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小説『ミントガムのあなた』

kage

2008/06/06 (Fri)

甘甘恋愛小説

  『ミントガムのあなた』


 まったく、嫌になる。毎朝毎朝この窮屈な満員電車。何回乗っても慣れやしない。ううん、慣れたくもない。
 長い髪を時間をかけてせっかく綺麗にセットしたのに、誰かのスーツのボタンに引っかかったりするし、汗をかいた中年のおじさんがぴったりくっついてきたりもする。朝からこの不快感、本当に何とかならないかしら。
 私は電車が揺れるたびに、前後左右にいる人と不本意なおしくらまんじゅうをしながらいつもそう思う。周りの人に八つ当たりしてもしょうがない。みんな同じように嫌な思いで乗っているのだから。あと二十分で私の目指す駅に着く。それまでの辛抱だ。つり革をぎゅっと握り締めながらヒールの先で踏ん張った。

 カーブに差し掛かって電車が大きく揺れたその時、私のお尻に何か当たっている感触が。間違いない。誰か触っている。人ごみに紛れているつもりだろうか。人と人の隙間から誰だか分からない男の手がにょきっと出て、薄いフレアースカートの上から私のお尻を確かに触っている。
 周りを見廻してみる。誰も私を見ていない。でもこの中の誰かが痴漢に違いない。いい加減にしなさいよ。女の子が誰しもおとなしいと思ったら大間違いよ。
 私は今も平然と触り続けるその手をむんずと掴んで上に挙げて、大声で叫んだ。
「この人痴漢です!」
 一瞬にして注目を浴びる。するとその手の先に、気弱そうな中年サラリーマン風の男の慌てふためく姿が現れた。
「ち、違いますよ。ボクはやってません」
 甲高い声でその男は、顔の前で手を左右に振りながら言った。どう見ても動揺している。
「明らかに触ってたじゃない! この手で」
 強く言う私に、周りの人たちはみんな無関心そうで、新聞で顔を隠したり、寝たふりしをして、誰も助けてくれない。すると痴漢は逃げられると思ったのか、私の手を振り払って隣の車両の方向へ逃げようとした。
「待ちなさいよ!」
 人を掻き分けて追いかけようとしたその時、ひとりの男性が痴漢の腕を掴んだ。
「どこへ行くんですか。僕、見ていましたよ」
 痴漢の手首をひねるように持ち上げてその男性は強く言った。その時ちょうど電車が駅についてドアが開いた。
「降りましょうか」
 男性はそう言うと、痴漢の腕を掴んだまま、電車の外に出た。痴漢に対しても丁寧な言葉使いをする人だなあ、と思って他人事のように見ていると、男性は私の方を振り返って、あなたも降りてください、と言った。
 紺色のスーツが似合う、きりっとした精悍な顔立ち、私を見た一重瞼の目は鋭いけど優しかった。二十代後半くらいかな。勇敢な人。
 こんな非常時なのに、私は思わず見惚れてそんなことを思っていた。男性に声を掛けられて、慌てて私も電車を降りた。

 男性は痴漢の腕を強く掴んだまま、駅事務所へと足早に向かった。もう逃げられないと観念したのか、痴漢もおとなしく従う。私はこの状況に自分でも驚いて戸惑ったけど、こうなったら後ろからついていくしかない。
 駅事務所に入ると、痴漢騒動には慣れているらしい駅員に、事務的に対応されてちょっとがっかりした。痴漢を捕まえたのよ。私じゃなくて、この人が。
 私と男性はパイプ椅子に並んで座って、駅員の指示を待つ。痴漢は私たちと離れた位置にある椅子に、ふんぞり返って座っていた。
 男性はどうしていいかわからない私の代わりに、駅員に説明してくれた。お陰で私が被害者なのに何も話さなくてもことが進んでいく。駅員は並んで座っている私たちが連れだと思っている。さっき会ったばかりの人なんだけど。
 すると駅員が私たちの前に置かれたテーブルの向かい側に立って、平坦な口調で説明を始めた。
「もうすぐ警察が来ます。あなたは被害者なのですから、警察に被害状況を説明することになると思います。告訴されますか」
 コクソ? ケイサツ? 心臓か破裂しそう。私これからどうなるの。さっきまでは強気だったのに。つい勢いで痴漢を捕まえなきゃって思って。でも警察とか告訴とか言われたら急に恐くなってきた。右手が震えているのを左手で抑えようにも、左手も震えてどうにもならない。震えは全身に伝わった。その様子を隣に座る男性はしばらく見ていたようだけど、私の耳元に顔を寄せ、周りに聞こえないような小さい声で、そっとささやいた。
「君はこの痴漢をどうしたい」
「えっ。どうって……」
 私も彼に合わせて小さい声で聞き返す。
「警察沙汰にするのか。警察が来れば君はどこを触られた、など詳細に聞かれることになる。今、そんなに震えているのに耐えられるかい」
「そんな……。痴漢が捕まってくれれば、それでいいんです」
 私は首を振って答えた。
「そうか。じゃあ、もういいね。出ようか」
 男性は駅員の方を向くと、僕たちもう帰ります、あとはお任せしますと言って、私の肩に手を置いて事務所の外へ連れ出した。駅員たちはあっけに取られたような顔で私たちを見ていた。

 駅事務所を出てしばらく歩くと、だいぶ震えは収まってきた。男性は私の少し前を歩いていたけれど、立ち止まって振り返ると、もう、落ち着いた?、と言ってポケットから出したガムを一枚、私にくれた。ガムを受け取ると、私は気を取り直してやっとお礼を言うことが出来た。
「あの、先ほどはありがとうございました。それに私のせいで会社に遅刻してしまいましたね。すいませんでした」
「ああ、構わないよ」
 男性はそう言って優しく笑いかけてくれた。痴漢にはあんなに毅然とした態度で険しい顔していたのに、私には別人のように穏やかに接してくれる。つい見つめてしまう。
 しばらく見つめ合ったあと、男性は何か付け足したそうに口を開いた。私は言葉を待つが、彼はうつむいて言い掛けた言葉を呑み込むように口を真一文字に結んだ。そして、それじゃあ、と言って手を挙げると、地下鉄の改札の方向へ向かって歩いて行った。私は後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くして見送る。
 手には彼がくれたミントガム。あの痴漢はどうなったのだろう。そんなことどうだっていい。私の頭の中は彼のことでいっぱいなんだから。なんだか胸を射抜かれた気分。もしかして、これって……。

 その後遅れて会社に行くと、当然上司からひどく怒られた。遅刻の理由も説明させてもらえなかった。受付嬢は会社の顔なんだから自覚するように、と言われた。分かってはいるけど、あの状況で自分の職種は何だっけ、とか考えられる余裕はないでしょう。
 はぁ、と息をついて受付のカウンターの横に立つと、隣のユウコが意地悪っぽく声をかける。
「美咲―。ち・こ・く。珍しいわね。何かあったの」
 私は、うん、とだけ言って椅子に座った。

 夕方、更衣室でやぼったい制服から私服に着替え終わると、バッグに入れておいたガムを取り出して見つめる。
 あれからずっとあの人のことが頭に浮んで消えない。名前も訊かなかった。名刺ぐらいもらっておけばよかった。きちんとお礼をしたほうが良かったかな。ふうっとガムを見つめてため息をつく。
 するとユウコが後ろから悪戯な声をかけてきた。
「なーに? ぼうっとして。そのガムいらないならちょうだい」
「だめよ」
 掠め取られたガムを奪い返す。
「どうしたの。今日変よ。今朝の遅刻と関係あんの?」
 うん、実は、と言って、電車の一件を話した。
 話を聞き終わったユウコは、ロッカーにもたれ掛かりながら、ふうん、とはっきり発音して言った。そして探偵気取りの口振りでこう続けた。
「その男、怪しいわね」
「えっ」
「痴漢と共犯なんじゃない? 美咲に告訴させないように外に連れ出して、痴漢を逃がしたかったんでしょう」
「違うよ。そんな人じゃない!」
 ユウコの前に立ちはだかって強く言った。
「他の誰も知らん顔していたのに、あの人は私を助けてくれた。そんな人なんかじゃ……」
「違うと言い切れる?」
 ユウコは腕を組みながら私の言葉を制していった。
「美咲。まさかその男に一目惚れしたんじゃないでしょうね」
 私の瞳の奥を覗き込むようにするので、すべて見透かされた気がして慌てて身体ごと横を向く。
「図星か。美咲は騙されやすいんだから、気を付けなよ」
 ユウコは子供を叱る母親のような言い方をすると、ロッカーの鏡に向かって化粧を始めた。
 ユウコの言うことが本当なら、電車の中で助けてくれたのも計画的ということになる。そんなはずはない。だってあの柔和な眼差しは悪い人には思えない。私が怯えて震えているのを見て、外に連れ出してくれたんだ。共犯だなんて、そんな人じゃない。
 自分に言い聞かせるように、何度も心で呟いた。

 帰宅後お風呂から出ると、濡れた髪をタオルで拭きながら、ドレッサーの引き出しにしまって置いたガムを取り出す。
 青い包み紙にペンギンの絵の付いたミントガム。
 ガムを持つ右手のマニキュアが剥がれているのに気がついた。塗りなおしておかなくちゃ。そんなところまで完璧にしておきたい。あの人に見られたら恥ずかしい。
 明日会えるわけじゃないのに、どうしてこんなにあの人のことばかり考えてしまうんだろう。今朝のことを、頭の中で何度も再生してしまう。また会えるかしら。そうだ、美容院の予約をしておこう。いつあの人に会ってもいい様に、いつも綺麗にしておこう。
 ……また会えますように。
 そう祈って、ガムをドレッサーの引き出しの中の指輪の隣に大切にしまった。

 今朝もいつもと同じ電車に乗る。人の往来の中で、あの人の姿を探すのが癖になった。満員の車内で、辺りを見回してみる。ホームに降りても、視線は紺とグレーのワンパターンのサラリーマン達の中から、あの人を探し出すことに集中する。
 今日もいなかった。そうよね。そう簡単に見つかる訳がない。

 受付カウンターに座ってぼんやり考える。満員電車のあれだけの人混みの中から探し出すのは至難の技だ。何か手がかりでもあれば……。手がかり? そうだ。そういえば胸に社員章があった。丸い形の中にアルファベットのMのようなマーク。ああ、でもはっきりとは思い出せない。それだけじゃあ会社名まで分からない。どうやって探し出せば……。
 仕事中でもそんなことばかり考えてしまう。隣でユウコが呆れたように、ふうっと大きく息を吐いた。

 あの人にとって私はたまたま出会っただけの女。覚えてもいないだろう。ましてや私にこんなに四六時中思われているなんて想像すらしていないに違いない。
 ユウコはあの人は痴漢と共犯だと言った。もしそうなら、何処かでまた同じことをしているのだろうか。そんな人じゃないと信じたい。でもたとえそうであったとしても、私はあの人を嫌いにはなれないだろう。もう特別の人になってしまっているから。あの人が共犯でもいいとさえ思えるくらいに。

 あの人のくれたミントガム。ねえ、ペンギンさん。あなたはあの人の名前を知っているの?
 私は社員章のマークとミントガムのM、この二つに因んであの人のことをMさんと呼ぶことにした。
 ワンルームマンションの薄暗い部屋の中に月明かりが差し込む。パジャマの上にカーディガンを羽織って、窓ガラスの向こうの、星空に向かって声に出してみる。
 ―― Mさん、Mさん、Mさん。

 あなたは今どこにいるの?
 わたしのこと覚えている?

  あなたの名前を呼びかける
  心の中でこだまする
  名前も知らない人だけど
  眼に焼きついて離れない
  
  あなたの眼差し
  あなたの声  
  あなたの手
  あなたの背中
  
  幻影の濁流に溺れそう
  ミントガム 願いを叶えて
  あの人に会えますように

 それからも毎朝、目が覚めると急いで駅に向かう。今日こそMさんがいる予感がして。
 そんな事を続けて二週間経った。会社に遅刻するのを覚悟で、時間をずらして違う電車に乗ってみたり、違う駅から乗ってみたりもしてみた。唯一の手がかり、社員章を見るため男の人の胸元にまず目がいってしまう。同じ会社の人を探し出せば、Mさんにたどり着く気がして。
 毎日、そう今日だって。電車の中でMさんを探し、会社にいてもMさんのことを考えて、家に帰るとお守りのようになったガムを手にしてMさんを想う。今の私のどこを切ってもMさんが出てくるだろう。身体の中はMさんの色で埋め尽くされている。

 お昼休み、社員食堂でAランチを食べながらユウコが言った。まだ諦めてないの、と。
「いったいどれだけの人が地下鉄を利用していると思っているの? その中から見つけ出すなんて奇跡よ」
「ん……」
 私はBランチの白身魚フライを箸で掴もうとして手を置いた。なんだか最近食欲もない。いつもならこれくらいぺろりだったのに。
「ほらー。美咲らしくない。だいたい美咲はかわいいしもてるんだから、そんな名前も知らない人、好きになることないって」少し怒ったようにユウコが言う。
 そう。私らしくない。私はもっと勝気で楽観的だった気がする。こんなにおセンチじゃなかった。
「私、なんか変かな」
「うん。重症だね」

 ユウコに言われて改めて思った。病的に、狂ったように、私はMさんが好き。
 恋をするのは初めてじゃない。だけど今まで付き合った人と、これほどまで胸を焦がす、痛い想いを感じたことはなかった。
 ドライブで行った海がきれいだったとか、地中海レストランで一緒に食べたシーフードがおいしかったとか、そんなことで楽しいと思っていたような気がする。要するに誰でもよかったのかもしれない。
 でも、Mさんに対する気持ちはそんな大まかな感情ではなく、もっとデリケートなものだ。
 少しの言葉のやり取りがあっただけ、それどころか名前も知らない人にこれほど熱くなれるなんて。
 好きになったんだもの。どうしょうもないじゃない。こんな気持ち、恋している人じゃないと分からないだろうな。
 ユウコが何と言おうと私は恋に堕ちてしまったのだ。そう、恋とは堕ちるものなんだ。堕ちてしまえばそう簡単に這い上がれない。

 私はユウコに言った。
「あの人は、忘れられない人なの」
 胸に固い意志を宿して、自分に誓うようにはっきりと。
 ユウコはくすりと笑った。

 忘れることなんか出来ない。自分でも不思議だけれど、会わなくてもどんどん好きになっていく。普通はデートを重ね、たくさん話しをしてお互いを知り、距離を近づけていくものだろう。私はそれが全くないのに好き度はますます上昇していく。
 私が勝手に作り描いているMさん像かもしれない。それでも構わない。
 こうしている間もまたひとつ好きになっている。意識しなくても、恋は走り出すのだ。
 会えなくても決して崩れることのない気持ちは、高く高く一段ずつ階段を昇っていく。そしてその先には、Mさんが私を待っている。そう信じたい。

 ガムを手に持って、部屋の窓を開けて星空を見上げる。招き入れた涼しい風が髪をなびかせる。まだ肌寒い春の夜に身をのり出した。
 Mさんもこの空の下にいる。同じ空気を吸って生きている。

 あなたは今どうしているの?
 私のことなど忘れているの?
  
  あなたに手が届かない
  通り抜ける夜風が私を不安にさせる

  ミントガムに祈る
  お願い Mさんに会わせて

 目が覚めると眩しい朝だった。降りそそぐ光の中なのに、なぜだろう、ふいに淋しさが沁みこんでくる。
 今朝もいつもの地下鉄の駅に向かう。こんなに近くにいるはずもないのに、つい目は探している。やっぱりMさんはいない。こんなことをもう一ヶ月も続けていると、さすがに心が折れそうになる。
 諦めようと思い、またすぐに諦めないと思う。不安を覚えると辛くなる。

 いつの間にか景色がピンク色に染まっていると思ったら、桜が咲いていたんだ。桜は殺風景な街の背景を華やかに変える。Mさんはどこで桜を見ているのだろう。
 桜の花びらが舞い落ちて、肩に降りた。『桜のような一瞬の恋』そんな歌の歌詞が頭に浮んだ。今、この桜の木の下にMさんがいてくれたら。
 街も呼吸している。移り行く時間を、あの日に戻すことができたらいいのに。そう思うと心細さがやってくる。

 営業マンなら毎日同じ電車に乗るとは限らない。出勤前に得意先に寄っていくこともある。たまたまあの日だけこの地下鉄を利用していただけかもしれない。
 やるせなく、ぼんやりそんなことを考えながら、いつもの駅で電車を降りた。早足に急ぐ人の流れの中、見るともなしに前を見ると、先を歩く人影に視線を奪われる。

 まさか。幻覚を見ているのだろうか。私、視力はいいの、間違いない。

 あの時と同じスーツ、同じバッグ、同じ背格好。
 Mさんだ。
    
 どうしよう、体が動かない。心臓がドキンと反応した。早く。何しているの。

 速い歩調で階段を昇っていくその人の、数メートル後ろを追いかけて走る。ああ、でも人混みで速く走れない。急がなきゃ。ここで見失うわけにいかない。なかなか前へ進めない。お願い、行かないで。
 人を掻き分けやっとその人の所までたどり着く。
「Mさん!」
 腕を掴んで声をかけると同時にその人は振り返った。

 冷たい空気が胸を通り抜けた。
 ……違う。Mさんじゃない。
 訝しそうに私を見るその人の腕から手を放し、すいません、まちがえました、と力なく呟く。
 その人は憮然とした顔で、私を頭からつま先まで見たあと、軽く舌打ちして前に向き直り急いで歩き出す。
 立ち尽くす私は人混みの中で崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。雑踏の中、声を出して泣きじゃくる。幾人もの人が、私には目もくれず横を通り過ぎて行く。
 周りの景色は色褪せていく。いいえ、そうではなく私が消えてしまったのかもしれない。周りの人には私が透明になっているかのように、見えていないのだ。存在がなくなっている。

 Mさん。Mさん。
 何もかも覚えている。一重瞼の奥の純粋な黒い瞳も、優しさを秘めた低い声も、耳や鼻や口の形も。 でも、二度と会うことのない人。もうこのまま気持ちを葬ってしまおう。
 私とMさんを繋ぐものは何ひとつない。再びめぐり合うことは不可能だ。私は何を期待していたのだろう。
 また会える、会いたい。そう思えば生きていけた。信じていた。でも今は生きていくのも苦しいだけ。私は抜け殻だ。Mさんの存在が私の中に無くなった空虚を抱えて前に進むしかない。はじめから空想の中で生きる人だった。幻覚だったのかもしれない。そう思って気持ちを押し殺して生きるしかない。
 なぜあの日出会ってしまったのだろう。あの時出会わなければこんなに苦しむことはなかったのに。
 いいえ、そうじゃない。私はこの一ヶ月激しく恋に胸を焦がした。恋のときめきをくれたMさんに感謝しよう。
 熱い涙がぽろぽろとあふれ落ちる。涙って熱いんだ。
 この涙の中に私の想いを全部こめて流し出してしまったからかもしれない。
 泣いたら少し身体が軽くなった。


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 その後はどうやって会社にたどり着いたか覚えていない。気がつくと受付のカウンターに座っていた。
 時々涙がにじみそうになってしまう。ユウコは何も言わなかったけれど、たまりかねて
「美咲、ずっと泣きそうな顔してる。ほら、笑顔」
「ごめん。笑えない。きっと明日は笑えるから、きっと……」
 言葉を発するのも苦しくて、語尾が消えてしまう。また泣きそうになったのを、ぐっとこらえた。
「……美咲。辛いのは分かるけど、十時に村井商事の方が来社予定なんだから、きちんとお応えしてね」
 そんな風に言ったように聞こえたけど、ユウコの声も頭を通り過ぎていく。
 じっとしているとMさんのことを考えてしまう。忘れよう。明日が来て、あさってが来る、それを繰り返していくうちに忘れられるかもしれない。そう思うしかない。思い出になる日がくるに違いない。悲しみは時間の中に溶けていくだろう。

 そう思った時、社ビルの入り口のドアが勢いよく開いた。顔をあげてそちらの方向をみる。ひとりの男性が駆け込んできて、一直線に私に向かってくる。

 うそ。どうして。これは夢?
 私はその人から視線をはずせない。
 どうしてここにMさんがいるの。

 Mさんは息を切らし、私の目の前に立つ。
 村井商事のひとってMさんだったの。
 Mさん? 本当にMさんなの?
 頭の中がざわめく。

 立ち上がってMさんの目を見つめる。やっぱり純粋な目だ。視線が凝固する。
 どうしよう、頭が混乱して声がでない。

 しばらくの沈黙の後、Mさんは意外にも語気が強めの声で話し始めた。
「探していたんだ」
「え……」
「探していた、ずっと君を。君は忘れているかもしれないけど、また君に会いたくて、いつもは使わない地下鉄に乗って探してみたりもしたけど見つからなくて、名前も聞かなかったから何の手がかりもなくて、何度も諦めようと思った。でも諦め切れなくて、今ここに来て、受付に座る君を見て信じられなかった」
 Mさんはそこまで一息に言い切ると、興奮している自分に気がついたのか、ひとつ咳払いをして落ち着かせてから、姿勢を正して、「君は」と言った。そして、一旦顔を伏せて床を見てから、意を決したように顔を上げて私を見ると、一瞬のためらいの後、真剣な表情でこう言った。
「忘れられない人なんだ」

 私たちは一ヶ月前から恋人同士だった。お互いにそうとは知らなかったけれど。好きの気持ちが高まったときに奇跡のようにめぐり会う。そんな恋の魔法にかけられていたのだ。神様は時々こんな意地悪をする。

  あなたの名前を呼びかける
  心の中でこだまする
  記憶の中の人だけど
  胸を埋めつくし溢れ出た

  あなたの眼差し
  あなたの声
  あなたの手
  あなたの背中

  今 私の前に舞い降りた

  ミントガム 奇跡をありがとう
  あの人に 会わせてくれて

 私は今、恋の光に包まれている。
 あなたに言いたい言葉がたくさんある。でも、胸が高鳴って出てこない。
 走る気持ちを伝えるために、私はゆっくり空気を吸って、ゆっくり空気を吐いた。

                                 了
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