小説『恋愛のお葬式』

二作目

 『恋愛のお葬式』

 私は黒い服は着ない。心まで暗くなるから。
 赤い服を着て、心の中をごまかしている。心が晴れるわけじゃないのに。

 この会社に勤めて五年目。同僚が寿退社するのを、何人も見送った。
「次は、ナツミ先輩ですね」という後輩の言葉も、いやみにしか聞こえない。
 総合商社の営業アシスタントと言っても、男子社員から回って来た書類をパソコンに入力するだけ。それも私より若い男子から。入社当初から変わらない単純な書類整理と、新人のミス処理にも飽きてきた。
 お茶くみは新人の仕事。男たちは新入社員の子にお茶を入れてもらえるのが嬉しいらしい。私も新人の頃はちやほやされたこともあったけど遠い昔のような気がする。それでも山下課長のお茶だけは私が入れることに暗黙の了解として通っている。
「山下課長。今日はどちらにされますか」
「そうだな。コーヒーにするか」
「分かりました。コーヒーですね」
 瞳の奥を探る。
 給湯室に行き、作り置きのコーヒーを、カップに注ぐ。課長の好みは、砂糖なし、ミルク多め。
 課長と私の関係は、二年になる。
 これは、二人の合図。コーヒーなら「今日はマンションに来る」お茶なら「今日は来れない」
 課長がコーヒーを頼んだのは、何日ぶりだろう。なぜだか自然と心が弾む。コーヒーにミルクを垂らして、白い渦を巻くカップの中を見ながら思わず鼻歌が出てしまう。
 「嬉しそうですね」
 ふいに、後ろから声を掛けられ、一瞬焦って振り返る。
「ナツミせんぱーい。今日の赤いカーディガン、新しいの買ったんですかぁ。先輩って赤とかピンクとか似合いますよねー。年のわりには」
 一言多いこの子は、後輩の真美。同期入社の女子社員はみんな辞めて、今一番仲がいいと言えるのはこの子しかいない。
 私が給湯室に入るのを見ると、自分もやってきて仕事を怠ける。お茶を淹れにきたわけでもないのに。茶色い巻き髪を指でいじっている真美を横目で見ながら、カップをお盆に乗せる。給湯室を出ると、真美も細かい歩幅で後をついてくる。
「せんぱーい、今日飲みに行きましょうよぉ」
 この子は甘えた声でしゃべるのがうまい。狙いなんだろうけど。
「今日はちょっと先約が……」
 視線を合わさず私が言う。
「へえ、そうなんだ」
 歩きながら真美はそう言うと、営業室の奥に座る課長と私を交互に見る。
私は、黙ってコーヒーを課長のデスクの上に置いた。課長はパソコンに目をやったまま、ありがとうと言った。
 真美は意味ありげな笑顔で私を見ながら、自分の席に着いた。
 おそらく、真美は二人の仲に感づいている。あの子に知られたら、会社中の人間が知っているも同然。まあ、いいけど。
 どうせもう、他の社員も知っている。美人と言われている私がこの会社でもてないのは、そのせいか。

 仕事は定時で終わり。残業なんかしない。
 夕暮れのスーパーマーケット。ショーケースの中で明るく照らされた、スモークサーモンを手に取る。夕飯の買い物に忙しい主婦たちに混じって食材を選ぶ。いつものインスタント食品をひとり分と違って、今日の荷物はずっしり重い。ちょっと買いすぎたかな。
 さっきまでオレンジ色だった空が、もうすっかり暗くなり、ネオンが一層明るく光る。家路につく足が、いつもより少し早くなっているのは気のせいだろうか。
 駅に近い都会的な高層賃貸マンション。独り暮らしの女が住むには広すぎる。けれども無理してでもいいところに住みたい。
 課長は言っていた。妻はカレーやスパゲティのような子供向きのおかずばかり作るから嫌になるよ、と。
 だから、課長の家では出されることのないフランス料理を、本を見ながら作る。ブランドのお皿にきれいに盛り付け、テーブルコーディネートも凝る。ワインもちょっと高いのを奮発する。妻の知らないところで張り合ってみる。コーヒーカップもお箸も、私たちお揃いなのよ。知らないでしょう。

 そろそろ来る頃かも。壁に掛かった時計を見上げてはそわそわしてしまう。まるで夫の帰りを待つ新婚の妻みたいだ。
 料理も出来た。部屋も片付いてる。よし、完璧。
 用意が終わった頃に、玄関のチャイムがなる。ドアを開けると、課長がのんびりとした声で「やあ」と言って、右手を挙げて立っていた。どうぞと言うと、慣れた足取りで、部屋の中に入る。いつも同じ位置に座る。ソファの右端。
「山崎くんのマンションに来るのは二週間ぶりか。久しぶりだな」
 そう言いながら部屋を見廻した。
「三週間よ」
 課長は私を下の名前で呼ばず、山崎くんという。会社でうっかり呼んでしまったら、まずいだろう、と言っていた。二人きりの時くらい名前で呼んでくれてもいいのに。細かいことにもこだわってしまう。
 小さなテーブルに向かい合って座り、ワイングラスを合わせる。ワインも赤が好き。冷たく熱い赤がいい。
 一口飲んで、視線をワインから私に移した課長が言った。
「今日の服、いいね。きみは明るい色がよく似合う」
「そう。ありがとう」
 思わず顔が綻ぶ。
 課長はいつもそんな風にさり気なく褒めてくれる。口紅変えたの? とか、髪染めたの? とか。それもわざとらしく言うのではなく、思い出したように。私のちょっとした変化に気付いてくれる男は、他にはいない。そんなところが、大人の魅力で好きだった。

 肌になじんだお互いの体温を確かめ合うと、課長はすぐ、バスルームに向かう。
 あの人は一度も泊まったことがない。早く妻や子供の待つ家に帰りたいのだろうか。水曜日は残業デーとでも言ってあるらしい。決まって水曜日にしか来ない。
 家庭のある男を好きになった。若い男にはない包容力と安らぎが欲しかった。でもこんなこと続けていてもしょうがない。体とは裏腹に頭ではそう思う。妥協と迷いが私の奥底でひしめき合う。
 シャワーを浴びて、私の匂いを消すと、あの人は妻が買ってきたであろうYシャツを着る。
 二人きりの時は私を愛してくれている。それでいいと思っていた。でも今は、付き合い始めた頃のようなときめきはない。あの人から家庭の色が垣間見えると、不安と苛立ちが背中に降りてくる。
 そういえばこの前も、「今年四歳になるんだ。かわいいだろう」と言って、あの人は私に携帯の待受に貼った娘の写真を見せた。「かわいいですね」と言うと、細い目をさらに細くして「そうだろう」と言った。私が軽蔑の眼差しで見ているのも知らずに。そんな無神経さには、さすがにいい気はしない。所帯じみている安物の靴下やネクタイを見ても醒めてしまう。昼休みに奥さん手製のお弁当を食べ後、お弁当箱を給湯室で洗っているのも知っている。奥さんに命令されているのだろうけど、嫌がらずに洗っている姿を、以前ならかわいいと思えたのに、今では無性に腹が立つ。
 課長じゃなくてもいいのに。なんでこの人と一緒にいるのだろう。
 課長との噂が広まっているので、この会社で別の男を見つけるのは無理だ。かと言って他に出会いもない。二十七歳という年齢が私を焦らせる。課長と別れたってかまわない。次は私だけを愛してくれる男を探そう。

「来週、きみの誕生日だろう。会うか」
 背中を向けてネクタイを締める課長の声は、生地の摺れる音と共に確かにそう聞こえた。珍しい。次の約束をするなんて。私の心の揺れに感付いているのだろうか。そんな優しさが憎らしい。
「さあ、空いているかどうか分からないわ」
 わざと曖昧に返事をしてみる。
「そうか。きみもいろいろ忙しいんだな」
 さらりとそう言うと、あの人は玄関に向かって歩いた。玄関までついて出てあげない。私はベッドの中であの人の後ろ姿を見送る。

 誕生日は絶対他の男と過ごしてやる。私だってその気になれば、デートする男の一人や二人いるのよ。
 そう思ってはみたもの、適当に声を掛ける訳にもいかない。女友達を誘うのは無理。みんな結婚しているか、彼氏がいる。真美を誘うにしても、あの子のことだ。「誕生日を祝ってくれる男もいないんですかぁ」などと言ってくるに違いない。
「もう二十八歳か……」
 仕事中だということも忘れ、思わず声に出してしまった。デスクに肘をついて、意味の無いため息をもらす。若い頃は二十八歳にはもう結婚していると思っていた。こんなはずじゃなかったのに……。あの人は私が別れを決意していることを知らない。今はもう、こっそり付き合う努力も煩わしい。部下に仕事を命じている課長をパソコン越しに冷ややかに見て、そう思った。

 朝起きると、恨めしいほど晴れていた。なんでこんなにいい天気なのよ。せめてどしゃ降りにでもしてみなさいよ。
 いったい誰に腹を立てているのだろう。私は。
 お気に入りのピンクのスーツを着て、家を出た。お化粧はいつもより念入りに。誰のためでもなく私のために。
 誕生日当日、課長には他に予定がある、と言っておいた。結局のところ誰も誘う人はいなかった。誰でもいいから声を掛けるのも、しゃくだったし、たまには誕生日にひとりで過ごすのもいいと思ったから。さみしくなんかない。

 会社帰りにショートケーキを一つと、ワインに合うチーズも買った。マンションに帰るとサイドボードからおそろいのグラスの片方を取り出して、立ったままワインを注ぐ。誕生日をひとりで過ごす人は日本で何人いるんだろう。私だけではないはず。そうでも思わないと気がめいる。
 窓際に立って夜景と重なったガラスに映る私と向かい合う。今のこんな顔、見たくない。
 ため息をついて一口飲む。ワインってこんな味だったっけ。この前課長と飲んだ時は、もっとおいしかった。広すぎる部屋に私はひとり。
 あの人は今頃、家族と食事をしているのかも。考えたくないのに、ひとりの時はつい頭に浮んでしまう。
 ぼんやりソファの右端を見つめていると玄関のチャイムが鳴った。誰だろう。こんな時間に。
 ドアを少し開けてそっと見てみる。隙間からのぞく課長と目が合った。
 目じりにしわのある優しい顔で微笑みながら、片手に持ったワインを肩の高さまで持ち上げて私に見せた。
 驚いて見据える私に、「なんだ。いるじゃないか」と言った。
「どうして」
「いいワインを見つけたから、きみと飲もうと思ってね」
 課長は朗らかにそう言って部屋の中に入ると、いつものようにソファの右端に座った。
 この人は私の本心を察して来てくれたのか。いつもそう。何も言わなくても、私のこと分かってくれている。

 恋愛は愛したほうが負け、という言葉を聞いたことがある。恋に勝ち負けなどあるのだろうか。私は負けたと思ってないし、勝ったとも思わない。いずれにしても愛していることには変わりないのだから。
 その優しい目は、今は私だけに向けられている。それだけで充分だった。こうして二人だけの秘密を共有する。そんな小さなことが幸せと思える。未来の約束はないけれど、今がよければそれでいい。
 理屈では分かっている。彼の私への気持ちは、妻や子供を大切に思う半分にも満たないことも。いずれ終わりがくることも。それでも愛とは見返りを求めずとも、本能のままに存在するものなのかもしれない。
 私はやっぱり深い底から抜け出せない。

 課長は持ってきたワインを一杯だけ飲むと、グラスをテーブルに置いて立ち上がる。ソファの横に置いたバッグを手に取った。
「今日はあまり時間がなかったのだけれど、少しでもきみに会えればと思ってね」
 帰ろうとするあの人の後ろ姿に向かって私は言う。
「今度、いつ会える?」
「そうだなあ……」
 相変わらずのんびりとした口調で答える。私はこの声で癒される。低いけれど、ゆっくりとして語尾に優しさのあるその声に。

 私が黒い服を着るとき。それは恋愛のお葬式。
 そんな日は、しばらく来そうもないだろう。
                                了



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