2017 07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 09

小説 『震える熱帯夜』

kage

2009/07/28 (Tue)

 競作参加作品 テーマ『夏』 お題『熱帯夜』 


 休日の居場所はここしかない。
 高い天井に設置された明かり取りの天窓から差し込む陽射しは、眩しいほどの光を放っている。とは言うものの強すぎる冷房のせいか、窓の外はうだるような熱気だとは思えぬほど館内はひやりとしている。平日の昼間から図書館で過ごすなんて、ここに居る連中はよほどやる事がないのだろう。
 そして俺もその一人。
 本など読まない俺がわざわざ図書館にやって来るのは、誰かと話す必要が無いからだ。
 目当ての本がある訳でも無いのに本棚の間をふらふら歩き、いつも同じソファにもたれ掛かり、さほど興味もない雑誌を広げ、うとうと昼寝をしたとしても誰に気を遣うこともない。その上冷房が効いているときた。俺はただ何時間もこの場所で、無駄に時間を費やしている。
 もっとも俺が毎週火曜日にここに来るのには、もう一つ理由があった。

 雑誌に飽きた俺は、無知の分野である小説の本棚にあてもなく移動する。小説家の名前など知らないが、地味な本の中に、ひと際目立つ赤い背表紙が目に留まった。
 それとなく手を伸ばすと、同時にそれを取ろうとする手に触れた。はっとして見下ろし、そこに居た人物が誰だか気付くと、さらにどきりとして俺は固まる。
 あの子がいたのだ。彼女はあわてて手を下ろし、すみませんと小声で言うと逃げるように隣の本棚に隠れてしまった。
 黒髪で華奢な体つきから十五、六才頃に見えるが、見た目より大人っぽい少し低い声。彼女の声を聞いたのはそれが初めてだった。いつもは目で探す距離にいたので、すぐ隣に彼女が立っていただなんて、自分の鈍感さに恥ずかしくなり、後からじわじわと緊張してきた。

 いつもここであの子を見かける。高校生だと思うのだがこんな時間に一人で来て、詩集を何冊か立ち読みしたあと、小説を数冊借りて帰っていく。彼女が毎週火曜に来ていると気付いたのは最近だ。
 図書館に涼みに来るというのは口実で、本心は彼女を遠くから眺めるのが目的なのかもしれない。他人に興味などなかった俺だが、なぜだか彼女のことが気になり、彼女を見付けると動きをそっと目で追った。人と関わるのが嫌で図書館に来ているのに、誰かに会えるのを心待ちしているなんて矛盾している気もするのだが、それが本心なのだから仕方ない。

 緊張のあまり見失った彼女を再び探すと、もうカウンターで貸し出し手続きをしていた。彼女は振り返って俺の方を見たような気がしたので、慌てて目をそらした。そしてまたすぐに顔をカウンターの方に向けると、彼女は小説数冊を胸に抱きかかえ、笑顔で軽く会釈をして、図書館を出て行った。
 俺に挨拶したのだろうか。同じ本を取ろうとしただけの俺に。
 少し彼女に近付けた気がする。やばい、ますます彼女が気になってしまうではないか。

 これ以上図書館にいる理由がなくなったので、涼しさが名残惜しいがここを出ることにした。蒸し暑い街を適当にぶらつきながら、しょうがなく下宿に戻った。
 古い木造のアパートの一階が大家の住まいで、俺たち下宿人は二階にそれぞれ割り振られた四畳半に住まわしてもらっている。
 そろりと階段を昇ったつもりだったが、一段昇るごとにぎしぎし音を立てるせいか、奥で大家の「幸人くんか。帰ったのかい」と言う声が聞こえた。いちいち会話するのが面倒だったので、再度話しかけられないように「はぁ」とだけ言って、一気に駆け上がった。
 壁の薄い部屋は隣の物音が筒ぬけだ。隣の大学生は一日中訳の判らない音楽を聴いている。バンドを組んでいるのか時々ヘタなギターの音も聞こえてくる。せめて夜はやめろと言いたいが、口論になっても厄介なので、努めて無視することにした。
 反対側の部屋の男は二十歳のフリーターらしい。いつも長々と携帯電話で誰かと話している。そんなに積もる話があるのなら会って話せばいいだろう。奴らは俺と同じ位の年齢だ。こんな古い安アパートに住むほど貧乏なはずなのに、無駄なことに使う金は持っているのか。
 夜まではまだ長い。自室にいても苛立ちは抑えきれない。冷房の効いた図書館にもっと居たらよかったと後悔した。敷きっぱなしの布団の上に置いた未返却の本を蹴飛ばして、空いたスペースに寝転がると、一冊だけ借りてきた漫画を何度も読み返した。

 寝苦しい夜が怖い。
 窓を開けても外気の温度と変わりはなく、窓を閉めると世界で息をしているのが俺だけのような、根拠の無い恐怖に襲われる。
 あの日も熱帯夜だった。
 布団の中で帰ってこない母を朝まで待った。
 少年の日の癒えない傷が、今でも俺を孤独へと追いやる。
 噴き出す汗は拭いてもまた溢れ、ただひたすらに暑さに震える。

 一週間はだらだらと過ぎていった。
 パソコンの部品を組み立てる流れ作業の仕事は、慣れれば頭を使わなくても手が勝手に動くようになった。時間が来たら作業終了のベルが鳴る。休憩時間になると、パートのおばちゃんがやたら話しかけてきてうっとうしかった。「はい」と「いいえ」でわずらわしく返事をしても、連中はおかしくも無いところで大声で笑う。おばちゃんという生き物は理解できない。
 この仕事を始めて半年。長くもったほうだ。
 休みの火曜日になればいつもの場所へ向かう。
 平日の午前中の図書館は大概すいている。お決まりの指定席が空いているので、新聞を持ってそこに座った。
 手にするのは新聞でも何でもよかった。きょろきょろしてしまう動作を隠すものが欲しいだけだ。
 今日はまだ来ていないようだな。
 首を左右に振るのをやめて、新聞に目をやったその時
「いつも誰を探しているんですか」
 もたれ掛かるソファの後ろで不意に声がした。驚いて振り返ると、あの子だ。
「うわぁー!」
 図書館に響き渡る素っ頓狂な声を出してしまった。司書の女性がこちらを睨む。
「やだなー。お化けでも見たような声出さないでくださいよ」
 彼女は立てた人差し指を口に当てて、親しい友人のように俺をたしなめる。
「悪りぃ、いや、すみません。……何で? 俺?」
 慌てすぎて自分でも何を言っているのか分からない。
 彼女はくすくす笑いながら、
「先週、ううん、もっと前から。よく見かける人だなって思って。本お好きなんですか」
 彼女だ。間違いなく本物だよな。彼女の方から俺に話しかけている。
「いや、別に好きってほどでもねえけど……」
 上ずった声で答える。突然の出来事に脳が反応できない。
 先ほど睨んだ司書が俺たちに聞こえるように咳払いをしている。
「出ましょうか」
 小さい声でささやいた彼女は、申し訳なさそうに職員に頭を下げながら図書館の出口に向かった。俺は放り投げてしまった新聞紙を拾って元に戻すと、彼女の後を小走りで追いかける。
 図書館の中庭にある藤棚の下まで行くと、彼女はここに座りましょ、と言ってベンチに腰掛けた。彼女はベンチの横に立っている俺を見上げると、どうぞと自分の左側を勧めた。俺は言われるままに隣に座る。
「今日も暑いですね」
 彼女は空を見上げて手をかざした。
 俺はそれにどう答えようかと返事に困り、季候の挨拶をするような間柄だったっけか?の困惑と疑問とが、頭の中でめまぐるしく回転し、結局ひと言も言葉が浮かんでこなかった。
 額から汗が滲むのを感じた。無言のままの空気が流れる。
 彼女はなぜ、俺を外に連れ出したのだろう。俺はともかく彼女も黙っているのは、俺が何か言うのを待っているのだろうか。もしかして俺が何度もじろじろ見ていたのに気づいて、ストーカーだと勘違いしているのか。まぁ勘違いされても仕方が無いのだが、俺を捕まえて謝らせようという策略か。いや待て。ここで謝ってしまえばストーカーを認めたことになる。ここはシラを切るべきか。そうだ、ただ見ていただけで何を謝る必要がある。

「さて、と……。じゃあ、あたし帰るね」
 彼女はすっと立ち上がると道路の方向へ向かってすたすたと歩き出した。
 あっけにとられて見送るようにうしろ姿を眺めていると、彼女は急に思い出したように振り返り、
「あたし、和。のぎへんに口でな・ご・み」と手を振った。
 やれやれ、俺はからかわれていたのか。年頃の女の子の気まぐれに付き合わされただけか。
「ふっ、あほくせぇ」
 笑えるほど情けない自分に向かって、声に出して言い放つ。

 翌週の火曜日、図書館に行くと、もう和は来ていた。まるで待ち合わせをしていたかのように手を上げて駆け寄ってきた。俺は和が小説や詩集を選ぶのを、ソファに座って待ってから、彼女と一緒にこの前の中庭のベンチに移動した。
 和はこちらから聞き出さなくても自分のことをよくしゃべる。彼女のことを何でも知っているように思えてきた。
 今月十九才になったこと。ケーキ屋でバイトをしていること。幼い頃に両親が離婚して、今は母親と二人で暮らしていること。高校時代の部活のこと。読んだ小説の感想のことまで、途切れることなく何分でも話をしている。
 俺は幼く見える和が、もう十九才だったことに驚いたが、そんなことを口にする訳にもいかない。機関銃のように次々出てくるお喋りを、相槌も打たずにただ黙って、よく動く和の口元と遠くの景色を交互に見ながら聞いていた。
 俺はそばで和の話を聞いているだけだ。和も時々俺に合わせて静かにしているときもあるが、切迫した気まずさはない。中学時代のクラスの女子は、よく俺のことをなに考えているかわからないと言って気持ち悪がったが、そんな女たちとは違う。心を開ける友達なんて一人もいなかったから、長い時間ずっと誰かと一緒にいるというのも初めての経験だ。
 和はどんな風に思っているのだろう。俺との時間を。
 俺だけか感じている親近感なのかもしれないが、和と一緒の空気は心地よかった。彼女の前では、素になれる。無理に愛想笑いをしなくても、つまらない話に合わせなくても、有りのままの俺で居られる。
 この感情は何なのか自分でもわからない。和も同じ思いでいてくれるのだろうか。
 そんな戸惑いと安らぎを感じながら、毎週火曜日はここで過ごした。

 ある日、和が図書館以外の場所でも会いたいから、携帯電話の番号を教えてくれと言った。携帯持ってないんだ、と答えると、ええーっと信じられないと言いたげな声を出した。
「だったら、どうやって連絡すればいいの?」
 困った顔で和が訊く。
 連絡先は大家の電話番号だ。必要があれば大家に取り次いでもらう。それも滅多にあることじゃないが、今まではそれで充分だった。だが、和に大家の電話番号を教える訳にはいかない。
 携帯電話って高いのか?
 俺は和と図書館を出たその足で、携帯ショップに寄った。

 携帯電話を手に入れただけで、すぐそばに和が居る気がして安心する。
 俺は常に手が届く位置に携帯を置いて、相手は和だけの着信をひたすら待った。話したいのならこちらから掛ければいいのだが、元々友達も居なかった俺は電話なんてほとんど使ったことがなく、よほどの用事でもなければ掛けてはいけないと思ってしまう。
 その割に彼女は案外さらりと、用も無いのにかけてくるのだ。

「今何してる?」「別に」
 それだけの会話がとても新鮮で。
「何の用?」「声が聞きたくなって」
 何気ないひと言にうろたえる。

 和が最初に誘ったのは、図書館の近くにある公園だった。和はここの公園が好きだから俺を連れて来たかった、と言った。小さい頃お父さんとよく遊んだ場所らしい。
 芝生の広場の隅に置かれたベンチは大きな木の陰になるので比較的涼しい。向こうのグラウンドでは野球をしている少年たちが歓声をあげている。濃い緑の葉を繁らせた名前も知らない大きな木は、緑の隙間から降る光で地面やベンチに斑模様を作っている。俺たちはベンチをずいぶん長い間占領していた。夏の午後の穏やかな風が吹いている。
 そういえば、俺もここに来た記憶がある。一度だけ、家族三人で来た。かすかに覚えている唯一のいい思い出かもしれない。俺の記憶に残るのは、あの日俺と母を置いて出て行った広い背中だけだと思っていたのに。

 遠くの空が青とオレンジのグラデーションを描き出すのを指差して和がはしゃぐ。
「わぁ。ねぇ、見て。きれーい」
「あ、あぁ……」
 そっけなく答えると不満そうだ。
「ちょっと、ちゃんと見てる?ほらあれ」
 そう言って顔を近づける。じっと俺の横顔を見ていた和が
「幸人くん、まつ毛長いって言われない?」
「言われねーよ」
 和の発見に思わず照れて顔を遠ざける。
「あたしもまつ毛長いんだよ。似てるとこ、みっけ」
 無邪気にくすくす笑う。屈託の無い笑顔で。
 しばらく一人で笑ってから、もう一度こちらを見て彼女が言った。
「幸人くんて、昔からそんなに無口なの?」
 いつからだろう。人と話をするのを拒むようになったのは。心を悟られるのが怖くなったのは。
「本当は、聞いて欲しいことがあるんじゃないかって。そんな気がするの」
 和になら、話してもいいと思った。誰にも話したことない話を。
 滲む夕焼けが、心を少し緩ませた。
「――俺は、いらない子だったんだ」

 幼い頃の記憶にあるのは、厳格で仕事熱心な父と、そんな父に不服も言わずに尽くしていた母との三人暮らし。
 父はあまり家に居なかったが、仕事が忙しいからだろうと思っていた。
 突然だ。突然だったんだ。父が家を出たのは。
「お父さんは他にも家庭があるんだ。この家を出てそっちに行くから、お前はお母さんと暮らしなさい」
 まるでコンビ二にでも行くかのように、振り向きもせず、出て行った。
 夜中に父と母の喧嘩する声が一度だけ聞こえたことがあったから、それがどういう意味か、ガキの俺にも察しはついた。
 母は何事も無かった顔をして、その日もパート出かけた。母が夜中に酒を飲んで泣くようになったのも、俺をヒステリックに怒るようになったのも、その頃からだ。
 母はいつも俺にいい子にしていなさい。そればかり言っていた。いい子にしていれば父は帰ってくるんだね。元の生活に戻れるんだね。俺は本気で信じていた。
 あれは小学一年生の夏だった。夜中になっても、母は帰って来なかった。留守番は慣れているが、今日はなぜだか独りが怖い。寝ながら待とうとしても、暑くて眠れない。節約のためと言われているので、エアコンをつけるのも許されず、布団の上を転がりながら母を待った。
 寝てしまったと気付いたのは、ドアを叩く音が聞こえたときだ。早朝だというのに、けたたましいノックの音に母が帰ってきたのだと思い、勢いよくドアを開けた。
 だがそこに居たのは見知らぬ男の人だった。その人の深刻な表情で言う「幸人くんだね」の声にただならぬ胸騒ぎがした。
「きみのお母さんが電車に飛び込んだ。自殺だったよ」
 驚きはしたが、涙は出なかった。悲しいとかそういうレベルじゃない。悲しさより裏切られたという感情が勝った。
 俺はいい子にしていたじゃないか。お手伝いもしたし、宿題だって忘れずにした。母を怒らせないように笑顔を心がけた。それなのに父も母もどうしていなくなるんだ。

 俺が今度どうなるのかは、大人たちが決めた。父親も親戚もいるのに誰も俺を引き取らない。俺は施設に入所することになった。中学卒業までそこでお世話になったが、いつまでも居るわけにもいかず、その後は職を転々としながら一人でどうにか暮らしてきた。
 母はなぜ俺を残して死んだのだろう。俺と生きていくのが嫌になったのか。
 父は俺のことが気がかりではないのか。捨てた息子のことなど、思い出しもしないのか。
 俺は何のために生きているのだろう。生きる必要がないのかもしれないな。所詮ぼんやりと虚ろな存在なのだから。

「――なんて、面白くもねえだろ。ひくよな、こんな話……」
 照れ笑いしながら和の方を見ると、静かに泣いていた。大粒の涙を流しながら。
 俺が泣かしたのか。俺を不憫に思い哀れんでいるのか。それとも……。
 俺は悪いことをした気がして、いきなりベンチを立ちあがった。和に渡すハンカチなんか持っていない。
「悪りい。俺、帰るわ」
 その場に居られない。俺のせいで彼女は泣いたのだ。俺が慰めるなんて筋が通らない。
 暮れていく空に和を残し、振り向きもせず走り去った。


a0011_000026.jpg


 ――話さなければよかった。
 激しく後悔した。嫌われたかもしれない。もう和に会えない。
 いやそれでいいのだ。俺が誰かと心の触れ合いを求めることなど、初めから間違いだった。どうせ誰も俺には関心ないじゃないか。
 アパートに駆け込むと、薄暗い部屋の隅で、捨てられた子犬のようにうずくまった。

 今夜も熱帯夜に襲われる。
 Tシャツがじっとり汗をかいた背中に張り付く。静か過ぎる不気味な夜に耳に入ってくるのは、俺が寝返りを打つたび布団が擦れる音と、自分のうなり声。
 言いようのない恐怖に怯える。
 ――俺を独りにしないでくれ。
 隠していた本心が叫ぶ。
 置いていかないでくれ。俺はここにいる。誰かに気付いて欲しいんだ。
 強がりを見せかけていても、孤独感は背中合わせに居座り続け、いつだって俺を不安に陥らせる。
 小鳥の鳴き声が聞こえてきた。少しずつ少しずつ、朝が近付く。

 次の日、何度も携帯電話が鳴ったが取らなかった。何と言ったらいいのか。
 やはり謝ったほうがいいのか。泣かせるつもりは無かったなんて言い訳にしかならない。俺の話で泣いたのだから、謝るべきだ。
 ようやく踏ん切りが付いて、五度目の電話で覚悟を決めた。
 待ち合わせの公園に行くと、もう和は来ていた。俺は目だけで挨拶をして、ベンチの隣に座った。
 まずは謝ろう。
 何の迷いも無く、純粋に生きてきた君に、嫌な話を聞かせてしまったな。
 忘れてくれないか。何も気にすることはない。
 頭の中では弁舌だ。
「あの……。昨日のことなんだけどな……」
「あたしね」
「えっ」
「子供の頃、誘拐されたことがあるんだ」
 唐突な切り出しに驚いた。
「四才のときね。あまり覚えてないんだけど」
 彼女は話を始めた。

 幼稚園で帰りの仕度をしていたら、母親の代理だと言う人が迎えに来た。その当時は今ほど警戒心がなかった幼稚園の先生は、その人に和を預けたそうだ。
 和もお母さんの友達と名乗るその女の人に、何の疑いも持たずついて行ったという。見た感じは自分の母親と同じくらいの年齢で、綺麗で大人しそうな人だったから、それだけで信じてしまったと和は言う。
 その後電車に乗ってどこかのデパートに連れて行かれ、アイスクリームを買ってもらい、屋上で乗り物に乗ったのは覚えているらしい。
 しばらくして、和が疲れたからおうちに帰りたいと言ったら、その人の態度が急に変わったと言う。
「あたしがママの所に帰りたいと言ってぐずったらね、その人はパパとママを困らせてあげましょうよ。もう少し私と一緒にいましょうね、と言うのよ。でもやだやだと言って泣きそうになったらね、その人、あたしの顔を覗き込んで、私と一緒に死んでくれる?と言ってあたしの首に手を掛けたの。あたしびっくりして大きな声で泣いちゃったの。するとその人は、そうよね、私とじゃ嫌よね、と言ってそのままどこかへ行ってしまったわ」
 しばらくその場で泣いていたら、デパートの従業員が来て、迷子センターに連れて行かれ、連絡を受けた父親と母親が血相変えて迎えに来たらしい。
「ママはずっと泣いていた。パパは申し訳なさそうな顔して黙っていたの。それからはパパもママも誘拐の話をあたしの前ではしなかったけど、その後すぐ離婚したの。子供心に誘拐が原因だって分かったわ」
 そこまで話して和は大きく息をした。
「あたしのせいだ。あたしが誘拐されたからパパとママは仲が悪くなっちゃったんだ。ママはあの日のことは忘れなさいって言うけれど、あたしはっきり覚えてる。パパが何度もママに謝っていたのを。パパは悪くないのに。あたしが誘拐されたから……」
 最後の声は小さくてよく聞こえなかった。泣きそうになるのを我慢しているのが俺にもわかった。

 話のすべてを黙って聞いていたけれど、思い出すのも辛い話を俺にしてくれる和を、何度もいとおしいと思った。肩に触れたいと思った。彼女の笑顔の奥にある辛い記憶を、少しでも楽にしてあげたいと思った。
 和も辛い過去があったのだ。それなのにいつも明るい。世間の連中だって顔には出さないが、他人に言えない傷を抱えて生きているのかもしれない。子供の頃の辛い記憶をいつまでも引きずっているのは俺だけだ。
 和は長いまつげを濡らして俺を見た。
「心を閉じたままでいるともっと辛くなるよ。あたしたちは似たような痛みを持つもの同士」
 ひざの上に置いた俺の手に、和はそっと自分の手を乗せた。
「あたしには、幸人くんが必要だから」
 和の目を見つめ返した。黒と白の目は今まで俺を冷ややかな同情の目で見てきた奴らとは違い、温かく包み込む。
 感情を表すことも、本音を他人にぶつけることも、今まで避けてきたのは、他人に心を開いたとしても、裏切られ捨てられるのを恐れていたからだ。凍りついた心を溶かしてくれる人を待っていたのかもしれない。
 俺は和に思いのすべてを伝えたかったけれど、どう言えばこの安らいだ気持ちが伝わるのかわからない。ただじれったくて、いろいろ頭で考えるより先にしたことは、俺の手の上にある和の手を掴んでみたら、彼女も俺の手を握り返してくれたので、ほっとして息を吐いた。

 子供を捨てた父と、子供を残して逝った母。俺があの日、怯えながら母を待っていたのと似た思いで、母は帰らない父を待ち続けていたのだろうか。
 俺たちを捨てた父は、今頃別の家族とのんきに暮らしているのかと思うと、憎しみより先に軽蔑心が湧く。勝手にすればいいさ。たかが記憶の残骸に過ぎない。もうつきまとわないでくれ。
 俺はいったい、いつまで過去に怖気づいているのだ。
 眠れない暑さが今夜もべたべたと纏い付き、得体の知れない恐怖が過去から這い上がる。
 
 それから数日後、星のきれいな夜ふけのことだった。
 アパートで退屈していると、急に和から電話があった。
「今すぐS病院に来て! 幸人くんのお父さんが……」
 なぜ、和が俺の父親を知っている。俺でさえ会うどころか、何年も音信不通だというのに。
 ともかく俺はS病院へ急いだ。
 彼女から聞いた病室のドアを恐る恐る開けた。深刻な気配にたじろいだが、病室に入るとすぐ、ベッドに横たわる老人に視線をやる。点滴チューブをつけた腕は細く、鼻からも管が通っている。白髪交じりの頭に痩せこけた頬、まさかこれがあの厳格で怖かった父親なのか。
 ベッドの横には、和がうつむいて立っている。
「幸人か」
 しわがれた力ない声。十何年ぶりに聞く父親の声だ。こんな形で再会するとは。俺のことなんか忘れて新しい家族と幸せに暮らしていると思っていた。
「何だよ、おやじ、死にそうじゃねえか」
 老いぼれた父は、長いまつ毛の窪んだ目でじっと俺を見た。懐かしそうに、安心したように。
「お前たちには申し訳ないことをした。死ぬ前にこれだけは詫びたかった」
 お前たち……? 何を言っているのだ。疑問は直感的に疑念に変わった。
「妹だ」

 すべてを理解した。父が俺と母を捨ててまで手に入れたかった家庭のことを。
「こうして永く病を患っているのも、お前たちを不幸にした罰だ。ずっと会いに行こうと思っていたが出来なかった。死を前にして成長した息子に会いたいと願ったのは、私のエゴだ。すまない……」
 そこまで言うと父は咳き込み、慌てて和が背中をさすった。
 俺は黙って背を向けると、逃げ出すように病室を出た。
 脳が交錯する現状に混乱状態に陥っている。廊下の奥にある談話室へゆらゆらとたどり着いた。しばらく窓際に立ち通し、星空を見上げていると少しは冷静になれた。

 憎しみと怒りしかなかった父だ。それなのにあんなに衰えて気弱なこと言いやがって。これじゃあ殴ることも出来ないじゃないか。
 過去の恨み辛みを吐き出したとして、それで俺は満足なのか。
 さっき父は俺たちを不幸にしたと言った。俺は不幸だったか? ふて腐れて世の中に背を向けていたのは自分の身勝手だ。誰のせいでもない。
 和の家庭さえも守ることが出来なかった愚かな男を、今はもう哀れむしかない。天罰のように寂しく命が薄れていく男の生涯こそ、不幸ではないのか。
 和もまた、同じ父によって辛い過去を背負わされた、血を分けたきょうだいなのだ。
 和を思えば、俺の投げやりな感情は繊細なものに取って代わる。俺たちは細胞で繋がれていた。
 和を誘拐したのは、きっと俺の母親だ。
 断定は出来ないが本能がそう伝えた。母の自殺は、良心の呵責に苛まれたあげくの、誤った判断だったのかもしれない。

 夜の窓ガラスに映っていたので、背中を向けていても和が後ろに立っていたのが分かった。
「お父さんの容態が……」
 表情は見えないが、かすれた声が辛さを告げている。
「知っていたのか?俺のこと」
「……うん」
「いつから?」
「初めて図書館に行った日から」
「……そうか」
 心配して俺の近くにいてくれたのか。同じような悲しみを持つ俺のそばで、声を聞いて、話をして、泣いてくれる。和にとってはこんな俺でも兄なのだ。俺と分かち合いたかったのかもしれないな。
 血の繋がる家族がいる。俺を気に掛けてくれる人がいる。そう気付いただけで、俺の存在は輪郭を持ち、はっきりと地面に足を着けた。
 それとも存在とは俺の中ではなく、誰かの中にあるもので、それは目に見えなくても、心で感じるものだ、とでも言うべきか。
 もう熱帯夜に悩まされる日は来ない。確信を持って言い切れる。

「和」
 振り返り俺が呼ぶと、彼女はうつむいていた顔を上げた。
「お前の心の中にいる。それが俺の存在理由だ」
 和は少し微笑んだ。
 なぜ生きるのか。人は答えを求めたがる。生きる答えが見つからなければ生きられないわけじゃないのに。
 急いで病室に戻ろう。そしてこれだけは父に伝えよう。俺は不幸ではなかったと。

 空にうっすらと光が生まれた。朝はもうじきやって来る。



                              了



関連記事

この記事へのコメント

kage

Re: 家族

fateさま。
感想ありがとうございました。私にはもったいなさすぎるほどの詩的で素敵な感想をいただきまして、恥ずかしくなりました。あなたのブログにもお邪魔しました。私なんかと違い熱心に執筆しておられますね。素晴らしいです。
ここは一応小説のランキングサイトに登録させてもらっておりますが、小説はどこやねん!と言いたくなるほど端っこに追いやられ新作は更新されておりません。本気で書いておられる人に申し訳ないです。なんかすみません。そんな私の小説(らしきもの)を読んでいただいて。ありがとうございました。

Posted at 00:12:58 2011/09/27 by 朔の月(さくのつき)

この記事へのコメント

kage

家族

切なく、素敵なstoryでした。
知らずに出会って、思い合って、親というカルマ、家族というカルマに翻弄された二人。
それでも、何故?と思い続けた積年の疑問が解けたことで、生きる力を得たように思います。
ずっと曇っていた空に、青空が覗き、光が差し始めるような素敵な幕開けを感じるラストが秀逸でした。

Posted at 19:48:28 2011/09/26 by fate

コメントフォーム

kage


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

この記事へのトラックバック