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小説『失恋のススメ』

kage

2008/09/18 (Thu)

恋愛小説 久しぶりに書いてみました


  失恋のススメ

 浩志が首の後ろを掻くのは、焦ったときによくする癖だ。一週間前、待ち合わせに遅刻したときもやっていた。そして今も盛んに掻いている。私の目の前で目を合わさないようにうつむいて座る、この男のその癖が腹立たしくて、わざと冷たい目線を投げかける。
 珍しく浩志のほうから呼び出すものだから、わざわざ来てあげたのに、この仕打ちは何?
今ここでめそめそと涙の一筋でも流してやろうか、と企んでみたけど、思うように涙は出てくれなかった。仕方が無いので、ふうっと声を出して大げさにため息をつく。

 浩志は私の彼氏だった。そう、たった今から過去形になった。
 エリコにはもったいないくらいの優しい彼だよね、と友達は言うけど、付き合いたいと言ってきたのは、あいつの方だ。私から先に好きになったんじゃない。
 まぁ、高校は女子高だったし、職場もおじさんばっかりだから出会いもない。今までもてた覚えが無いのに初めて告白された訳だから、断る理由もなく、即OKしたのは私だけど。二十年間の人生で最初の彼氏だから、有頂天になって友達に自慢したのも私だけど。
 いつだって彼は私に優しかった。そう、あの日だって――。

      ◇

「今すぐ来て。駅前のカフェ。知ってるでしょ」
『今すぐは無理だよ。バイト中。もうすぐ終わるから待ってて』
「じゃあ、終ったらすぐ来て。すぐよ」
 そう言って携帯電話を耳から放すと、向かいに座る友達のマキが頬杖をつきながら皮肉めいた口調で言う。
「エリコの彼氏、便利よねー。呼び出したらすぐ来てくれるんだ」
「マキが彼氏に会わせてって言ったんでしょ」
「だって。わがままエリコ様と付き合う男って、どんなお人好しか見てみたかったんだもん」
 マキは意味深な笑みを浮かべて、アイスティーに刺したストローを必要以上にぐるぐるとかき回してみせた。
 浩志は私が会いたいと言えば、大学の講義をサボってでも、どんなに夜遅くても、すぐに来てくれる。そういうのがお人好しというのだろうか。彼氏なら当たり前でしょう。
 私の頼みは何でもきいてくれるし、私の嫌がることはしない。背が私より低いのがちょっと気に入らないけど、顔はまあまあだし、そういった意味では理想的な彼氏だ。初めて付き合った人にしては『当たり』だった。
 マキとおしゃべりしながらも、目線はつい腕時計へ。浩志の到着が気にかかる。

 私の苛立ちが沸点近くまで来た頃、自動ドアが勢いよく開くと同時に、浩志が急いで店の中に駆け込んできた。
 私が軽く手を挙げると、こちらに気がついた浩志は、気まずそうに私達のテーブルに近づく。
「遅いわよ」
「ごめんごめん。これでも急いで来たんだよ」
 浩志は汗を拭きながら私の隣の席に座ると、オーダーを取りに来た店員に、ジンジャーエールと言った。
「へぇー、これがエリコ様の彼氏かぁ」
 マキは興味深そうな目で浩志をじろじろ見てから、エリコのどこが好きなの、どんなデートしてんの、としつこく話しかける。浩志はマキの質問攻めに戸惑いながらも、素直に答えていた。
 私は浩志の受け答えを黙って聞いていたけど、あまり期待した答えが出てこなかったのが不満だった。

 店を出るとき、伝票を持って立ち上がる浩志に、マキが言った。
「甘やかすと、つけあがるわよ」
 浩志は何も言わなかったけど、苦笑したように見えた。
 失礼ね。つけあがるって何よ。彼氏なら言い返しなさいよ。

 浩志の運転する車の中から、街路樹が一定のリズムで通り過ぎていくのを、無気力に見つめる。
 さっき浩志は、エリコのどこが好きの質問の答えに長い間があった。その態度を思い起こして無口になっていると、私の不機嫌に敏感な浩志が、せっせと話しかけてくる。浩志の必死な御機嫌とりを無視して、CDを取り替えようと、カーオーディオの取り出しボタンをおす。
「幸田クミないの? 今日は幸田クミの気分なの」
「無茶いうなよ。持ってないよ」
 もう、と怒って私は近くにあった男性アーチストのCDを荒々しく入れると、恐ろしくボリュームを上げる。
「もっと小さくしてくんない。運転に集中できないよ」
 たまらず浩志がそう言う。
「私は、大音量でききたいの」
 CDに負けないぐらいの大声で叫ぶと、浩志はそれには答えず、無表情にまっすぐ進行方向を見て運転していた。夕方の渋滞時、ゆっくり進む車の中に奇妙な空気が漂う。息苦しくて窓を開けた。
「わかんねーな。何に怒ってんだか」
 別に怒ってないし。困らせたいだけ。反応を楽しみたいだけ。浩志こそ何でわかんないの。

 私のアパートに着くと、当然のように浩志も部屋の中に入る。デートの最後はいつも私のアパートだ。
「何か作るよ。パスタでいい?」
 私は小さなキッチンに立つと、スパゲティを茹でて、別鍋でレトルトのトマトソースを温めた。十二分もあればすぐ出来る。浩志はお皿とフォークを食器棚から出して並べている。いつものことだけど気が利く奴だ。
 茹で上がったスパゲティにレトルトのソースをかけていると、後ろから眺めていた浩志が眉をしかめて言う。
「あー、トマトソースか。俺、すっぱいの苦手なんだ。クリーム系のほうが好きなんだけどな」
 文句を言いながらも、お皿をテーブルに運ぶのを手伝ってくれる。いつものことだけど可愛い奴だ。
「贅沢言わないでよ。私が手料理作ってあげたんだから」
「手料理って。レトルトだろ」
「何よ。文句あるの? クリーム系食べたいのなら、新しいパスタ専門店が出来たから、そこに連れてってくれればよかったじゃん」
「うーん。今お金ないから、バイト料入ったらな」
「これだから学生は。情けないわね」
 浩志は苦笑いしながら、トマトソーススパゲティを食べ始めた。
 食べ終わってフォークを置くと、ポケットから煙草を取り出した。
「ちょっと。外に出て吸ってくれる? 煙草の臭いが服や髪の毛につくのが嫌なのよ」
「わかったよ」
 そう言って浩志は玄関のドアを開けて表に出た。たぶん、ドアの前に突っ立って煙草をふかしているだろう。

 浩志とはこんなに仲がよかったのに。一度も喧嘩したことはないのに。
 食事に行ったり家に泊まりにきたり、極普通のカップルだったのに――。

     ◇

 それがどうして、今、浩志から別れ話を聞かされないといけないの。
 浩志にこのカフェに呼び出されたのは二度目。一度目は付き合って欲しいと言われたとき。
 ありえない。私が浩志に何かした? この私のどこが悪いと言うのよ。
 私は首の後ろを掻き続ける男に、別れの理由を問い詰めた。言い渋る浩志は、情け容赦なく睨み続ける私を上目にみると、他に好きな人が出来たんだ、と小声で言った。
 男って浮気をする生き物だとは聞いていたけれども、浩志も同じ種族だったとは。

 二人の間に置かれたアイスコーヒーの氷が溶けて、透明と茶色の層を作っている。それに目を落とす浩志。浩志をにらむ私。
 夜のカフェはカップルばかりだ。幸せムード漂わせる彼らには、呼吸するのもやっとの二人など目に入らないだろう。
 長く感じられる沈黙。重い空気に苦しめばいいわ。
 しかし、沈黙に耐えられないのは私も同じだった。別れ話にうろたえるのは見苦しい女のすること。そして今まさに私は見苦しい女だ。頭に血が昇って冷静さを装う余裕がない。プライドを忘れた言葉が後を突いて出る。
「私のこと好きだったんじゃないの? なのに何で?」
「……君が嫌いになったんじゃないよ」
「意味わかんない。その女と私と、いったいどこが違うのよ」
「……君にはないものが、彼女にはある。それだけだ」
 浩志が哀れむような目で私を見るのが悔しい。もっと冷たく言い放てばいいのに。お前が嫌いだと。最低の女だと。
 そっちから別れをきりだしておきながら、最後まで優しいのは卑怯だわ。

 浩志は私を店に残して立ち去っていった。振り返りもしないで。
 なによ、これ。私は振られたの? ありえない。

 失恋ってもっと悲しくて苦しいものだと思っていた。なぜだろう。今はただ甚だしく悔しくて情けない。 誰だかわからない女に負けたからだろうか。ショックというより怒りに似た感情。
 突然の別れの宣告から二週間経つが、浩志は何の連絡もよこさない。もちろん私から電話なんてしない。すがり付く女みたいなかっこ悪いマネなんかできない。振られた理由も納得できない。
 この私がいったい何をしたって言うのよ。私に何が足りないの? 

 日曜日、何もすることがないのでアパートでぼんやりしていると、マキから食事の誘いの電話があった。マキは私が振られたことをまだ知らない。このまま一人でいても、ため息で体中の空気が抜けてしまいそうなので、気分転換に出かけることにした。

 アパートの近くにできたパスタが美味しいと評判のお店。浩志と行くはずだったのに。
 私たちは店に入ってすぐの窓際の席に座った。バッグを置こうとして体を横に向けると、奥のテーブルに見慣れた男の姿が見えた。慌ててバッグで顔を隠す。
 浩志だ。なんであいつがここにいるのよ。
 一緒にいる女が新しい彼女だろうか。黒い髪を後ろで一つに束ねた清楚な感じの子。後ろ姿の印象はそんなところか。私は背中を向けながら、横目で彼女を盗み見る。
 テーブルとテーブルの間に、観葉植物の大きな鉢が置いてあるので、向こうからこっちはよく見えていないはず。でも話し声は聞こえる。体はマキの方を向きながらも耳は二人の会話を聞き取ることに集中する。
 二人は時々笑い声を立てながら、バイト先での変わったお客さんの話をしているらしく、彼女の「いやだぁ、浩志くんたら」のゆっくりした高い声が耳に残って、無性に腹が立った。時々ちら見をしている私に気がつかない浩志が歯がゆい。もっとも見つかっても困るのだけれど、隠れようとしている自分もなぜだかもどかしい。

 そんな私の横を通って、店員が奥のテーブルにお皿を二つ運んできた。二人はサーモンクリームスパゲティを頼んだようだ。
 わぁおいしそう、と楽しげな声を出す彼女に浩志が言った。
「そういえば、クリーム系は重すぎるからあまり好きじゃないって言ってなかったっけ?」
「んん。そうだけど、同じもの食べておいしいって思いたいもの」
 浩志はそうか、と言って、フォークを手に取った。
 なに、あれ。自主性のない女ね。
 浩志は胸のポケットから煙草を取り出すが、テーブルに灰皿がなかったらしく、視線を左右に漂わせる。それを見た彼女が、手を挙げて店員に合図をすると、「すいません、灰皿ください」と言った。
 グラスの上げ下げも煙草のくわえ方も、私の知る浩志ではなかった。二週間会わないだけで、私の浩志はあの女の浩志に変わっていた。嫉妬心が嵐のように渦巻く。
 浩志が今着ているシャツは、去年の夏一緒に買いに行ったものだ。私が選んだブルーのニットシャツ。私の前では一度も着たこと無かったくせに。悔しい。

「ここのお店、おいしい。連れて来てくれてありがとう」
「おいしいだろ? 君に食べさせたいと思ってたんだ。今度はどこの店にする?」
「それより、お弁当持って、公園に行きましょうよ」
「それじゃあ、この前作ってくれた肉じゃが、また作ってくれよ」
「ええ。いいわよ。あ、浩志くん。口の横にソース付いてるよ」

 なに、この会話。この女は媚びてるの? 甲斐甲斐しく浩志を構わないでよ。私と一緒の時は、気を遣ってくれるのも、食べ物の好みを合わせてくれるのも浩志の役割だったのに。
 今まで私はずっとそうしてきたし、浩志も何も言わなかったじゃない。それのどこがいけないの? なのに浩志ったら満更でもない顔で、口の周りを拭いてもらったりして。
 なんなのよ。なんなのよ。なんなのよ。私といる時の浩志と全然違うじゃないの。なぜあの子といるとそんなに嬉しそうなのよ。


「―― どうしたのよ。さっきから黙り込んで。怒った顔してるし」
 マキに言われてびくっとする。目の前に置かれたトマトスパゲテイはすっかり冷めていた。
「うん、なんでもない」と、努めて微笑んで見せて、少し硬くなったパスタをフォークでほぐす。
「ねえ、マキ。今好きな人いる?」
「いるよ」
 パスタを絡め取りながらマキが答えた。
「彼氏とうまくいってんの?」
「うーん。どうだろう。彼は私だけを見てくれるわけじゃないからね」
「はあ? なによそれ。よく平気だわね。許せない、そんな男!」
 私は感情込めて、と言うより憎しみ込めて、フォークを掴んだ手でどんと音をたててテーブルを叩く。
 マキは窓の外の景色を眺めながら言った。
「相手を好きと思うだけで幸せなんだよ。彼を好きになった自分に満足してるかな。彼の笑顔だけで満たされるの。彼が私のこと好きでいてくれるなら、彼の気持ちと対等な気持ちで応えたい。どちらかが強すぎても弱すぎてもいけない。バランスも大切だからね」
 マキはグラスの水を一口飲んでから続けた。
「辛くない恋は無い。でも恐れていては恋はできない。今は生きる希望と喜びを与えてくれる彼に、感謝しているかな」
 私は、マキのゆっくりとした、まるで自分自身に語りかけているような言葉を黙って聞いていた。
 マキは話し終わると、フォークで器用にサラダのレタスをまとめて口に運んだ。

 マキはいつもハードルの高い高望みの相手や、妻子持ちの男を好きになる。昔からそうだった。そして今も報われない恋をしているのかもしれない。それでも幸せだなんて、私には共感できない。
「好きと思うだけでいいなんて、それは不幸だわ」
 そう言う私に、マキは否定も肯定もせず、口元だけで笑った。

 その時、後ろから椅子を引く音がして、浩志と彼女が立ち上がる気配がした。浩志の数歩うしろを彼女がついて歩く。誰が見てもお似合いのカップル。
 私の横を通り過ぎても、浩志は気がつかないなんて。二週間ですっかり他人になったということなのだろうか。浩志の背中をぼんやりと見送る。


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店を出た後、マキとカラオケに行ったが、今ひとつ盛り上がらなかった。
 無意識に悲しい曲ばかり選んでいる。ますます自分が沈んでいくとは分かっていたけれど、こんな気分で浮かれた恋の歌なんか歌えない。
 パスタ店でのマキの言葉を思い出す。そんな恋愛の形もあるのだろうか。おいしいものを食べに連れて行ってくれたり、欲しいものを買ってくれたり、そんな付き合い方じゃないと私は満足できない。笑顔だけで何が満たされると言うの。頭の中に様々な思いが入り混じり、整理できない。
 マキが歌うこの曲。私と浩志のお気に入りで、よく二人で聴いたっけ。
 スピッツの寂しく繊細な歌なのに、なんだか胸に刺さって痛い。
 曲の間奏がうつろに鳴り響くのに乗せて、マキがマイクを通して「もう帰ろうか」と言った。

 マキと別れた帰り道、雨が降り出した。初めはぽつぽつと身体に落ちてきた雨の粒は、無情にもだんだん激しくうち付ける。
 迎えに来てくれる浩志はいない。この雨は惨めな私にとどめを刺しているつもりなのか。
 びしょ濡れになってアパートにたどり着くと、洗面所の棚からタオルを取り出した。鏡の前に置かれたコップの中には、捨てることのできない彼の歯ブラシ。持ち主はもうこの部屋に来ることはないというのに。

 私にとっての浩志は、ただの便利な男だと思われているだろう。マキには。浩志にさえも。
 今改めて思った。あいつは初めて好きになった人だ。誰に何と思われようと本気だったのに。
 浩志が私を呼ぶ「エリコ」の声が好きだった。他の誰かが言う「エリコ」よりも。
 運転中に繋いだ左手も、ご機嫌を取ろうと必死な目も、私から無くなるなんて考えたこともない。何があってもそばにいてくれると信じていた。
 人を好きになるって、切なくて苦しいことだったんだ。
 私は彼の優しさにつけ込んでいたのだろうか。浩志の優しさは残酷だ。自分がなおさらお馬鹿さんに見える。

 私の頬を伝う雫は雨だと思っていたけれど、拭いても後から流れ落ちてくる。
 涙の理由を冷静に考えようとしたら、頭に浮ぶのは、あの日浩志の好きなクリームスパゲテイを作ってあげればよかったのかな、ってことばかりで。たぶん別れの理由はそれだけではないのはわかっているけれど、今はそのことばかりが悔やまれる。
 これが失恋というものなのだろうか。後悔と反省が繰り返し交互に押し寄せる。
 あいつの前で見せたかったな、この涙。悔しくて無理に笑おうと努力しながら、天井を見上げた。

 次の日、私の足は、彼女の勤めるデパートの地下食料品売り場へ向かっていた。彼女の地味な仕事振りを、この目で見てやりたい気分になったからだ。確かサラダコーナーでバイトをしていると浩志が言っていた
 彼女は髪をひとつに束ね、店の白いエプロンを着けている。化粧気はないけど古風な顔立ち。やっぱり男は顔のいい女が好きなんだ。売場から少し離れた場所から、しばらく彼女の様子を観察してやろう。

 彼女は、耳の遠そうなおばあさんに、ゆっくり大きな声で金額を伝えている。スローモーションのように財布を取り出して、小銭を一枚一枚並べていくおばあさんの動きを、笑顔で見守っている。並べ終わったお金を受け取ると、売り場のガラスケースの前に出てきて、丁寧に品物を両手で渡していた。ゆっくりと売り場を離れるおばあさんの後ろ姿に、「段差あるから気をつけてくださいね」と声をかけていた。
 そして次のお客さんにも同じように明るく対応している。親しみ込めて愛情込めて。まるですべてのお客さんが家族か友達のように。

 そんな彼女の様子を、私はずいぶんと長い間眺めていたような気がする。なぜだかその場から動けない。
 彼女の笑顔は柔らかで温かい。棘のない薔薇のように、さりげなく美しい。生き生きと働く姿がとても眩しく見えた。
 彼女は私に無いものばかり持っている。素直さを。純粋さを。優しさを。人を幸せにする笑顔を持っている。
 マキは彼の笑顔だけで幸せになれる、と言った。その言葉の意味が、今わかった気がする。

 私はサラダコーナーのガラスケースの前に立つ。彼女は私が浩志の元カノだとはおそらく知らない。 顔色を変えずに「いらっしゃいませ」と笑顔で言うと、私が注文するのを待っている。
 私は綺麗に並べられた色とりどりのサラダの方向を見ながら、「白菜とグレープフルーツのサラダ、二百グラム」とすまして言う。
 彼女は、「はい」と高い声で言うと、手際よくサラダをパッケージに取り分け、真剣な目で秤を見ている。私はてきぱきと動く彼女を横目で見ながら、ぽつりと言った。
「男って肉じゃがに弱いのよね」
「は?」
 彼女は手を止めてこちらを見た。
「肉じゃが作れる女は家庭的って決め付けているのよね。ばかみたい」
「……はぁ」
 彼女はサラダを包みながら困ったように返事をした。
「肉じゃが……作ってみようかな」
 小声で言うと彼女には聞こえなかったようだ。「お待たせしました。三百六十円です」と愛想のいい顔つきで朗らかに言った。
 代金を支払って品物を受け取ると、彼女は「ありがとうございました」と、やはり眩しい笑顔で頭を下げた。
 彼女の笑顔は私に感染したらしい。「それじゃあ」と言って彼女に負けない笑顔を返した。
 なんだろう、この感じ。学校で友達と下校の挨拶をしているような感覚。

 私の中に、ここに来る前にはなかった気持ちが生まれたのが自分でもわかる。ほっとしたような安心感。浩志もこんな安らぎが欲しかったのかもしれない。解放してあげよう。これが私の愛情。
 私達は、同じ速度で同じバランスで、愛し合うことが出来なかっただけ。素晴らしくあきらめがいい自分に驚きながら、不思議と足取りは軽い。誰かの為に、肉じゃがを鼻歌交じりに作る自分を想像したら、笑えてきた。

 冷房の利きすぎるデパートの、重たいドアを押して外に出た瞬間、身体を覆うぬるい熱気と太陽の光。じりじりと照りつける日差しを正面で受け止めて、日焼けを気にせず颯爽と歩こう。
 そうだ、これから美容院に行こう。髪を短くカットしよう。私に似合うに決まっている。
 そして、きっとまた、私は誰かに恋をする。
 

                                            了


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この記事へのコメント

kage

>三崎春哉 さま
読んでいただいてありがとうございます。
私は日常的なことをリアルに、実在する人物かのように書くのを目標にしています。(単にファンタジーが描けないという理由もありますが)
リアリティがあるということは、私にエリコの要素があるってことかもしれない…(どきり)
感想をいただきありがとうございました。三崎さんの作品も、読ませていただきに伺いますね。

Posted at 10:16:19 2008/09/24 by 朔の月

この記事へのコメント

kage

長い間一緒にいると、相手の優しさや気遣いが当たり前になってしまって、感謝の気持ちを失ってしまう。そういうことってありますよね。リアリティのある話だと思いました。

伝えたいことが明確で、話がきっちりまとまっているところも好感が持てます。

これからも頑張ってください。

Posted at 22:30:54 2008/09/23 by 三崎春哉

この記事へのコメント

kage

>藤咲さま
読んでくださってありがとうごさいました。
顔が良くて性格も良い主人公が、イケメンと両想いになってハッピーエンド、という少女漫画のパターンの逆をいこうと思ってこれを書きました。
フラれた時に「 私の悪いところは言って! 直すから!」などと言えば浩志も考え直すかもしれなけど、急に素直になるのはエリコらしくないし、無理して努力して付き合いを続けても、結局ダメになるもんなんですよね~。ここできっぱりと反省点を次に活かすつもりで、前進したほうが、今度はきっといい恋ができるかもしれませんよ。私の経験上。(おっと、つい何言ってんだ)

浩志の癖。そうですよね~。確かにそうだわ。いつも、なるほど~と思えるような、私には気がつかない点を指摘していただいて、ありがとうございます。

じ…じか…次回ですか…。いつになるだろ……。

Posted at 10:27:47 2008/09/22 by 朔の月

この記事へのコメント

kage

今晩和^^

この主人公は相当性格悪いっすね。というか、ひねくれている。
素直になれないっていうのは、損をすると思いました。エリコさんは、浩志が初めての彼氏だといっていたけれど、そうは思えないくらい自分中心。尽くされてあたりまえとか、フラれるなんてありえないとか。
ツンデレのデレの部分がほとんど無い感じで^^;
私が思うに、別れ話を切り出した時、本当は浩志は止めて欲しかったんだと思います。
最後にマキさんが言っていた通り、お互いの想う気持ちに偏りがあっては上手くいかない。浩志はエリコさんに本当に想われているのか不安だったんじゃないかな。だから別れ話をしたとき少しでも引き止めてくれたら、もしかしたら気持ちも変わっていたのかも。
そういうことにエリコさんも気づけるような女性になって欲しいですね。

全体的に、エリコさんの独白形式で短く上手くまとまっているなと思いました。描写自体もとてもお上手でしたし、雰囲気が伝わって来る。
一貫してエリコさんの性格に揺らぎがなく、すらすらと読めました^^
最初に出てきた浩志の首の後ろを掻くクセ。
これが今後伏線になるのかなと思っていたのですが、あんまり活躍がなかった(汗)
焦っている彼が可愛くて、本当はそのクセが何となく好きだったとか、そんなエピソードがあってもよかったかなと思いました。

掌編って私苦手なので、こうやって上手に纏められるだけで凄いなと思います。
また次回作楽しみにしてますね~v

Posted at 22:01:44 2008/09/20 by 藤咲空方

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