日に。

 息子に見つからないように新聞紙でパソコンを隠す。
「高志。ごはんは?」
「いらない。ダチと食ってきた」
 息子はぶかぶかの制服のズボンを引きずってウォレットチェーンを鳴らしながらそれだけ言うと、自分の部屋に入る。おそらくそのまま朝まで出てこない。パソコンをクローゼットに片付け、息子が食べなかった夕食を冷蔵庫にしまいながら思う。
 たしか今日は塾の日じゃないはず。あの子毎日遅くまで何やっているのかしら。
 入浴を済ませ二階の寝室で化粧水をはたいていると、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。今度は夫が帰って来た。
 しばらくすると電子レンジのチンという音が聞こえてきた。夫は台所にいる。わかっていても一階には降りていかない。夫と顔を合わせ何を話せばいいのか。冷めた夕食を温めるだけなら夫が自分ですればいい。
 階段を昇ってくる音がして、夫が寝室に入ってきた。そろっとスーツをハンガーに掛けると、音を立てないように静かにドアを閉め部屋を出た。私はそれらの気配を背中で感じ取る。ベッドに潜りこみ眠った振りをし続けた。

 朝食も食べずに慌てて玄関を飛び出す息子。いつもと変わらぬ朝だ。
 新聞を読みながらコーヒーを啜る夫に困った口調で言ってみる。
「最近、高志ったら帰りが遅いのよ。まだ高校一年生なのよ。何やっているのか聞いてもろくに答えないし。あなた何か言ってやってよ」
「思春期の男の子はそんなもんさ。あいつも友達付き合いとかいろいろあんだろう」
「それにしても……」
 その続きを言っても無駄だ。夫は家族のことには興味がない。予想通りの味気ない返事しか返ってこなかった。夫は一度も私を見ずに黙々とパンをかじり淡々と身支度をして会社へと向かう。いつもと変わらぬ朝だ。

 夫が知らないのは私がパソコンを持っていることだけじゃない。火曜日にヨガを習いに行っていることも。リビングのカーテンを取り換えたことも。ダイヤの指輪を二年ローンで買ったことも。夫の目には家族の何が見えているのだろうか。
 元々口数の少ない人だ。それは結婚前から変わらない。けれども最近はますます家にいる時間が減り、私と話そうともしなくなった。
 夫は寡黙な上に表情が読めない。会話が減った理由は女がいる後ろめたさからなのか。
 お隣の仲良し夫婦が先月離婚した。何の疑いもなく旦那さんの自慢話をしていた奥さんは、げっそり痩せて実家へ帰っていった。私も同じ道を辿るのか。浮気相手は若くて華やかな女なのかもしれない。手抜き化粧のぼさぼさ髪の私なんて見たくもないという意味か。疑い始めると帰宅が遅いだけで苛立ちを感じる。
 今までに浮気を疑ったことは何度もある。なんの証拠もないけれど。もし見つけたとして、私はどうしたいのだろうか。追求したらあっさり認めるかもしれないが、そんな面倒くさいことはしない。夫の浮気を勘ぐったところでその先に何がある。今の静かな生活を壊してまで。

 ――静かな生活に満足しているの?
 モモコの声が聞こえる。
 ――あなたはそこから抜け出したいんじゃないの?


 ヒロ:どうしたの。今日は元気ないね。
 モモコ:うーん。ちょっとね。彼氏のことなんだけど……。
 ヒロ:どうかした?
 モモコ:最近あんまり会話がないんだ。男の人って浮気していると気が咎めて、話しをしなくなるの?
 ヒロ:そんなことはないと思うけど。
 モモコ:ヒロさん、浮気したことあるんだ~。
 ヒロ:あるわけないだろ(笑)
 モモコ:男は浮気していても、しているとは言わないわ。
 ヒロ:してないって(笑) 彼女を愛しているからね。
 モモコ:なんだ。ヒロさん彼女いたんだ。ちょっと残念^^
 ヒロ:一緒に暮らしているよ。こんな話するの初めてだね。
 モモコ:彼女が浮気していたらどうする?
 ヒロ:あはは。それはないね。
 モモコ:なぜわかるの?
 ヒロ:わかるさ。信頼しているからね。
 モモコ:彼女のこと愛しているんですね。
 ヒロ:そうかもしれないね。男は愛しているとか好きだとか、いちいち口に出して言わないからね。おそらく彼女はそれが不満なんだろうけど。
 モモコ:彼女は言って欲しいと思いますよ。
 ヒロ:だろうね。

 (そろそろ夫が帰る時間だ。チャットを終らせないと……)

 ヒロ:おっと。もうこんな時間だ。お疲れ様。また水曜日に。
 モモコ:おやすみなさい。

「おやすみなさい」「お疲れ様」
 夫にそう言ったのは、いつだったか。最近はチャットの中でしか使ったことのない言葉だ。
 優しくて女心がわかっているヒロさんでさえ、彼女に愛していると言ってあげない。言ったほうがいいと思っていても言わない。それが信頼だとヒロさんは言いたいのだろうか。
 パソコンを閉じると急に現実に戻される。ソファにもたれ掛かりながら時計の秒針が一周するのをぼんやりと目で追いかけた。もう一度時刻を確信してからパソコンをクローゼットの奥にしまうと、夫が帰ってくる前に二階へと急ぐ。顔を合わせたくない。
 夫とヒロさんを比べてしまう。ヒロさんは私より年下だけどずっと大人。私の欲しい言葉をくれる。夫にヒロさんほどの理解と包容力があればいいのに。今の私の楽しみは月曜と水曜のチャットの時間だけ。

 モモコ:ヒロさんとお話しするのがすごく楽しいわ。
 ヒロ:僕だって同じだよ。
 モモコ:月曜と水曜が待ち遠しいの。
 ヒロ:僕もだよ。なんだかこの台詞、恋人同士みたいだね。
 モモコ:本当。恋人同士みたい。

 こんな会話を夫以外の男性としているなんてあの人が知ったらどう思うだろう。どうせ何とも思わないか。
 ヒロさんとの時間が楽しければ楽しい分、夫への愛情は冷めていく。夫より私のことをわかってくれる。乾いた心を潤してくれる。誰にも秘密のこのチャット。愛想のない夫と顔を合わせるより、顔の知らないヒロさんと話しているほうがずっといい。
 広く感じるリビングルームでそばにいてくれるのは、快い起動音を立てるパソコンとホットコーヒーの湯気。この黒くて薄い長方体は呼吸していないのに、私に孤独を与えない。
 夫が浮気しているかもしれない時間はヒロさんに話し相手になってほしい。夫が秘密にしたいのなら勝手にすればいいわ。私にだって秘密はある。しかし罪悪感はない。それはそうだ。それは浮気ではないのだから。
 ではヒロさんに対する気持ちは何? 恋愛感情はない。友達とも違う。一緒にいるだけで包んでくれるような安心感。気を張らなくていい安らぎのある空気。
 家族……のような。私の求めていた家族感が彼にはある。夫ではなく息子でもなく、画面の向こうにいる人に。
 息子は夕食後自分の部屋に入ったきり出てこない。勉強しているのか、ゲームをしているのか。部屋に入ると怒るので掃除もできないが、あの子ちゃんと自分でしているのかしら。
 三LDK一戸建て。三十年ローンを払い終わるのはまだまだ先だ。暖房を点けても暖まらない冷え切ったこの家にばらばらな家族。みんなで囲めるようにと買ったダイニングテーブルはこの家には大きすぎる。


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 ヒロ:彼氏と仲直りできた?
 モモコ:ケンカはしてないんだけどね……。ケンカできたほうがどんなにいいか。
 ヒロ:彼と話し合えばいいのに。
 モモコ:そうしたいけど、最近は話すことさえできなくなっちゃった。分かって貰えないのなら話し合っても疲れるだけだわ。
 ヒロ:男と女は脳の構造が違うから所詮分かり合えないものなんだよ。僕だって彼女がわからないからね。
 モモコ:ヒロさんでもそんなことあるんだ。
 ヒロ:まあね。彼女は僕が贈ったプレゼントは絶対身に着けないんだ。指輪もスカーフも。結構たくさんあげたんだけどね(笑)
 モモコ:大切にとってあるんじゃないですか。
 ヒロ:でもね。僕が贈ったのと違う指輪を毎日しているんだよ。誰かに貰ったのかなぁ、と思うけど本人には聞けやしない。
 モモコ:うーん。別な男に貰った可能性あり^^;
 ヒロ:高そうな指輪なんだよなぁ。そういえば昔、随分昔だけど、自分で作ったネックレスを彼女にプレゼントしたことがあったな。
 モモコ:自分で? へぇ~素敵じゃないですか。
 ヒロ:猫の形をしたやつをね。それも全然してくれなかったな。まぁ安っぽい手作りだからしょうがないや(苦笑)


 キーボードをタッチする手がぴたりと止まる。
 猫……? 猫のネックレス……。
 猫のネックレスを夫と付き合いはじめの頃に貰った覚えがある。二十年も前のことだ。デートで行った観光地の銀細工のお店で手作り体験させてもらって夫が作ったネックレス。
 とても嬉しかったけれど、センスが悪くて一度もしていない。だって小学生が描いた漫画のような猫の顔の裏に、私と夫の名前が彫ってあるんですもの。人に見られたら恥ずかしいわよ。


 ヒロ:……あれ? どうしたの? 止まっちゃったな。
 ヒロ:時間が来たね。じゃあ、今日はこれで。お疲れ様。

 返す言葉が見つからない。
 ヒロさんも彼女に猫のネックレスをプレゼントした? 私たち夫婦と似たような思い出がヒロさんにもあるというの?

 二階に上がって寝室のドレッサーの引き出しを開ける。奥にしまったままの小さな箱を開けると少し黒ずんだ猫のネックレスが見えた。
 大学生の頃の夫。真剣な目で一生懸命作っていた横顔を私は見つめていた。どうして猫なのと聞くと、きみが猫に似ているからだと言った。思えばこれが初めて貰ったプレゼントだったかもしれない。一緒に歩くだけで照れくさくて、手を繋いでくれたのが嬉しくて。あの頃の私たちは会話がなくても側にいるだけで幸せだった。

 しばらくして玄関の鍵を開ける音が聞こえた。私は二階から降りて夫を迎える。ドアを開けると珍しく私が出迎えたものだから夫は驚いたようだ。ご飯すぐ食べる? の私の言葉に、ああ、と言って顔を上げるともう一度驚きの表情を見せた。
 私の胸元にある猫のペンダント。夫はそれに気がついた。
 しばらく言葉が出なかったようだが、どうしたの、それ? うろたえた様子で言った。
「うん……、ちょっと急に思い出して。たまにはしてみようと思ったから」
 へぇ、と曖昧な声を出して夫はリビングのソファにバッグを置くとネクタイを緩めた。
 夫の焦りはなんだったのか。私はこのペンダントを見せた夫の反応を確かめない訳にはいかなかった。

 まさか……。ヒロさんは夫?
 ヒロさんは理解があって話し上手で心が広くて、夫と同一人物であるはずがない。
 でもあのチャットはパスワードを知る人しか入れない。夫があの会話を覗いていたなんてありえない。
 だってヒロさんは二十二才新人サラリーマンのはずじゃあ……。そう思って私ははっとした。
 私は十九才の女子大生。チャットの中では誰にでもなれる。

 夫は複雑な表情で長い間考え込んでいる。目の前に置かれた食事に手をつけていない。私は台所の片づけを素早く済ませ、夫に何か訊かれるのを怖れて寝室へ上がる。

 翌朝、家を出る時間のぎりぎりまで寝ている息子を起こして、慌ただしく送り出す。少し遅れて夫が玄関で靴を履く後ろ姿の、数歩離れて様子をうかがう。
 すると夫が言いにくそうに小声で話をしかける。
「君……、パソコン持ってないよね」
「持ってないわよ。私パソコン使えないもの」
「そうか……。そうだったな。……あ、いや、なんでもない」
 たどたどしくそう言っていつものように無愛想に家を出る。

 ヒロさんの言う猫のネックレスの話は偶然なのか。
 月曜日と水曜日に夫の帰りが遅くなったのは二ヶ月前、そして私がヒロさんとチャットを始めたのもその頃。それも偶然なのか。
「ねえねえ、私見ちゃったんだけどね」
 私の髪をとかしながら急に友人が声を出すので、びくりと肩が動いた。
 そうだ、私は今、友人の経営する美容室に来ている。
「なんか様子がおかしかったのよねー」
 もったいぶっているが早く言いたそうだ。
 なぁに何のこと、と促すとせきを切ったようにしゃべりだした。
「あのねぇ、昨日の九時頃、国道沿いのファミリーレストラン行ったのよ。そしたらお宅の旦那さんがいてねぇ。一人でずっとパソコンしていたわよ。時々くすっと笑ったりして。十時までいたかしら。お仕事ならコーヒー一杯であんなところ行かなくても、ご自宅に帰ってなさればいいのに。ご主人帰宅拒否症なのかしらねぇ。あらごめんなさい。余計なことを。心配だったものだから」
と、ちっとも心配してなさそうに言った。
 昨日のその時間、私とヒロさんがチャットをしていたときだ。十時はヒロさんと私がなんとなく決めたチャット終了の時刻。
 混乱が少しずつ整理されていく。私の顔色の変化が鏡にうつし出された。黙り込んでいる私に慌てた友人が、こんな感じでどうですか、と合わせ鏡にして後ろに立つ。髪型の仕上がりなんてどうだっていい。元々こちらの希望は適当に切りそろえてとしか言ってないのだから。

 セットしたての髪の匂いをまとわりつかせながら店を出る。大きく息を吸って一気に吐くと、ため息の形が白い息になって目の前に現れた。
 大通りの広場に置かれた大きなクリスマスツリーの黄色いイルミネーションが綺麗で、思わず立ち止まって見上げた。洋菓子屋もおもちゃ屋も本屋だってクリスマスセールのポスターやモールで賑やかに飾り付けられている。何処からかクリスマスソングも聞こえてきて、街はすっかり華やいだムードだ。
 今年のクリスマスはケーキでも焼いてみようか。去年は受験生の息子に気を遣ってクリスマスらしいことは何もしなかった。

『ママ、サンタさんにこの手紙とどくかな』
 そう言ったのは七才の頃の息子。イブの夜にはプレゼントのリクエストの手紙を、大きな靴下の中に入れていた。 
 あの子がサンタの正体を知ったのは六年生の時だ。
 学校の友達が自分のお父さんが枕もとにプレゼントを置いたのを見たと言っていたけど、うちもそうなのかと蒼白な顔をして聞いてきた。うちには本物のサンタさんが来るのよと言おうかと思ったが、この年齢の子に見え透いた嘘をつくのもどうかと思い直し、そうだよと言った。すると息子はしゅんとして部屋に入ったきりしばらく出てこなかった。六年生まで本気でサンタの存在を信じていた息子の純真さを、夜遅く帰って来た夫と笑みを浮かべて話した。でもそれ以来息子はプレゼントを欲しがらなくなった。欲しいものは自分で買うからお金をちょうだいと言うようになってしまった。
 あの時息子の問いに、サンタはいるんだよと言ってあげれば、あの子は純朴に育っただろうか。

 美容室であんな話を聞いた後なのに、呑気にクリスマス気分でいる私はなんなのだろう。
 疑い始めて半日で、妙に落ち着いている自分がいた。ヒロさんに感じた家族の感覚に納得できるものがあったし、夫がヒロさんならばそれでよかったのかもとさえ思える。
 チャットの中の二人は過去だ。あの頃の私たちがいる。十九歳の私と二十二歳の夫。
 夫が浮気をしていなかった安堵感。ヒロさんを通して夫の内心が伝わった充足感。このふたつの感情が自分でも不思議なほどに冷静に私を過去へと導いてくれる。

 愛されたい。大切にされたい。理想に描いた家庭を築きたい。
 求めてばかりいた。私は夫に尽くしていたのだろうか。
 夫の温かさをないがしろにし、違う方向を向いていたのは私ではないのか。
 私を見てくれない。何も話してくれない。
 私が夫に対して抱いていた同じわだかまりを、夫も持っていたのかもしれない。
 私は夫を見ていたのだろうか。話をしていたのだろうか。

 私の髪型の変化に無反応の夫は、今朝も普段と変わらず私と目を合わさないようして家を出た。
 今日は水曜日。
 夜の九時をいつもとは違う緊張感で待つ。息を呑んで恐る恐るパソコンを開くと、もうヒロさんは来ていた。

 ヒロ:こんばんは。
 モモコ:こんばんは。やっぱりいましたね。
 ヒロ:この時間までずっと考えていたよ。チャットではきみと打ち解けて話せるのに、彼女には言葉で上手く言えない理由を。
 モモコ:理由はなんですか。
 ヒロ:おそらく、彼女とは努力する必要がない程信頼し合っているという僕の自惚れかな。
 モモコ:言葉にしなくても伝わっていると思います。彼女には。
 ヒロ:そうだといいね。
 モモコ:もし伝えたいことを形にしたいのなら、薔薇の花でも買って帰ったらどうですか。きっと彼女は喜びます。
 ヒロ:そうしてみるよ。照れくさいけど。
 モモコ:実は私……。
 ヒロ:きみに言っておきたいことが。

 同時だった。タイピングの遅い私はヒロさんと重なることが多い。数分後、文字を打ち込んだのは私が先だった。

 モモコ:言わないでおきましょう。さようなら。元の私に戻ります。
 ヒロ:そうだね。僕も本当の自分に戻ろう。
 モモコ:ありがとう。私はもう大丈夫。
 ヒロ:きみと話せてよかった。

 さようなら。永遠に。ヒロさん。そしてモモコ。
 幸せな空気に包まれながらパソコンの電源を切る。

 一時間後、玄関のチャイムが鳴り、私が内側から鍵を開けドアを開くと、顔を赤らめて立つ夫がいる。
「おかえりなさい」
 久しぶりに言うとなんとなく恥ずかしい。ただいま、と、同じく照れくさそうに言う夫の後ろに息子の姿も見えた。
「珍しい。一緒だったのね」
「帰ってきたら家の前でおやじが入りにくそうにもじもじしていてさ。何してんだと思ったら、見ろよ母さん。おやじ花束抱えてんだぜ」
 息子にそう言われて、夫は後ろ手に持った薔薇の花束を私の目の前に黙って差し出した。私は大げさに、まぁきれいと驚いて見せた。想像していたより大きな花束だったので、驚いたのは事実だが。
 息子が汚れたスニーカーを脱ぎながら言う。
「どうしたの? それ。誰かに貰ったの?」
「いや……。これは母さんに……」
「へぇー。おやじ、やるじゃん」
 へへっと笑うとリビングに入っていく。
「あー。腹減った。今日のバイトきつかったよ」
「高志。バイトしているの?」
 大きめの花瓶を棚から出そうとしていた私は驚いて息子を見る。
「あれ、言ってなかったっけ? 自分の小遣いくらい自分で稼ぎたいじゃん。それより今日の晩御飯なに?」
「ビーフシチューよ。手を洗ってらっしゃい。温め直すから」
「ラッキー! 母さんのビーフシチュー食べたかったんだよね。友達とマック行くの断って正解」
「たまには私も一緒に食べようと思って待っていたのよ。急いで仕度するわね」
 自然と笑みがこぼれる。
「母さんの笑顔久しぶりにみたな。最近母さん不機嫌だったから、話しかけないほうがいいのかなって、これでも気を遣ってんだぜ」
「親に向かって生意気言うんじゃないの」
 そう言って笑い合う。息子との会話をそばで微笑んで見ている夫。無口なのは昔から。 

 私と夫と息子。お互いに守り守られている。それが家族だ。
 明日もあさっても、私は台所に立つ。一時間半かけて作った料理を十五分で平らげる息子と、うまいともまずいとも言わない夫のために。
 冷めたシチューは温めなおせばいい。何度でも。
 冬のシチューのように、この家は温かい。ぬくもりを与えてくれる家族のいる、私のホームだ。


                                              了



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