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本気の遊び

kage

2008/06/23 (Mon)

月に2~3冊小説を読んでいます。それって一般的に多いのか少ないのか分からないけど、人気作家や何か賞をとった人の作品は、なるべく読みたいと思っています。でも、これだ!と思う本になかなか当たりません。
趣味の小説書きのはしくれとして、自分の腕の向上のため、何か参考にならないか、という目で読むので、素直に感情移入できないせいでしょうか。
そんな中で唯一ビビッときたのは、ある直木賞作家の作品。(名前は出さない)
深い描写力と面白さ、痛快でライトな感覚を漂わせながらも、親子関係友人関係を考えさせられる……。私にとっては満点の本でした。そんな本と出合うと、私もこんなにも人を感動させる小説を書きたい!と奮起します(その時はね)
ここのブログにある小説たちは、全てNovelMarkさんに投稿させてもらっています。
NMの人たちはみんな親切。いつも的を射た指摘や向上心をそそる批評をいただけるので感謝しています。SでもありMでもある私は、厳しい意見が欲しくてたまりません。上手くなる為にって意味ですよ。テニプリのリョーマ風に言えば「上手くなりたい!もっと!もっと!」といったところでしょうか。
プロに匹敵する素晴らしい作品を投稿されている他の会員さんに刺激され、私もこの人たちみたいないい作品を書きたいと思います。
ではいい作品を書くにはどうすればいいの?それには読書量が関係すると思うので、まずはいい本をたくさん読もうと思う(今頃気付くな!)
漫画ばっかり読んでいるとお思いか?一応文字も読んでるんだぜ!この私も!
プロになりたいなんて大それたことは思ってないし、公募にも出しません。ならば、なぜ小説を書いているんだろう。
それは、たぶん、楽しいから。中高時代の部活が文芸部でもないし、大学も文学部ではない。小さい頃から詩や小説をノートに書きとめたなんてしたこともない。ほんの数ヶ月前、「なんか最近携帯小説って流行ってるよね。私にも書けそうじゃん」ってノリで始めた単なる趣味。ただそれだけ。まぁでも、私の作は携帯小説の部類ではないと自分では思ってるけど(んーどうかな?)きっかけは携帯小説サイトのあの子たちと同じだろうな。
……なんてこと言ったら、真面目に文芸の勉強をしているNM の人たちと並んで投稿させてもらっているのが申し訳ないか。
でも、なーんか楽しいの。字を書くのが。
妄想族の頭の中にあるストーリーを文章にしてみる、ただそれだけのことなのにね。
エースをねらえの岡ひろみがテニスが楽しくてやめられないように。スラムダンクの三井寿が「バスケがしたいです……」と涙ながらに告白したように。(古すぎて誰もわかんないよ)
今、小説投稿サイト、ブログ、ミクシィなどで自作の小説を発表している人って、ものすごくたくさんいるのね。みんな私と同じような人たちなんだろうな。
小説ブームの次は、詩ブーム、俳句ブームがやってきたりして♪

犬夜叉最終回考察

kage

2008/06/20 (Fri)

『唯一正しい願い事をすれば四魂の玉は浄化され消滅する』
今まで四魂の玉を手にしたものは「唯一正しい願い事」をしていない。
奈落は「桔梗の心が欲しい」 桔梗は「犬夜叉を人間にしたい」
世界征服や自分の野望の為ではなく、ほんの些細な願い。なのにその望みさえ、四魂の玉は叶えてくれませんでした。そして最後に四魂の玉を手にしたかごめは、唯一正しい願い事とは何かに気付きます。
かごめが願ったこと、それは
「四魂の玉、消えなさい!永遠に」
その言葉通り四魂の玉は浄化され、この世から消え去ります。
人間も妖怪も、四魂の玉欲しさに長きに渡り争いが繰り返されていました。その争いの元を消し去ってしまえばいい。
楓ばあちゃんが「かごめは四魂の玉を滅するためにここに来た。かごめのこの世界での役割は終ってしまった」と言っています。だから、かごめは現代に戻り、犬夜叉は戦国へ。そして、井戸は閉じてしまったんだと。

物語の始め、かごめを戦国時代に呼び寄せたのは四魂の玉だと思っていたけど、四魂の玉を滅するため…というのなら、誰がかごめを呼び寄せたのか。桔梗か……?それとも四魂の玉の中で永遠に闘い続けているという巫女翠子か……?
そもそも、井戸を行き来出来るのが、なぜかごめと犬夜叉だけなのか?
正確には、井戸を通れるのは、かごめと犬夜叉と四魂のかけら。四魂のかけらがタイムマシンを通って未来に行ってしまえば、過去の完成された玉はなかったことになるのに。
大人の事情……? 漫画だから漫画だから。

…という疑問も残しつつ、話しを戻して。
四魂の玉の消滅と共に通れなくなった井戸。映画では井戸が通れなくなったとき、時代樹の木を通して犬夜叉とかごめの心が通い合い、井戸が通れるようになりました。漫画8巻では塞がれた井戸が通れたのは、四魂のかけらの力でした。
では、今回は何故井戸が閉じてしまったのか。
かごめは自分で考えます。四魂の玉の闇の中に閉じ込められた時、みんなのいる現代に帰りたいと願ったこと、自分のするべきことを終えたので、戻らないといけないと…。自分の気持ちのせいで通れなくなったんだと。
それでも、犬夜叉に会いたい、と強く願ったら、再び井戸があっちの世界へ繋がりました。
四魂の玉の力を借りなくても「犬夜叉に会いたい」の気持ちだけで、井戸が通れるようになるってこと?そんな「どこでもドア」的なものだったのか…。だったら、3年かけなくても、すぐにそう思えばよかったんじゃ……。

そして、かごめの匂いを素早く感じ取った犬夜叉は、井戸へと迎えに行きます。
3年ぶりの再会なのに、そんなあっさりと…。ちょっと出かけてました、みたいな…。
犬夜叉ファンとして残念なのは、犬夜叉と桔梗は作中で2度キスシーンがあります。でもかごめとはまだ一度もキスしていない。高橋先生は最終回のためにキスシーンを残してあると思っていたのに!……なかった。
もっと、むぎゅーーって抱き合って、ぶちゅーーってキスして欲しかったな…(あ、少年漫画だったか、これ)

そしてかごめは戦国で犬夜叉と共に生きる道を選びます。
弟の草太が言っていた。「ねえちゃんは嫁にいった」と。
そうか、そんな感覚なんだ。なかなか帰って来れない遠くの国に嫁に行くような…。
最後は犬夜叉が現代に行くのかと思っていたけど、嫁と考えればかごめが戦国に行くのも分かるような気がします。

最終回で書かれた、それぞれのメインキャラのその後…。
珊瑚と弥勒は結婚して「私の子供を産んでくだされ」のプロポーズ通り、3人の子供が産まれ、琥珀は退治屋の修行の旅へ。七宝も立派な狐妖怪になるための修行中。
りんは楓の村に残されています。てっきり殺生丸が連れて歩くのかと思っていたけど。
「人里に戻す訓練」だって。いや、元々人里で暮らしていたのを殺生丸が連れて出たんでしょうが!「どちらでも選べるように」らしいが、このまま人間の村で暮らすのか、殺生丸のところへ戻るのか。りんはどちらを選ぶんでしょうね。殺生丸はついて来て欲しいんだろうな。しょっちゅうお土産もって様子を見に来ているみたいだしー。物で釣ろうってか。素直について来いとは言えないお方だからね。
かごめに呼び捨てにされても、あんた呼ばわりされても平気だった殺生丸が、「お義兄さん」と言われたら、ピクッって反応していました。……嫌なんだ…。いや、嬉しいのかな?
お義兄さんってことは、もう犬夜叉と祝言はすませたのかしら。
もし殺生丸がりんと結婚したら、りんはかごめのお義姉さんになるわけね。りんと殺生丸……すんごい年の差婚。だって殺生丸って100歳くらい?もっと? それ気にしちゃだめ。

最後のページの「私はここで生きていく。犬夜叉と一緒に」のこの二人の顔、いい顔してたな。
『大団円』とタイトルにありました。大団円とはすべてが上手くいって結末を迎えること。本当にそう思います。感動のフィナーレです。拍手!
最終回で初めて分かった。
『犬夜叉』ってかごめ主人公のラブストーリーだったんだ。

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感想(168件)




悲しい事件

kage

2008/06/11 (Wed)

秋葉原殺傷事件の被害者の友達の日記がミクシイにありました。
あと一歩下がっていたら自分が死んでいたかもしれないのに、自分は助かってよかったことなど一言も書いてありませんでした。
言葉を失います。

犯人が書き込みしていた携帯サイトに、犯行を止めさせようとしたり、友達になってあげる、とか書き込みしていた人もいたんだって。なのに、「お前ら本当の友達じゃない」だってさ。
なに考えてんだ!あいつ!自分で本当の友達も作れないくせに!

現場でたまたま居合わせた人たちが救助に集まってくれたらしい。その中にはいわゆるアキバ系の人たちもたくさんいたって。
かっこつけたチャラ男は、興味本位で写メで撮影。
人間の本質って、見た目で決まるのかね?
それなのに、被害者にB型肝炎の人がいたから、救助にあたった人が感染しているかもしれないって。
そんなことテレビで言ったら、他人を助けたら損をするって思う人が増えたらどうすんの!
報道の人達も、犯人のお父さんを責めてもしょうがないじゃん。

その友達の日記には、犯人に向けてこう締めくくってあった。
「死ねよ、カス」
正直、私もそう思う。
不謹慎を承知で書かせてもらいます。世の中が嫌になったのなら、全く関係の無い人たちの命を奪わずに一人で死んでください。

なぜこんな悲しい事件が後を絶たないのでしょう。
月がデスノートを使った意味がわかるな…。

犬夜叉53巻感想

kage

2008/06/11 (Wed)

自分の体から出てきた刀・爆砕牙を手に入れた殺生丸は、りんたちを楓の小屋に残して曲霊を追いかけます。
殺生丸が奈落を追うのも、曲霊を追うのも、理由は簡単。コケにされた仕返しのため。「私のプライドが許さん」とでも仰りたいのでしょうか。んでもって、殺生丸が曲霊の幻影と遊んでいる間に、犬夜叉一行の元へ本物の曲霊が現れ大暴れ。そこへ、やっと幻影と遊ばされてることにお気づきになった殺生丸が、でんっと大き目のコマにて登場。ヒーローは遅れて現れるって言うけど、あらあらやっぱり曲霊を取り逃がしてしまわれました。
「弥勒が大変なことに…」と聞いても「あっそう」的な表情だったのが、「りんが」と聞くや否や、ぴゅ~っとりんの元へと一目散。もうりんが可愛くてしょうがないって感じですね。
ところで、殺生丸さまはこれから先、りんをどうしたいんだろう。このまま綺麗な娘に育てて嫁にでもするつもりなんでしょうかね。このロリコン!
殺生丸の父も人間の女と愛し合って犬夜叉が生まれた。その犬夜叉もかごめ(桔梗)が好き。そしてあれほど人間嫌いだった殺生丸も、りん可愛さに親馬鹿状態。つくづく人間の女好きの犬妖怪一族だな、おい!
……話は本編に戻って、殺生丸がりんの元へ向かっている間を狙って、犬夜叉一行の前に現れた奈落。琥珀が活躍するけれど、首の四魂のかけらを盗られて、さあ大変!
最後のひとつになった琥珀の首の四魂のかけら。これがあれば四魂の玉は完全な玉になる。でも、かけらを取れば琥珀は死んでしまう。さすが高橋留美子先生。幸せムードから絶望へと一気に落とす演出が上手いわ。
殺生丸をも手こずらす曲霊との決戦は、先送りになってしまいましたとさ。


絵本を読んでふと思う

kage

2008/06/10 (Tue)

昔話やおとぎ話ってけっこう黒いよね。童話には教訓的なものが含まれていないといけないらしいけど「かちかち山」の教訓ってなんだ?
いたずら狸を捕まえたものの、逆に狸に殺されたお婆さんはお婆さん汁にされてしまい、悪党狸はその骨を流しの下に隠します。それを知って嘆き悲しむお爺さんの代わりに敵討ちを買ってでたうさぎが、狸の背中のかやに火を点けたり、火傷に唐辛子を塗ったり、土の舟に乗せて川に沈めたり。とうとう狸をいたぶり殺しておしまい♪
これってやられたら倍にしてやり返せってことよね。
「舌きり雀」も、お爺さんのお弁当を食べてしまった雀を持ち帰り飼ってやるが、お婆さんの留守中に洗濯糊を食べてしまう。その罰として舌を切られた雀は『雀のお宿』に逃げ去るが、つづら欲しさにやって来たお婆さんに大きなつづらを持ち帰らせ、お婆さんはつづらから出てきたお化けにやられて死んでしまう(本によっては気絶と書いてあるものもある)
結構、最後に悪者が死んで終わりっての多いな。
でも、舌を切られたのもそもそも雀が悪さをしたからだし、お宿で楽しく暮らしたり話をしたりも出来るのだから、別にいいじゃないか、と思うのに、お婆さんにちゃっかり仕返しをするのは忘れない。
この話、怖いのは雀のほうじゃない?
「ジャックと豆の木」は、大男から金の卵を産むにわとりや、金の竪琴を盗んだあげく、豆の木を切って大男を落として殺してしまうジャック。大男が下界で何か悪いことをしたとは書いてない本もあるのに。
……と、素直に絵本が読めない私は、冷めたオトナになってしまったか。

テニプリ考察

kage

2008/06/10 (Tue)

テニスの王子様を読む前は、その題名からイケメンパラダイス的な、キャーキャー的な漫画だと思っていた。
でも違った。あそこまで熱闘汗臭ものだったとは!
私は昔、テニススクールで2年間習っていたことがあります(堀尾と同じね)。辞めるまでずっと初心者コートで打っていたドヘタだけど、スプリットステップとかスライスサーブとか教えて貰ってた気がする(まっ、出来なかったけど)
なので、あんなスゴイ技を連発するのもまんざらありえなくはないな、と思う。でも、分身したり、なんかわからんオーラ出したり、ボールの威力で観客席まで飛んでいったり、他人に化けたりって…。
おいおいおい!テニス漫画だろ!テニスで勝負しようよ!それを真面目な顔で読んでる自分が恥ずかしいわ。
と、ともかく、この作者さんのすごいところは、青学レギュラーや他校の生徒など登場人物がやたらたくさん出てくるけど、誰一人として顔、性格がかぶる人がいないこと。キャラ設定がしっかりしてある。
タッチでおなじみの○だち充は言うまでもないけど、何を描いても同じ顔、同じ髪型、同じストーリー。今人気の砂○計も、私には登場人物の区別が出来ません。お祖母さんもお母さんもお父さんの再婚相手も、同じ顔に見える。しかも、藤くんと大吾は正反対のタイプっていう設定なのに、髪の色が違うだけで、さらさらヘアも体格も喋り方も全部一緒なんだもん。
そんな漫画の多い中、テニプリは外見だけでなく性格もちゃんと書き分けてある。この人ならここでこういうことを言うだろうな、って台詞を言わせてあるし、顔の描き方も微妙に違う。
例えば、菊丸と越前は似ているようで同じに見えないのは、目ひとつ取っても瞳の塗り方、大きさ、カーブ、一重瞼と二重瞼……とちゃんと書き分けできているから、目のアップだけでも誰だかわかる。
ライバル校の選手たちもあれだけファンが多いのは、一人一人の魅力あるキャラを生み出すことの出来る作者さんの技量だと思う。
『焼肉の王子様』で菊丸が越前に「お前、生意気だぞ」と言ったら、「それが売りッスから」と言っていた。あの人自分で自分のキャラわかってんだ。
親戚の中学生に「テニス部に必殺技出す人いる?」って聞いたら、「いるわけねーじゃん」と言われた。そりゃ、そうだ。はい。

小説『ミントガムのあなた』

kage

2008/06/06 (Fri)

甘甘恋愛小説

  『ミントガムのあなた』


 まったく、嫌になる。毎朝毎朝この窮屈な満員電車。何回乗っても慣れやしない。ううん、慣れたくもない。
 長い髪を時間をかけてせっかく綺麗にセットしたのに、誰かのスーツのボタンに引っかかったりするし、汗をかいた中年のおじさんがぴったりくっついてきたりもする。朝からこの不快感、本当に何とかならないかしら。
 私は電車が揺れるたびに、前後左右にいる人と不本意なおしくらまんじゅうをしながらいつもそう思う。周りの人に八つ当たりしてもしょうがない。みんな同じように嫌な思いで乗っているのだから。あと二十分で私の目指す駅に着く。それまでの辛抱だ。つり革をぎゅっと握り締めながらヒールの先で踏ん張った。

 カーブに差し掛かって電車が大きく揺れたその時、私のお尻に何か当たっている感触が。間違いない。誰か触っている。人ごみに紛れているつもりだろうか。人と人の隙間から誰だか分からない男の手がにょきっと出て、薄いフレアースカートの上から私のお尻を確かに触っている。
 周りを見廻してみる。誰も私を見ていない。でもこの中の誰かが痴漢に違いない。いい加減にしなさいよ。女の子が誰しもおとなしいと思ったら大間違いよ。
 私は今も平然と触り続けるその手をむんずと掴んで上に挙げて、大声で叫んだ。
「この人痴漢です!」
 一瞬にして注目を浴びる。するとその手の先に、気弱そうな中年サラリーマン風の男の慌てふためく姿が現れた。
「ち、違いますよ。ボクはやってません」
 甲高い声でその男は、顔の前で手を左右に振りながら言った。どう見ても動揺している。
「明らかに触ってたじゃない! この手で」
 強く言う私に、周りの人たちはみんな無関心そうで、新聞で顔を隠したり、寝たふりしをして、誰も助けてくれない。すると痴漢は逃げられると思ったのか、私の手を振り払って隣の車両の方向へ逃げようとした。
「待ちなさいよ!」
 人を掻き分けて追いかけようとしたその時、ひとりの男性が痴漢の腕を掴んだ。
「どこへ行くんですか。僕、見ていましたよ」
 痴漢の手首をひねるように持ち上げてその男性は強く言った。その時ちょうど電車が駅についてドアが開いた。
「降りましょうか」
 男性はそう言うと、痴漢の腕を掴んだまま、電車の外に出た。痴漢に対しても丁寧な言葉使いをする人だなあ、と思って他人事のように見ていると、男性は私の方を振り返って、あなたも降りてください、と言った。
 紺色のスーツが似合う、きりっとした精悍な顔立ち、私を見た一重瞼の目は鋭いけど優しかった。二十代後半くらいかな。勇敢な人。
 こんな非常時なのに、私は思わず見惚れてそんなことを思っていた。男性に声を掛けられて、慌てて私も電車を降りた。

 男性は痴漢の腕を強く掴んだまま、駅事務所へと足早に向かった。もう逃げられないと観念したのか、痴漢もおとなしく従う。私はこの状況に自分でも驚いて戸惑ったけど、こうなったら後ろからついていくしかない。
 駅事務所に入ると、痴漢騒動には慣れているらしい駅員に、事務的に対応されてちょっとがっかりした。痴漢を捕まえたのよ。私じゃなくて、この人が。
 私と男性はパイプ椅子に並んで座って、駅員の指示を待つ。痴漢は私たちと離れた位置にある椅子に、ふんぞり返って座っていた。
 男性はどうしていいかわからない私の代わりに、駅員に説明してくれた。お陰で私が被害者なのに何も話さなくてもことが進んでいく。駅員は並んで座っている私たちが連れだと思っている。さっき会ったばかりの人なんだけど。
 すると駅員が私たちの前に置かれたテーブルの向かい側に立って、平坦な口調で説明を始めた。
「もうすぐ警察が来ます。あなたは被害者なのですから、警察に被害状況を説明することになると思います。告訴されますか」
 コクソ? ケイサツ? 心臓か破裂しそう。私これからどうなるの。さっきまでは強気だったのに。つい勢いで痴漢を捕まえなきゃって思って。でも警察とか告訴とか言われたら急に恐くなってきた。右手が震えているのを左手で抑えようにも、左手も震えてどうにもならない。震えは全身に伝わった。その様子を隣に座る男性はしばらく見ていたようだけど、私の耳元に顔を寄せ、周りに聞こえないような小さい声で、そっとささやいた。
「君はこの痴漢をどうしたい」
「えっ。どうって……」
 私も彼に合わせて小さい声で聞き返す。
「警察沙汰にするのか。警察が来れば君はどこを触られた、など詳細に聞かれることになる。今、そんなに震えているのに耐えられるかい」
「そんな……。痴漢が捕まってくれれば、それでいいんです」
 私は首を振って答えた。
「そうか。じゃあ、もういいね。出ようか」
 男性は駅員の方を向くと、僕たちもう帰ります、あとはお任せしますと言って、私の肩に手を置いて事務所の外へ連れ出した。駅員たちはあっけに取られたような顔で私たちを見ていた。

 駅事務所を出てしばらく歩くと、だいぶ震えは収まってきた。男性は私の少し前を歩いていたけれど、立ち止まって振り返ると、もう、落ち着いた?、と言ってポケットから出したガムを一枚、私にくれた。ガムを受け取ると、私は気を取り直してやっとお礼を言うことが出来た。
「あの、先ほどはありがとうございました。それに私のせいで会社に遅刻してしまいましたね。すいませんでした」
「ああ、構わないよ」
 男性はそう言って優しく笑いかけてくれた。痴漢にはあんなに毅然とした態度で険しい顔していたのに、私には別人のように穏やかに接してくれる。つい見つめてしまう。
 しばらく見つめ合ったあと、男性は何か付け足したそうに口を開いた。私は言葉を待つが、彼はうつむいて言い掛けた言葉を呑み込むように口を真一文字に結んだ。そして、それじゃあ、と言って手を挙げると、地下鉄の改札の方向へ向かって歩いて行った。私は後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くして見送る。
 手には彼がくれたミントガム。あの痴漢はどうなったのだろう。そんなことどうだっていい。私の頭の中は彼のことでいっぱいなんだから。なんだか胸を射抜かれた気分。もしかして、これって……。

 その後遅れて会社に行くと、当然上司からひどく怒られた。遅刻の理由も説明させてもらえなかった。受付嬢は会社の顔なんだから自覚するように、と言われた。分かってはいるけど、あの状況で自分の職種は何だっけ、とか考えられる余裕はないでしょう。
 はぁ、と息をついて受付のカウンターの横に立つと、隣のユウコが意地悪っぽく声をかける。
「美咲―。ち・こ・く。珍しいわね。何かあったの」
 私は、うん、とだけ言って椅子に座った。

 夕方、更衣室でやぼったい制服から私服に着替え終わると、バッグに入れておいたガムを取り出して見つめる。
 あれからずっとあの人のことが頭に浮んで消えない。名前も訊かなかった。名刺ぐらいもらっておけばよかった。きちんとお礼をしたほうが良かったかな。ふうっとガムを見つめてため息をつく。
 するとユウコが後ろから悪戯な声をかけてきた。
「なーに? ぼうっとして。そのガムいらないならちょうだい」
「だめよ」
 掠め取られたガムを奪い返す。
「どうしたの。今日変よ。今朝の遅刻と関係あんの?」
 うん、実は、と言って、電車の一件を話した。
 話を聞き終わったユウコは、ロッカーにもたれ掛かりながら、ふうん、とはっきり発音して言った。そして探偵気取りの口振りでこう続けた。
「その男、怪しいわね」
「えっ」
「痴漢と共犯なんじゃない? 美咲に告訴させないように外に連れ出して、痴漢を逃がしたかったんでしょう」
「違うよ。そんな人じゃない!」
 ユウコの前に立ちはだかって強く言った。
「他の誰も知らん顔していたのに、あの人は私を助けてくれた。そんな人なんかじゃ……」
「違うと言い切れる?」
 ユウコは腕を組みながら私の言葉を制していった。
「美咲。まさかその男に一目惚れしたんじゃないでしょうね」
 私の瞳の奥を覗き込むようにするので、すべて見透かされた気がして慌てて身体ごと横を向く。
「図星か。美咲は騙されやすいんだから、気を付けなよ」
 ユウコは子供を叱る母親のような言い方をすると、ロッカーの鏡に向かって化粧を始めた。
 ユウコの言うことが本当なら、電車の中で助けてくれたのも計画的ということになる。そんなはずはない。だってあの柔和な眼差しは悪い人には思えない。私が怯えて震えているのを見て、外に連れ出してくれたんだ。共犯だなんて、そんな人じゃない。
 自分に言い聞かせるように、何度も心で呟いた。

 帰宅後お風呂から出ると、濡れた髪をタオルで拭きながら、ドレッサーの引き出しにしまって置いたガムを取り出す。
 青い包み紙にペンギンの絵の付いたミントガム。
 ガムを持つ右手のマニキュアが剥がれているのに気がついた。塗りなおしておかなくちゃ。そんなところまで完璧にしておきたい。あの人に見られたら恥ずかしい。
 明日会えるわけじゃないのに、どうしてこんなにあの人のことばかり考えてしまうんだろう。今朝のことを、頭の中で何度も再生してしまう。また会えるかしら。そうだ、美容院の予約をしておこう。いつあの人に会ってもいい様に、いつも綺麗にしておこう。
 ……また会えますように。
 そう祈って、ガムをドレッサーの引き出しの中の指輪の隣に大切にしまった。

 今朝もいつもと同じ電車に乗る。人の往来の中で、あの人の姿を探すのが癖になった。満員の車内で、辺りを見回してみる。ホームに降りても、視線は紺とグレーのワンパターンのサラリーマン達の中から、あの人を探し出すことに集中する。
 今日もいなかった。そうよね。そう簡単に見つかる訳がない。

 受付カウンターに座ってぼんやり考える。満員電車のあれだけの人混みの中から探し出すのは至難の技だ。何か手がかりでもあれば……。手がかり? そうだ。そういえば胸に社員章があった。丸い形の中にアルファベットのMのようなマーク。ああ、でもはっきりとは思い出せない。それだけじゃあ会社名まで分からない。どうやって探し出せば……。
 仕事中でもそんなことばかり考えてしまう。隣でユウコが呆れたように、ふうっと大きく息を吐いた。

 あの人にとって私はたまたま出会っただけの女。覚えてもいないだろう。ましてや私にこんなに四六時中思われているなんて想像すらしていないに違いない。
 ユウコはあの人は痴漢と共犯だと言った。もしそうなら、何処かでまた同じことをしているのだろうか。そんな人じゃないと信じたい。でもたとえそうであったとしても、私はあの人を嫌いにはなれないだろう。もう特別の人になってしまっているから。あの人が共犯でもいいとさえ思えるくらいに。

 あの人のくれたミントガム。ねえ、ペンギンさん。あなたはあの人の名前を知っているの?
 私は社員章のマークとミントガムのM、この二つに因んであの人のことをMさんと呼ぶことにした。
 ワンルームマンションの薄暗い部屋の中に月明かりが差し込む。パジャマの上にカーディガンを羽織って、窓ガラスの向こうの、星空に向かって声に出してみる。
 ―― Mさん、Mさん、Mさん。

 あなたは今どこにいるの?
 わたしのこと覚えている?

  あなたの名前を呼びかける
  心の中でこだまする
  名前も知らない人だけど
  眼に焼きついて離れない
  
  あなたの眼差し
  あなたの声  
  あなたの手
  あなたの背中
  
  幻影の濁流に溺れそう
  ミントガム 願いを叶えて
  あの人に会えますように

 それからも毎朝、目が覚めると急いで駅に向かう。今日こそMさんがいる予感がして。
 そんな事を続けて二週間経った。会社に遅刻するのを覚悟で、時間をずらして違う電車に乗ってみたり、違う駅から乗ってみたりもしてみた。唯一の手がかり、社員章を見るため男の人の胸元にまず目がいってしまう。同じ会社の人を探し出せば、Mさんにたどり着く気がして。
 毎日、そう今日だって。電車の中でMさんを探し、会社にいてもMさんのことを考えて、家に帰るとお守りのようになったガムを手にしてMさんを想う。今の私のどこを切ってもMさんが出てくるだろう。身体の中はMさんの色で埋め尽くされている。

 お昼休み、社員食堂でAランチを食べながらユウコが言った。まだ諦めてないの、と。
「いったいどれだけの人が地下鉄を利用していると思っているの? その中から見つけ出すなんて奇跡よ」
「ん……」
 私はBランチの白身魚フライを箸で掴もうとして手を置いた。なんだか最近食欲もない。いつもならこれくらいぺろりだったのに。
「ほらー。美咲らしくない。だいたい美咲はかわいいしもてるんだから、そんな名前も知らない人、好きになることないって」少し怒ったようにユウコが言う。
 そう。私らしくない。私はもっと勝気で楽観的だった気がする。こんなにおセンチじゃなかった。
「私、なんか変かな」
「うん。重症だね」

 ユウコに言われて改めて思った。病的に、狂ったように、私はMさんが好き。
 恋をするのは初めてじゃない。だけど今まで付き合った人と、これほどまで胸を焦がす、痛い想いを感じたことはなかった。
 ドライブで行った海がきれいだったとか、地中海レストランで一緒に食べたシーフードがおいしかったとか、そんなことで楽しいと思っていたような気がする。要するに誰でもよかったのかもしれない。
 でも、Mさんに対する気持ちはそんな大まかな感情ではなく、もっとデリケートなものだ。
 少しの言葉のやり取りがあっただけ、それどころか名前も知らない人にこれほど熱くなれるなんて。
 好きになったんだもの。どうしょうもないじゃない。こんな気持ち、恋している人じゃないと分からないだろうな。
 ユウコが何と言おうと私は恋に堕ちてしまったのだ。そう、恋とは堕ちるものなんだ。堕ちてしまえばそう簡単に這い上がれない。

 私はユウコに言った。
「あの人は、忘れられない人なの」
 胸に固い意志を宿して、自分に誓うようにはっきりと。
 ユウコはくすりと笑った。

 忘れることなんか出来ない。自分でも不思議だけれど、会わなくてもどんどん好きになっていく。普通はデートを重ね、たくさん話しをしてお互いを知り、距離を近づけていくものだろう。私はそれが全くないのに好き度はますます上昇していく。
 私が勝手に作り描いているMさん像かもしれない。それでも構わない。
 こうしている間もまたひとつ好きになっている。意識しなくても、恋は走り出すのだ。
 会えなくても決して崩れることのない気持ちは、高く高く一段ずつ階段を昇っていく。そしてその先には、Mさんが私を待っている。そう信じたい。

 ガムを手に持って、部屋の窓を開けて星空を見上げる。招き入れた涼しい風が髪をなびかせる。まだ肌寒い春の夜に身をのり出した。
 Mさんもこの空の下にいる。同じ空気を吸って生きている。

 あなたは今どうしているの?
 私のことなど忘れているの?
  
  あなたに手が届かない
  通り抜ける夜風が私を不安にさせる

  ミントガムに祈る
  お願い Mさんに会わせて

 目が覚めると眩しい朝だった。降りそそぐ光の中なのに、なぜだろう、ふいに淋しさが沁みこんでくる。
 今朝もいつもの地下鉄の駅に向かう。こんなに近くにいるはずもないのに、つい目は探している。やっぱりMさんはいない。こんなことをもう一ヶ月も続けていると、さすがに心が折れそうになる。
 諦めようと思い、またすぐに諦めないと思う。不安を覚えると辛くなる。

 いつの間にか景色がピンク色に染まっていると思ったら、桜が咲いていたんだ。桜は殺風景な街の背景を華やかに変える。Mさんはどこで桜を見ているのだろう。
 桜の花びらが舞い落ちて、肩に降りた。『桜のような一瞬の恋』そんな歌の歌詞が頭に浮んだ。今、この桜の木の下にMさんがいてくれたら。
 街も呼吸している。移り行く時間を、あの日に戻すことができたらいいのに。そう思うと心細さがやってくる。

 営業マンなら毎日同じ電車に乗るとは限らない。出勤前に得意先に寄っていくこともある。たまたまあの日だけこの地下鉄を利用していただけかもしれない。
 やるせなく、ぼんやりそんなことを考えながら、いつもの駅で電車を降りた。早足に急ぐ人の流れの中、見るともなしに前を見ると、先を歩く人影に視線を奪われる。

 まさか。幻覚を見ているのだろうか。私、視力はいいの、間違いない。

 あの時と同じスーツ、同じバッグ、同じ背格好。
 Mさんだ。
    
 どうしよう、体が動かない。心臓がドキンと反応した。早く。何しているの。

 速い歩調で階段を昇っていくその人の、数メートル後ろを追いかけて走る。ああ、でも人混みで速く走れない。急がなきゃ。ここで見失うわけにいかない。なかなか前へ進めない。お願い、行かないで。
 人を掻き分けやっとその人の所までたどり着く。
「Mさん!」
 腕を掴んで声をかけると同時にその人は振り返った。

 冷たい空気が胸を通り抜けた。
 ……違う。Mさんじゃない。
 訝しそうに私を見るその人の腕から手を放し、すいません、まちがえました、と力なく呟く。
 その人は憮然とした顔で、私を頭からつま先まで見たあと、軽く舌打ちして前に向き直り急いで歩き出す。
 立ち尽くす私は人混みの中で崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。雑踏の中、声を出して泣きじゃくる。幾人もの人が、私には目もくれず横を通り過ぎて行く。
 周りの景色は色褪せていく。いいえ、そうではなく私が消えてしまったのかもしれない。周りの人には私が透明になっているかのように、見えていないのだ。存在がなくなっている。

 Mさん。Mさん。
 何もかも覚えている。一重瞼の奥の純粋な黒い瞳も、優しさを秘めた低い声も、耳や鼻や口の形も。 でも、二度と会うことのない人。もうこのまま気持ちを葬ってしまおう。
 私とMさんを繋ぐものは何ひとつない。再びめぐり合うことは不可能だ。私は何を期待していたのだろう。
 また会える、会いたい。そう思えば生きていけた。信じていた。でも今は生きていくのも苦しいだけ。私は抜け殻だ。Mさんの存在が私の中に無くなった空虚を抱えて前に進むしかない。はじめから空想の中で生きる人だった。幻覚だったのかもしれない。そう思って気持ちを押し殺して生きるしかない。
 なぜあの日出会ってしまったのだろう。あの時出会わなければこんなに苦しむことはなかったのに。
 いいえ、そうじゃない。私はこの一ヶ月激しく恋に胸を焦がした。恋のときめきをくれたMさんに感謝しよう。
 熱い涙がぽろぽろとあふれ落ちる。涙って熱いんだ。
 この涙の中に私の想いを全部こめて流し出してしまったからかもしれない。
 泣いたら少し身体が軽くなった。


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 その後はどうやって会社にたどり着いたか覚えていない。気がつくと受付のカウンターに座っていた。
 時々涙がにじみそうになってしまう。ユウコは何も言わなかったけれど、たまりかねて
「美咲、ずっと泣きそうな顔してる。ほら、笑顔」
「ごめん。笑えない。きっと明日は笑えるから、きっと……」
 言葉を発するのも苦しくて、語尾が消えてしまう。また泣きそうになったのを、ぐっとこらえた。
「……美咲。辛いのは分かるけど、十時に村井商事の方が来社予定なんだから、きちんとお応えしてね」
 そんな風に言ったように聞こえたけど、ユウコの声も頭を通り過ぎていく。
 じっとしているとMさんのことを考えてしまう。忘れよう。明日が来て、あさってが来る、それを繰り返していくうちに忘れられるかもしれない。そう思うしかない。思い出になる日がくるに違いない。悲しみは時間の中に溶けていくだろう。

 そう思った時、社ビルの入り口のドアが勢いよく開いた。顔をあげてそちらの方向をみる。ひとりの男性が駆け込んできて、一直線に私に向かってくる。

 うそ。どうして。これは夢?
 私はその人から視線をはずせない。
 どうしてここにMさんがいるの。

 Mさんは息を切らし、私の目の前に立つ。
 村井商事のひとってMさんだったの。
 Mさん? 本当にMさんなの?
 頭の中がざわめく。

 立ち上がってMさんの目を見つめる。やっぱり純粋な目だ。視線が凝固する。
 どうしよう、頭が混乱して声がでない。

 しばらくの沈黙の後、Mさんは意外にも語気が強めの声で話し始めた。
「探していたんだ」
「え……」
「探していた、ずっと君を。君は忘れているかもしれないけど、また君に会いたくて、いつもは使わない地下鉄に乗って探してみたりもしたけど見つからなくて、名前も聞かなかったから何の手がかりもなくて、何度も諦めようと思った。でも諦め切れなくて、今ここに来て、受付に座る君を見て信じられなかった」
 Mさんはそこまで一息に言い切ると、興奮している自分に気がついたのか、ひとつ咳払いをして落ち着かせてから、姿勢を正して、「君は」と言った。そして、一旦顔を伏せて床を見てから、意を決したように顔を上げて私を見ると、一瞬のためらいの後、真剣な表情でこう言った。
「忘れられない人なんだ」

 私たちは一ヶ月前から恋人同士だった。お互いにそうとは知らなかったけれど。好きの気持ちが高まったときに奇跡のようにめぐり会う。そんな恋の魔法にかけられていたのだ。神様は時々こんな意地悪をする。

  あなたの名前を呼びかける
  心の中でこだまする
  記憶の中の人だけど
  胸を埋めつくし溢れ出た

  あなたの眼差し
  あなたの声
  あなたの手
  あなたの背中

  今 私の前に舞い降りた

  ミントガム 奇跡をありがとう
  あの人に 会わせてくれて

 私は今、恋の光に包まれている。
 あなたに言いたい言葉がたくさんある。でも、胸が高鳴って出てこない。
 走る気持ちを伝えるために、私はゆっくり空気を吸って、ゆっくり空気を吐いた。

                                 了

小説『山田クリーニング店は大忙し』

kage

2008/06/06 (Fri)

三作目

    『山田クリーニング店は大忙し』


 秋の夕暮れの日差しが団地の窓ガラスに反射している。突き刺すような眩しさに思わず目を細めた。国道から歩いて二十分ほど離れた場所にある大崎ニュータウンは、公営のアパートが三棟並び、周辺には道路沿いに新築一戸建てや公園がある。昼間は閑静だが夕方になると犬の散歩をする主婦、自転車に乗った中学生、幼児の手を引いて歩く買い物帰りの親子連れ、あちこちから話し声も聞こえ多くの人が住んでいると実感する。
 ここ大崎町は、この団地が出来てから人口が増えたらしい。若い夫婦世帯が多いからだろうか、公園で遊ぶ子供の姿をよく見かけるようになった。町民の数が増えるのは良いことだ。おかげで俺の店、山田クリーニング店の配達の依頼も増える。そうだといいが。俺は期待している。
 団地への配達は、敷地内の駐車場に車を停めてから、この公園を抜けるのが近道だ。遊具は広さの割には少なく、ペンキの剥げたブランコ、滑り台があるだけ。小学校高学年らしき男の子が二人、ベンチに座ってトレーディングカードを見せ合っている。
 配達の品を抱えて公園の真ん中を歩きながらふと見ると、ブランコに座ってゆっくり揺れている若い男がひとり。
 さしずめ会社をリストラされたのを家族に言えず、仕方が無いので家を出てここで時間を潰しているサラリーマンか…… と、ドラマでよくあるシーンを想像し、目を合わせないようにして、ブランコの前を通り過ぎようとした。
 少し行き過ぎたところで、「山田 隆志?」と俺の名を呼ぶ声がした。なんだよ。リストラされたサラリーマンに知り合いはいないぞ、と眉をひそめて振り向くと、男はにやにやしてこっちを見ていた。長身の割りに童顔の、それでいて笑うといやらしい目になるこの男は、そうだ。
「高梨 悠介か?」
 高校の時の同級生で、それほど仲が良かった訳ではない。確か関西の大学へいってそのまま大阪で就職したと聞いた。その高梨がなんでこんな所で? 脳内に疑問を廻らせていると、高梨の方から質問してきた。
「お前、家の仕事継いだの?」
「ああ。去年両親が死んで、仕方なくな。お前は何してる」
「ブランコに乗ってる」
 そう言ってキーキー高い音を立てて漕いでみせた。
「それは見ればわかるさ。大阪で就職したんじゃなかったのか」
「リストラされた」
「当たった」
「え?」
 俺、占い師か? と思ったがすぐ、取りすまして続ける。
「あ、いや、それでこっちに帰ってきたのか」
 高梨は悪びれる色もなく語り出す。
「実家に帰ったら親に、若いモンが仕事もせず昼間っからブラブラしているのをご近所に見られたら恥ずかしいから、仕事見つけるか、アパート見つけるか、どっちか決めるまで帰ってくるなと追い出された」
 おやまあ、本当にあるんだ、こんな話。と思って聞いていると、俺の哀れみの目に気付かず高梨が朗らかに言った。
「どうしたものかと途方に暮れていたら、山田が現れた。救いの神っているんだな」
 救いの神って誰だ? それってまさか、おい。
「お前んち、泊めて」
 嫌やな予感的中。 
「だめだ」
 きっぱり言ったつもりだったが、にやけながら高梨が。
「いいだろ。僕たち親友じゃないか」
「いつから親友になった」
「じゃあ、今からってことで」
 高梨は俺の肩に手を掛けてにこやかに歩き出す。俺は睨みつけてその手を払いのけると、あいつは地面に描いてあったけんけんぱをしながら、後ろをぴょんぴょんついて来る。この時期、五時ともなればうっすらと暗くなる。子供たちが俺たち二人を不思議そうにちらちら見ながら、公園を出て行こうとしている。とにかく早くここを出よう。不審者と通報される前に。
 おいおい、もしかして、厄介なものを連れて帰ってしまったのか。俺は。


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 山田クリーニング店は大崎ニュータウンの道路を挟んで西側の大崎商店街の中にある、うっかり通り過ぎてしまいそうな小さな店だ。商店街と言ってもほとんどの店がシャッターを降ろしていて開業している店はまばらだ。人通りも少ない。駅前開発で近くにでっかいショッピングセンターが出来てからというもの、さらに人通りが減った。もちろん俺の店も例外ではなく客足が減った。まあ、もっとも、でっかい図体に無精ひげ、破れたジーンズに皺だらけの何日も洗ってないシャツを着た、むさ苦しい男がクリーニング屋の店主ときたら、客も寄りつかねえか。商店街の飲食店のユニホームの洗濯を主に請負っているぐらいで、はっきり言って暇だ。
 そんな山田クリーニング店は、高梨がやってきてから、めっきり忙しくなった。
 客が増えたのではない。あいつが余計な仕事を増やしてくれるのだ。
 アイロンがけし終わって積み上げていたYシャツを床に落とす。洗濯済のものを、また洗濯槽に突っ込む。セーターに番号札をやたら大量にくっつける。何処をどう見間違えたのかコートとスカートの値段を入れ替えて請求する。あいつのありえない失敗の後始末に追われる。おかげで俺は忙しい。
 高校の時からうすうす感付いてはいたが、この男はかなり天然なのだ。これじゃあ、リストラもされるわ。前の会社でどんな失敗をしてクビになったのか、恐ろしくて聞けやしない。こんな男を三カ月も家に置いてやっている俺は、心が広いと我ながら感心する。と言うよりは、こうも堂々と居座られては、同棲中の彼女に別れを切り出せず、出て行けと言うタイミングを計れない男の心理が分かる気がしてきた。
 今日も懲りずに店の手伝いをしたがるあいつを「いいから家の掃除でもしといてくれ」と追い払って、ほうきを渡す。しばらくして振り返ると、ほうきで剣道の素振りをしている姿が見えた。お前、剣道部じゃなかっただろ。生物部だっただろ。口に出さずにツッコむのも疲れるわ。奥から、てゃーてゃーと聞こえてくるのを無視して聞き流す。そんなことより仕事だ。あいつにかまっていられない。

 俺は店を空ける訳にいかないから、高梨と一緒に過ごす時間が多い。たいがいあいつは、店の奥の部屋でごろごろしているかゲームをしている。金が無いから何処にも行けないんだろう。居たくも無いのに一緒にいる。倦怠期の夫婦はこんな気分だろうか。なんて想像して、気色わるっと身震いした。
 昼になったのでインスタント焼きそばを作ってやると、寝ていた高梨はのっそり起き上がって、ローテーブルの前に座った。目の前に置かれた焼きそばとしばらく見つめ合っていた。そして、いつになく真剣な面持ちで言った。
「僕、ものすごく腑に落ちないことがあるんだけど。これを考えると夜も眠れない」
 お前、昨日も爆睡してたぞ、と思いながら、一応「何が」と聞いてやる。
「UFOは焼いてないのに、何で焼きそばなの。何で? 何で?」
 ほらみろ。やっぱりふざけた回路しかない。
 面倒なので背中を向けて無視すると、顔を近付けて、しつこく何で何で攻撃してくる。誰か助けてくれ。この身長百八十センチの幼稚園児の相手をしてくれる人は他にいないのか。答えないといつまでも聞いてくるので、「謎だからUFOじゃないのか」と投げやりに返事をした。
「あはは、山田って変わってるね」
 あのなあ。それはお前だろう。高梨に変人呼ばわりされるなんて、最上級の屈辱だよ。
 あいつは悩みが解決されたらしく、嬉々として焼きそばを食い始めた。うわあ、なんだかじんわり腹が立ってきた。
 その後も何故かあいつはご機嫌さんだった。焼きそばのやり取りが、いたく気に入ったらしい。布団に入るまで思い出し笑いを繰り返していた。よく分からん。
 こうして、とっぷり疲れた俺の一日は終わる。

 山田クリーニング店は店の奥が住まいになっている。一階は店と台所と和室が二つ。そのうちの八畳間はリビング兼客間兼高梨の寝室。その奥の六畳は俺の部屋で、足の踏み場も無く雑然としているが、かろうじて空いたスペースに布団を敷いて、そこで寝ている。店の隅に事務用机があり、事務的な作業はそこでやっている。その横に来客用のテーブルと椅子があり、休憩室と呼んでいる。二階には、物干しと物置。
 高梨は暇な時は、と言っても常に暇なのだが、この八畳でテレビを観たり寝っころがって過ごす。将来メタボおやじまっしぐらのこの男に、たまにお使いを頼むと、だるそうに尻を掻きながら、しぶしぶと店を出てなかなか帰ってこない。すると俺は無事に帰ってくるか気になって、探しに行きたい気分になる。一旦、店の外に出てみたが、外の空気を吸ってふと我に返って店に戻った。はじめてのお使いの親か。俺は。
 
 それに高梨は、俺んちにタダで厄介になっている身ながら食事も作らない。食事はたいがいインスタントラーメンかレトルトものなので、作ると言うほどではないが、そんなこともしない。俺が作ってやらないと食べようとしない。自発的な食欲がないのかと思ったが、ただ単に極度の面倒くさがり屋らしい。そのためいつも俺があいつの分もラーメンを作ってやっているのだ。
 エースコックのとんこつ味としょうゆ味が残っていたので、やかんでお湯を沸かして、二つ並べてお湯を注ぐ。出来上がった頃におーい高梨ー! と声を掛けるが、あいつを呼んですぐ来たためしがない。 なかなか来ないあいつを待っていてものびるので、先に食べようとラーメンに手をつけることにした。
 そこでやっと、自分の棲みかから俺のジャージをパジャマがわりにして寝ていた高梨が、あくびをしながら、やはりだるそうに現れた。
 するとラーメンを啜る俺を見るなり、急に目の色が変わった高梨は、まっすぐ伸ばした右手の人差し指を突き出して、「あー!」と大声コンテスト記録に挑戦、のような声で叫んだ。
「僕のしょうゆ! なんで僕が食べようと思ってたしょうゆ味食うんだよ!」
「は? お前のって。どこでお前のだと判別するんだよ」
 興奮した高梨は、さらに声を荒立てる。
「ラーメンと言えばしょうゆだろう! 僕にしょうゆ以外のラーメンを食えと言うのか! 信じらんねえ」
 訳の分からない捨て台詞を残して、障子をぴしゃんと閉めて部屋に閉じこもってしまった。
 ええと、これ、俺が買って来たラーメンだよな。なぜ俺が怒鳴られにゃならんのだ。
 普段、温厚な奴ほど急にキレると怖い。そのスイッチがラーメンしょうゆ味だったとは。高梨は部屋から出てこない。ふやけたラーメンと共に、俺はぽつんと取り残された。
 なんなんだ。あの男は。
 
 まったく、それ以来コンビニに買出しに行くときも、しょうゆラーメン買い忘れていないか気が気でない。
 とにかく、あいつが来てからというもの、仕事もプライベートも散々だ。俺のペースを崩される。俺の方から歩み寄ろうとしても、間抜けな答えしか返ってこない。全くどこ吹く風でつかみ所がない。人の気も知らないであいつは毎日にこにこ上機嫌だ。なんとも幸せな男だ。
 そんな能天気なあいつが、またまた今日も事件を起こしてくれたのだ。
 頼みもしないのに高梨は店で楽しそうにアイロンをかけていた。やるよ。絶対やるよ、あいつは。嫌な予感が過ぎった俺はアイロンを取り上げようと手元を見た。
 あいつの持っていたアイロンは、白いブラウスにハンコのようにくっきりと黒い焦げ跡を付けていた。
「あらら。やっちゃった」
 なぜ、そんなに陽気に言える。高梨よ。やったよ。やってくれたよ。
 怒りも通り過ぎると虚脱感に襲われる。呆然と立ち尽くす俺の横で、奴はへらへらと不気味に笑っていた。

 ブラウスのお客さんは若い女性だった。俺は事情を説明してブラウス代金をお支払いします、と言って深々と頭を下げた。横を見ると高梨が不貞腐れた表情で顎を突き出したまま、かくんとリズムを取るように頭を振っているではないか。
 おい、それ謝ってないだろう。俺は奴の後頭部を掴んで腰が折れんばかりに、床に向かって押し下げた。奴はごめんなさいのかわりに、ぐえと言った。
 そんな様子を見ていた彼女は
「いいんですよ。もうそのブラウス、デザインが古くなったから着るのやめようと思っていたので」
と言って、ブラウス代も受け取ろうとしなかった。ラッキーと言ってⅤサインをして見せる高梨。彼女は高梨を見ながら「楽しそうなお友達ですね」と言った。お友達じゃない。かと言って仕事仲間でもない。仕事してないんだから。疫病神です、とも言えず、はあ、と言っておいた。
 中川翔子似の彼女は、帰りにガラス戸におでこをぶつけて、いたと言いながら振り向いて照れ笑いをしていた。透明感のある白い肌に大きな瞳。俺、今きっとアホ面して彼女を見てる。彼女がバイバイをしたので、俺もつられてバイバイを返した。
 俺の心に春の風が吹いた。

 それをきっかけに彼女は頻繁に店に来るようになった。名前をサキちゃんという。クリーニングする服を持ってきて、そのまま奥の休憩室でおしゃべりしたり、用も無いのにお茶だけしに来るようになった。俺は必死に自分を売り込んだ。
 聞かれた訳でもないが、まずは自己紹介からだろう。山田隆志っす。二十五歳。彼女イナイ歴二年。ボボ募集中です。好きなタイプは中川翔子です。趣味はプラモデル作り。ガンダムなら全種類持ってます。
 サキちゃんは俺の話を黙ってにっこり聞いてくれる。こりゃ、脈ありかも。
 俺はサキちゃんが来る度に、仕事をほっぽり出して彼女の近くにまとわり付いた。彼女が椅子に座ると向かい側に座っていた高梨を押しのけて、彼女のよく見える位置をキープした。高梨が何すんだよとか言っているようだが構いやしない。そんな様子を微笑んで見ている彼女と目が合った。カ、カワイイ。
 彼女がいるだけで、むさ苦しいごみだめに一輪の花が咲いたようだ。健全な男なら当然好きにならない訳が無い。オタクは黒髪ストレートで舌ったらずの女の子をみると萌え萌えしてしまうのだ。お、俺はオタクじゃないけどな。
 彼女は商店街の喫茶店で働いている。店の地味なメイド風のワンピースの制服をクリーニングに持ってきた時は、それを手にしてよからぬ妄想をしてみたりもした。彼氏いるのかな。二人っきりでデートに誘ってみようか。とあれこれ計画を立てていたが、思いとどまった。
 サキちゃんは俺に会いに来ているのだと思っていた。どうやら違うらしい。彼女の高梨を見る目が明らかに俺を見る目と違う。なんかこう、ウルウルしていることに、ある時俺は気がついた。
 まさか。しょうゆラーメンのことになると豹変する男を? 見た目は大人、頭脳は子供の逆コナンくんの男を? まともな会話のキャッチボールも出来ないノーコン男を? いかん。変な汗が出てきた。
 世の中理解不能なことは多々あるが、今どき珍しく清純そうな彼女が、あんな役に立たない能天気な男を好きになるなんてことがあるのか? 高梨としゃべるより俺とよく話していたような気もするが。高梨の奴もサキちゃんの前では、いつも通りのん気にしていたはずだ。それなのに、なぜあんな奴の事を? 俺の思い過ごしだろうか。
 そう思っていたある日、俺の疑惑を決定付ける時が来た。

 サキちゃんが手作りのクッキーを作ったから一緒に食べよう、と言って店にやってきたのだ。彼女の働く喫茶店で出す新メニューのハーブティーを考えたから、試飲して欲しいとも言った。
 サキちゃんは台所でハーブティーの用意をしている。俺たちは緊張して待った。ふっ。高梨の奴、正座してやがる。俺んちで正座なんか今までしたこと無いだろう。俺は自分も正座していることを忘れてくくくっと笑った。我が家の台所に女の子がいる光景をはじめて見た感動に、鼻血が出そうだった。
 彼女がおまちどおと言って、自宅から持ってきた、こ洒落たティーカップに入ったハーブティーをローテーブルに置いた。
 ローズヒップティーだという。見ると底になにやら粒々したものが沈んで濁っている。変わったお茶だなあ、と思ってサキちゃんに問う。
「あのう、これは?」
「あんこ入れて見ました」
 と、人差し指を立てて妙に楽しげな声でいうサキちゃん。
「は? あんこ?」
「紅茶に蜂蜜やジャムいれるでしょ? じゃあ、あんこもありかなーって。どうぞ。飲んでみて」
 両手のひらを差し出して勧める。
 おそるおそる、どんより濁った液体を口に運ぶ。梅干の汁のような、赤くてすっぱい味と、あんこの甘ったるい味が、口の中でけんかしている。
 傷つけない言葉を探して、答えに困っていると、隣であの男が言った。
「むちゃくちゃうまい。新発見だよ」
 ぶるんと首を高梨へ向ける。
「絶対人気メニューになるよ」
「そうでしょ! 高梨さんなら分かってくれると思ってた!」
 潤んだ目でサキちゃんは言った。
「そうだな。抹茶をトッピングしてみたらどうだろう」と、高梨。
 ……話しが弾んでる。不思議ちゃんの彼女と、高梨のかもし出す天然オーラはぴったりマッチしている。彼女が高梨に惹かれる理由が分かった気がした。
 やっぱり、お前ら似合いだわ。異国の珍獣を見る目で二人を遠巻きに見た。
 ちょっと待て。もはや、こうなるとクッキーも疑ってしまう。
「これにも、なんか変なもの…… いや、変わったもの入れてるの?」
 するとサキちゃんは朗らかに言い返す。
「いやだなあ。変なものなんか入れてませんよ。和風とコラボにこだわってみようと思って、味噌としょうゆ入れてみました!」
 ……って、おい、これ、罰ゲームか。横目で高梨の反応をみる。当然うまそうにパクついている。勇気を振り絞って俺も一口食ってみる。うまかった。

 やっぱり彼女はあいつのことを……。いささか納得はいかないが、そうと分かれば俺の心にブレーキがかかる。
 いさぎよい男なのだ。断じて未練がましくない男、それが俺だ。
 しかしそんな俺より高梨は昔からなぜだかもてる。高校の時も隣の女子高の子が、電車の中で手紙を渡したと聞いた事がある。確かにあいつは男の俺から見ても、いい男だ。黙っていればだけど。悔しいけどそれは認めよう。伸ばしただけの寝癖がついた髪も、見ようによったら流行の無造作ヘアーにも見える。背が高いので、どんな服でもなんとなく決まってる。
 でもあいつが女の話題をしているのを聞いた事がない。女に興味がないのか。そんな男いるのか。サキちゃんにも気がないのか。どう思っているのだろう。もとよりあいつの頭の中は宇宙の果てより未知の世界なのだが。

 そんな謎を残したまま、あの日はやってきた。男にとって、幸と不幸を二分する日。恐怖のバレンタインデーが。
 予想どおりサキちゃんがチョコレートを持って店にやってきた。
 俺にはいかにも義理ですと言わんばかりの、スーパーで買って来たようなチョコ。あいつには高級チョコに手編みのマフラーも一緒に添えて恥ずかしそうに手渡していた。どちらが本命かなんて一目瞭然だろう。これで彼女の気持ちに気付かない男はいないはずだ。
 サキちゃんは、太目の毛糸で編まれた編み目が不ぞろいのマフラーを高梨の首にかけて、わあ、似合う、と言った。実に分かりやすい娘だ。それにしてもあのマフラー、右端と左端の幅が違うような。編んでいくうちにどんどん広がっていったのか。どうやったらそうなんだよ。まあ、サキちゃんが気にしてないようだからいいんだけど。
 でも肝心のあいつは、嬉しいとも困ったともどちらともいえぬ顔をして、ただ膝の上に手を置いて首に巻かれるがまま、じっとしている。サキちゃんが帰ると、せっかくもらった黄緑とオレンジ色のストライプのマフラーをまた包装紙に包んで、店の棚の一番上に突っ込んだ。その後もずっとそこにある。せめてサキちゃんの前だけでもしてやればいいのに。この際センスが悪いとか、どうでもいいだろう。
 高梨は彼女の気持ちに気が付いてないのか。それとも気が付いていての行動なのか。気になる。ああ俺はまた、あいつの気持ちを探るという無理難題にぶち当たってしまった。
 だが、サキちゃんのことを考えると、どうにかしてやりたい気もする。

 休憩中、奥の部屋でテレビを観ている高梨に何気なく近づく。テレビに集中しているあいつに、俺は平静を装って声をかける。
「サキちゃん、いい子だよな」
「そうかな」
 高梨はテレビから視線をそらさない。俺は続けて言う。
「好きな人いるのかな」
「さあ、どうだろう」
「俺、デートに誘ってみようかな」
「ふうん、いいんじゃない」
 高梨は無表情に返す。反応の薄いあいつの横顔を見ながら、核心を突いたことを思い切って聞いてみる。
「お前はどうなんだ」
「何が」
 そこで初めて俺をみた。
「いや、だから、あの子のこと好きなのか」
 するとテレビの方に再び視線を戻した高梨が言った。
「うーん、僕、そういうの経験ないから」
 は? 今何と? 女の子を好きになったことがか? 付き合ったことがか? いやもしかして他のコトが経験ないってことか? この年で? 
 あいつはテレビの笑いのツボと違うところで大笑いしている。もうこの話題には興味がないらしい。俺も追及する気も失せた。
 そうか。高梨はいろんなことに未経験のかわいそうな奴だったんだ。よし。それならいろんなことにお兄さんの俺が、一肌脱いでやるか。

 いや、まて。高梨がサキちゃんを好きじゃないのなら、話しが別だ。なぜ、あんなかわいい彼女に興味がないのだろう。
 そしてあの日、そんな俺の疑問を跳ね返す事実を知ることになった。

 それは俺がクリーニング品の配達に車で出かけた時の事だった。大崎商店街通りのコンビニの前に差し掛かったとき、ガラスの向こうの店内で漫画を立ち読みしている高梨を目撃したのだ。あいつ時々仕事中にふらっといなくなるが、こんな所で油売っていたのか。とっちめてやる。そう思って車から降りた。そこで俺は高梨の不可思議な行動に気が付いた。
 高梨は手には漫画を持っているが、目は手元を見ていない。あいつの目線をたどって理由が分かった。
 コンビニの前の道路を挟んで向かい側にある店はサキちゃんが勤めている喫茶店だった。あいつはコーヒーを運ぶサキちゃんの動きに合わせて目で追っている。立ち読みしている振りをして、目はサキちゃんに釘付けだ。
 おいこら! それじゃあ、まるでストーカーだろう。
 これってつまり、高梨は俺の前では彼女に気がない素振りを見せて、実は惚れていたのか。俺がサキちゃんを好きだったのを知って、気を遣っていやがったのか。あいつ、どういうつもりだ。居候している身のせめてもの心遣いのつもりか。馬鹿にするな! そんな事しなくても俺は女に不自由してな……くもないけど。それでも俺にはプライドがある。 
 あいつに女を譲られたなんて腹立たしさがふつふつと湧き上がった。日頃から不愉快にさせられても耐えてきた俺だが、今度ばかりはかなり頭に血が昇った。
 お前ら結局両思い? へいへいそうですか。あほらし。いつまでもそこでストーカーしてろ。
 俺は運転席に戻ってドアを勢いよく閉めて、車を急発進させた。

 その日以来俺は高梨と口をきかなくなった。これにはさすがに鈍感な高梨も気になるらしく、ねーねーなんで黙ってるのと背後から忍び寄って耳元でささやく。俺に目撃されたとはよもや知るはずもないあいつの、しつこいねーねー攻撃に無視攻撃で対戦する。小さいな、俺。かすかに頭をかすめた。
 構って貰えないと限界がくるらしい。高梨が子供のような声で叫んだ。
「何? 山田、今頃反抗期? だったら僕も朝晩ゲームに明け暮れる不良少年になってやるからね!」
「いや、それ、普通に現代っ子の姿だろう。それに、この年じゃあ少年とは言わない」
 と、言い終わる頃には、あいつは後ろにはいなかった。奴はテレビの前で楽しそうにゲームに熱中していた。
 なんなんだ。こいつは。一気に脱力した。

 その日の夕方、近所のおばさんが、たくさんのおはぎを御裾分けしてくれた。そういえば、最近よく近所の人からものを貰う。
 すると高梨がしみじみと言った。
「隣のタバコ屋のおばあちゃんもおはぎ好きなんだよね。この辺りって独り暮らしのお年寄り多いんだよ。僕、持って行ってあげようかな。ああ、その前に」
 高梨はおはぎを二つ、小皿に取り分けて、八畳間の棚の上にある、俺の両親の位牌の前に置いて軽く手を合わせた。
 台所に戻ってくると「軟らかいうちに持って行ってあげたほうがいいだろ」と言って、おはぎを皿に四つのせて急いで店を出て行った。

 高梨はこっちに来てまだ数ヶ月しか経っていない。でも俺は近所のどこの家が年寄りの独り暮らしなのか、その人の好物まで知らない。あいつにお使いを頼むとなかなか帰って来ないのは、年寄りの話し相手にでもなっていたのか。
 高梨の意外な一面を見た気がした。いや、違う。俺が見ようとしていなかったのか。俺はあいつといるといらいらするが、嫌いかと言えばそうではない。このおはぎも、高梨がいるから貰えるのだ。確かに高梨が店にいると、お客さんとの会話もふわりとして場が和む。家の中に赤ちゃんがいるだけで優しい雰囲気に包まれるように、あいつは居るだけで周りに柔らかな空気を振りまく。それは俺にはない、あいつのチカラだ。サキちゃんは俺より先にそれに気が付いたのだ。悔しいような、ほっとしたような気分だ。俺より高梨のほうが大人なのかも知れない。なんだか自分が恥ずかしい気になって、おはぎを一口頬ばった。
 高梨は二時間後、みかんをたくさん抱えて帰ってきた。

 俺は高梨とサキちゃんに上手くいって貰いたい。今、心からそう思える。
 だがしかし、高梨に「俺の事は気にせず、あの子と付き合え」と言っても意地を張って言う通りにはしないだろう。かと言って、彼女から告白しても、俺に気兼ねして、うんと言わないかもしれない。
 まったく手の掛かる男だ。俺は豪快な寝相と盛大ないびきを製造するこの男の横に座って、煙草に火をつけた。薄暗い部屋の中に、白い煙が広がる。俺は二本目の煙草を吸い終わる頃に、ある名案を思い付いた。

 翌日、夕飯の弁当を買ってコンビニから戻ってきた高梨。僕唐揚げと言いながら休憩室のテーブルの上に、袋から出した弁当を並べている。俺はお茶の用意をしながら話を切り出すチャンスを窺う。嬉しそうに唐揚げを食べる高梨の前に湯呑みを置いて、対面に座る。あいつを上目に見ながら「あのさー」と呟くように言ってみる。
「サキちゃん、今夜実家に帰るんだとさ」
「えっ」
 高梨は箸で挟んだ唐揚げを床に落とした。
「帰ってお見合いするんだって。本当は好きな人がいたんだけど、振り向いて貰えないから諦めて今夜の夜行バスで発つって言ってた」
 高梨から視線をそらさず俺が言った。高梨は目を泳がせながら、唐揚げを落としたままの姿勢で固まっていた。しばらくの沈黙の後、高梨は明らかに動揺した声で「へえ、そうなんだ」と言った。
「どうするよ」
「どうって。どうもしないよ」
 俺と目を合わさず、上擦った声で答える。高梨に普段のにこやかな表情はない。
 何を考えている。サキちゃんのことか。俺のことか。迷う必要などない。今が答えを出す時なんだ。
 高梨は見据える俺の方を見もしないで、うつむいて目の焦点が合わないまま、貧乏ゆすりを続けている。床に落ちたままの唐揚げ。
 痺れを切らして俺が叫ぶ。
「余計な事を考えるな。決断しろ! 高梨!」
 その言葉に後押しされたのか、高梨はうつむいていた頭を上げ、棚に駆け寄り包装紙を乱暴に剥がしてマフラーを握りしめた。普段のあいつからは想像も出来ない真剣で決意に満ちた目つきになった高梨は、マフラーを持って店を飛び出した。
 やれやれ、世話の焼ける男だ。俺もあいつの後を追って店を出た。

 商店街を抜けた大通りにある高速バス乗り場。一キロはあるそこまで全力疾走する高梨。俺もその後ろを必死に追いかける。しかし、あいつ速えーな。こんなに速く走れるのに、なんでいつもぐずぐずしてんだよ。はあはあ息を切らして遅れてバス停までたどり着くと、バス停のベンチに座るサキちゃんを見つけ、彼女の向かい側に立って、息を切らしながら前かがみに膝に手を当てている高梨がいた。彼女は高梨を見上げると「どうしたの」と言って立ち上がった。
「よ、良かった。ま、間に合った」
 声も絶え絶えに高梨がほっとした顔をして言った。息が落ち着くのをサキちゃんは黙って待っている。
 その様子を電柱の陰に隠れて俺は見守った。
 しばらく向かい合ったまま沈黙に包まれる二人だったが、ようやく高梨がひとつ深呼吸をしてから声を発した。
「す、すきです。付き合ってください」
 なんともオーソドックスな告白だな、おい。ひねりなさい。でもあいつにしたらよくやったよ。
 サキちゃんは笑顔で泣いている。指で涙を拭きながらコクリとうなずいた。
 ほら、高梨。涙を拭いてやるとか肩を抱くとかキスするとかしろ。頭を掻いて時刻表見ている場合じゃないだろ。
 だいたい実家に帰るというのに大きな荷物も持たず、手ぶらに近い格好でバス停にいる、その時点で嘘だと気付きなさい。
 自分で涙を拭っているサキちゃんは、電柱からはみ出た大きな体の怪しい存在に気付いてこちらを見た。俺は彼女に目くばせをして、右手を握って親指を立てて合図を出す。だっせー。

 さて、ひと仕事終わった。家に帰るか。俺は走ってきた道をひとりでゆっくり引き返す。
 ポケットに手を突っ込み、煙草を取り出した。立ち止まって火を点けて、夜空に向かって煙を細く吐き出すと、心地よい夜の風がすぐに白い煙を消し去った。空の上にはお月さんが優しく俺を照らしている。俺の春はまだ遠いさ、お月さん。春は訪れなくとも、二人の恋の成就を見届けて不思議と爽快な気分だ。あいつの照れくさそうな笑顔がとても新鮮に思える。俺は一人っ子だけど、兄弟ってのは、こんな感じなのかもしれない。喧嘩をしても目に見えない絆がある。

 さあ、帰ろう。今は俺ひとりじゃない山田クリーニング店へと。とにかく俺はあいつのお陰で忙しい。まず部屋を暖めて、酒の用意をしよう。そして、どうしようもなく馬鹿で楽天家で厄介者の、親友の帰りを待つのだ。



                                        了




小説『恋愛のお葬式』

kage

2008/06/05 (Thu)

二作目

 『恋愛のお葬式』

 私は黒い服は着ない。心まで暗くなるから。
 赤い服を着て、心の中をごまかしている。心が晴れるわけじゃないのに。

 この会社に勤めて五年目。同僚が寿退社するのを、何人も見送った。
「次は、ナツミ先輩ですね」という後輩の言葉も、いやみにしか聞こえない。
 総合商社の営業アシスタントと言っても、男子社員から回って来た書類をパソコンに入力するだけ。それも私より若い男子から。入社当初から変わらない単純な書類整理と、新人のミス処理にも飽きてきた。
 お茶くみは新人の仕事。男たちは新入社員の子にお茶を入れてもらえるのが嬉しいらしい。私も新人の頃はちやほやされたこともあったけど遠い昔のような気がする。それでも山下課長のお茶だけは私が入れることに暗黙の了解として通っている。
「山下課長。今日はどちらにされますか」
「そうだな。コーヒーにするか」
「分かりました。コーヒーですね」
 瞳の奥を探る。
 給湯室に行き、作り置きのコーヒーを、カップに注ぐ。課長の好みは、砂糖なし、ミルク多め。
 課長と私の関係は、二年になる。
 これは、二人の合図。コーヒーなら「今日はマンションに来る」お茶なら「今日は来れない」
 課長がコーヒーを頼んだのは、何日ぶりだろう。なぜだか自然と心が弾む。コーヒーにミルクを垂らして、白い渦を巻くカップの中を見ながら思わず鼻歌が出てしまう。
 「嬉しそうですね」
 ふいに、後ろから声を掛けられ、一瞬焦って振り返る。
「ナツミせんぱーい。今日の赤いカーディガン、新しいの買ったんですかぁ。先輩って赤とかピンクとか似合いますよねー。年のわりには」
 一言多いこの子は、後輩の真美。同期入社の女子社員はみんな辞めて、今一番仲がいいと言えるのはこの子しかいない。
 私が給湯室に入るのを見ると、自分もやってきて仕事を怠ける。お茶を淹れにきたわけでもないのに。茶色い巻き髪を指でいじっている真美を横目で見ながら、カップをお盆に乗せる。給湯室を出ると、真美も細かい歩幅で後をついてくる。
「せんぱーい、今日飲みに行きましょうよぉ」
 この子は甘えた声でしゃべるのがうまい。狙いなんだろうけど。
「今日はちょっと先約が……」
 視線を合わさず私が言う。
「へえ、そうなんだ」
 歩きながら真美はそう言うと、営業室の奥に座る課長と私を交互に見る。
私は、黙ってコーヒーを課長のデスクの上に置いた。課長はパソコンに目をやったまま、ありがとうと言った。
 真美は意味ありげな笑顔で私を見ながら、自分の席に着いた。
 おそらく、真美は二人の仲に感づいている。あの子に知られたら、会社中の人間が知っているも同然。まあ、いいけど。
 どうせもう、他の社員も知っている。美人と言われている私がこの会社でもてないのは、そのせいか。

 仕事は定時で終わり。残業なんかしない。
 夕暮れのスーパーマーケット。ショーケースの中で明るく照らされた、スモークサーモンを手に取る。夕飯の買い物に忙しい主婦たちに混じって食材を選ぶ。いつものインスタント食品をひとり分と違って、今日の荷物はずっしり重い。ちょっと買いすぎたかな。
 さっきまでオレンジ色だった空が、もうすっかり暗くなり、ネオンが一層明るく光る。家路につく足が、いつもより少し早くなっているのは気のせいだろうか。
 駅に近い都会的な高層賃貸マンション。独り暮らしの女が住むには広すぎる。けれども無理してでもいいところに住みたい。
 課長は言っていた。妻はカレーやスパゲティのような子供向きのおかずばかり作るから嫌になるよ、と。
 だから、課長の家では出されることのないフランス料理を、本を見ながら作る。ブランドのお皿にきれいに盛り付け、テーブルコーディネートも凝る。ワインもちょっと高いのを奮発する。妻の知らないところで張り合ってみる。コーヒーカップもお箸も、私たちお揃いなのよ。知らないでしょう。

 そろそろ来る頃かも。壁に掛かった時計を見上げてはそわそわしてしまう。まるで夫の帰りを待つ新婚の妻みたいだ。
 料理も出来た。部屋も片付いてる。よし、完璧。
 用意が終わった頃に、玄関のチャイムがなる。ドアを開けると、課長がのんびりとした声で「やあ」と言って、右手を挙げて立っていた。どうぞと言うと、慣れた足取りで、部屋の中に入る。いつも同じ位置に座る。ソファの右端。
「山崎くんのマンションに来るのは二週間ぶりか。久しぶりだな」
 そう言いながら部屋を見廻した。
「三週間よ」
 課長は私を下の名前で呼ばず、山崎くんという。会社でうっかり呼んでしまったら、まずいだろう、と言っていた。二人きりの時くらい名前で呼んでくれてもいいのに。細かいことにもこだわってしまう。
 小さなテーブルに向かい合って座り、ワイングラスを合わせる。ワインも赤が好き。冷たく熱い赤がいい。
 一口飲んで、視線をワインから私に移した課長が言った。
「今日の服、いいね。きみは明るい色がよく似合う」
「そう。ありがとう」
 思わず顔が綻ぶ。
 課長はいつもそんな風にさり気なく褒めてくれる。口紅変えたの? とか、髪染めたの? とか。それもわざとらしく言うのではなく、思い出したように。私のちょっとした変化に気付いてくれる男は、他にはいない。そんなところが、大人の魅力で好きだった。

 肌になじんだお互いの体温を確かめ合うと、課長はすぐ、バスルームに向かう。
 あの人は一度も泊まったことがない。早く妻や子供の待つ家に帰りたいのだろうか。水曜日は残業デーとでも言ってあるらしい。決まって水曜日にしか来ない。
 家庭のある男を好きになった。若い男にはない包容力と安らぎが欲しかった。でもこんなこと続けていてもしょうがない。体とは裏腹に頭ではそう思う。妥協と迷いが私の奥底でひしめき合う。
 シャワーを浴びて、私の匂いを消すと、あの人は妻が買ってきたであろうYシャツを着る。
 二人きりの時は私を愛してくれている。それでいいと思っていた。でも今は、付き合い始めた頃のようなときめきはない。あの人から家庭の色が垣間見えると、不安と苛立ちが背中に降りてくる。
 そういえばこの前も、「今年四歳になるんだ。かわいいだろう」と言って、あの人は私に携帯の待受に貼った娘の写真を見せた。「かわいいですね」と言うと、細い目をさらに細くして「そうだろう」と言った。私が軽蔑の眼差しで見ているのも知らずに。そんな無神経さには、さすがにいい気はしない。所帯じみている安物の靴下やネクタイを見ても醒めてしまう。昼休みに奥さん手製のお弁当を食べ後、お弁当箱を給湯室で洗っているのも知っている。奥さんに命令されているのだろうけど、嫌がらずに洗っている姿を、以前ならかわいいと思えたのに、今では無性に腹が立つ。
 課長じゃなくてもいいのに。なんでこの人と一緒にいるのだろう。
 課長との噂が広まっているので、この会社で別の男を見つけるのは無理だ。かと言って他に出会いもない。二十七歳という年齢が私を焦らせる。課長と別れたってかまわない。次は私だけを愛してくれる男を探そう。

「来週、きみの誕生日だろう。会うか」
 背中を向けてネクタイを締める課長の声は、生地の摺れる音と共に確かにそう聞こえた。珍しい。次の約束をするなんて。私の心の揺れに感付いているのだろうか。そんな優しさが憎らしい。
「さあ、空いているかどうか分からないわ」
 わざと曖昧に返事をしてみる。
「そうか。きみもいろいろ忙しいんだな」
 さらりとそう言うと、あの人は玄関に向かって歩いた。玄関までついて出てあげない。私はベッドの中であの人の後ろ姿を見送る。

 誕生日は絶対他の男と過ごしてやる。私だってその気になれば、デートする男の一人や二人いるのよ。
 そう思ってはみたもの、適当に声を掛ける訳にもいかない。女友達を誘うのは無理。みんな結婚しているか、彼氏がいる。真美を誘うにしても、あの子のことだ。「誕生日を祝ってくれる男もいないんですかぁ」などと言ってくるに違いない。
「もう二十八歳か……」
 仕事中だということも忘れ、思わず声に出してしまった。デスクに肘をついて、意味の無いため息をもらす。若い頃は二十八歳にはもう結婚していると思っていた。こんなはずじゃなかったのに……。あの人は私が別れを決意していることを知らない。今はもう、こっそり付き合う努力も煩わしい。部下に仕事を命じている課長をパソコン越しに冷ややかに見て、そう思った。

 朝起きると、恨めしいほど晴れていた。なんでこんなにいい天気なのよ。せめてどしゃ降りにでもしてみなさいよ。
 いったい誰に腹を立てているのだろう。私は。
 お気に入りのピンクのスーツを着て、家を出た。お化粧はいつもより念入りに。誰のためでもなく私のために。
 誕生日当日、課長には他に予定がある、と言っておいた。結局のところ誰も誘う人はいなかった。誰でもいいから声を掛けるのも、しゃくだったし、たまには誕生日にひとりで過ごすのもいいと思ったから。さみしくなんかない。

 会社帰りにショートケーキを一つと、ワインに合うチーズも買った。マンションに帰るとサイドボードからおそろいのグラスの片方を取り出して、立ったままワインを注ぐ。誕生日をひとりで過ごす人は日本で何人いるんだろう。私だけではないはず。そうでも思わないと気がめいる。
 窓際に立って夜景と重なったガラスに映る私と向かい合う。今のこんな顔、見たくない。
 ため息をついて一口飲む。ワインってこんな味だったっけ。この前課長と飲んだ時は、もっとおいしかった。広すぎる部屋に私はひとり。
 あの人は今頃、家族と食事をしているのかも。考えたくないのに、ひとりの時はつい頭に浮んでしまう。
 ぼんやりソファの右端を見つめていると玄関のチャイムが鳴った。誰だろう。こんな時間に。
 ドアを少し開けてそっと見てみる。隙間からのぞく課長と目が合った。
 目じりにしわのある優しい顔で微笑みながら、片手に持ったワインを肩の高さまで持ち上げて私に見せた。
 驚いて見据える私に、「なんだ。いるじゃないか」と言った。
「どうして」
「いいワインを見つけたから、きみと飲もうと思ってね」
 課長は朗らかにそう言って部屋の中に入ると、いつものようにソファの右端に座った。
 この人は私の本心を察して来てくれたのか。いつもそう。何も言わなくても、私のこと分かってくれている。

 恋愛は愛したほうが負け、という言葉を聞いたことがある。恋に勝ち負けなどあるのだろうか。私は負けたと思ってないし、勝ったとも思わない。いずれにしても愛していることには変わりないのだから。
 その優しい目は、今は私だけに向けられている。それだけで充分だった。こうして二人だけの秘密を共有する。そんな小さなことが幸せと思える。未来の約束はないけれど、今がよければそれでいい。
 理屈では分かっている。彼の私への気持ちは、妻や子供を大切に思う半分にも満たないことも。いずれ終わりがくることも。それでも愛とは見返りを求めずとも、本能のままに存在するものなのかもしれない。
 私はやっぱり深い底から抜け出せない。

 課長は持ってきたワインを一杯だけ飲むと、グラスをテーブルに置いて立ち上がる。ソファの横に置いたバッグを手に取った。
「今日はあまり時間がなかったのだけれど、少しでもきみに会えればと思ってね」
 帰ろうとするあの人の後ろ姿に向かって私は言う。
「今度、いつ会える?」
「そうだなあ……」
 相変わらずのんびりとした口調で答える。私はこの声で癒される。低いけれど、ゆっくりとして語尾に優しさのあるその声に。

 私が黒い服を着るとき。それは恋愛のお葬式。
 そんな日は、しばらく来そうもないだろう。
                                了



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はじめまして

kage

2008/06/04 (Wed)

祝!ブログ開設
だらだらした日常でふと思ったことや、私の大好きなアニメ・漫画の感想を書いていきます。
つーか、ほとんど漫画のことばっかりになるかも、です。

小説『のら猫の住む部屋』 

kage

2008/06/04 (Wed)

これは私が初めて書いた小説です。初心者丸出しだけど修正せずそのまま載せます


    のら猫の住む部屋 



第1章 春海  

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 四月の海は静かだった。空と海の境が分からない程の黒い空間から吹いてくる風は、少し肌寒く感じた。
 夜の海岸。人影がいなくなったのを見計らったように、修司は今日も砂浜を走る。
 修司がこの海辺の町に来て三ヶ月になる。漁師町にしてはよそ者に無関心で詮索したがらないこの町は修司にとって住みやすかった。
 風が冷たいと感じたのは初めだけで、少し走ればすぐ汗が噴き出る。
 修司は目的があって走っている訳ではない。習慣のようなものだ。誰もいない夜の海は誰かに見られることもなく何も考えなくていい。こんな夜更けに、こんな場所で、男がひとり、冷ややかな空気に汗を飛ばしながら走っているとは、誰も思わないだろう。
 走りながら、何気なく目をやると、黒い海面に動くものが見えた。確かに人影だ。ゆっくりと海の中へと入って行くように見える。まずいものを見てしまったと思ったが、このまま通り過ぎる訳にはいかない。修司はフラフラと入っていくその人影を目指して、海の中へと急ぐ。
後ろから近づく水音に気付きもせず、前へ進もうとするその人の腕を掴み振り向かせた。月明かりの下、近づいて初めて見えた。人影は若い女性だった。女は急に腕を掴まれてはっとすると「はなしてよ」と腕を払いのけようとする。
「面倒くさい奴だな。 死にたいなら俺の見てない時にしろ」
 女は修司を見上げると、何かを思い出したかのように動きが止まった。修司はその視線に気付くことなく「ほら、戻るぞ」と言うと、腕をぐいぐい引っ張って浜へと引き返す。女はおとなしく従った。
 浜にバッグと靴が置いてあるのを見つけると、
「これ、お前のか」
 拾って乱暴に渡す。
「ちっ。お前のせいで俺までずぶぬれだよ。おい。こっちだ」

 修司は漁師小屋へ勝手に入って行く。かまわず棚の上からマッチを探り出して、囲炉裏に火を点ける。女はつっ立って修司のやる事を見ていた。
 すると修司はTシャツを脱いで、近くにあった木箱に引っ掛けた。
 毛布を女の足元に放り投げると、火の前にしゃがんだ。
「お前も脱いで乾かしたほうがいいぞ」
 無表情に言うが、それには女は答えず、ブラウスの胸元を掴んだままガチガチと震えながら、戸口の前で立ち尽くしている。
「まぁ、好きなようにしろ」
 修司は座ってまっすぐ火を見ている。女はじっと修司の横顔を見つめていたが、急に決心したかのように、足元にある毛布にくるまってブラウスとスカートを脱いだ。修司がしたのを真似して木箱に服を引っ掛けて火に近づけた。
 しんとした小屋には火の燃えるパチパチという音だけが響いた。時折、夜の風が戸に当たって、きしむ音を立てて小屋が揺れる。その度に、女は毛布を掴んで身をすくめる。風が止むと再び静寂に包まれる。女はこの小屋に入って一言もしゃべらない。何分経ったのだろう。修司は沈黙を断ち切るようにふいに立ち上がった。
「乾いたな」
 独り言のようにそう言ってTシャツを着る。
「じゃあ、俺、帰るから」
 女の方を見もしないで突き放すように言うと、気にする様子もなく足早に小屋を出て行った。

 修司の住まいは、海岸線から道路を挟んで歩いて十五分くらいの住宅密集地の中にある、二階建ての古いアパートだ。
 しばらく歩くと修司は自分の足音の他に、少し後ろからリズムの違う足音が近づいて来ているのに気が付いた。
 この町は漁師町だ。あまり夜に人影はない。足音は海からついて来ている。
 アパートの入り口まで来たとき、修司は足音の主が誰なのか知っているかのように、呆れたため息を付きながら振り返った。
 思ったとおり、さっきの女がいる。修司が急に振り向いたのに驚いたのか、びくっとして立ち止まった。
「何だ?お前。どこまでついてくるんだよ」
 眉をひそめて発した修司の言葉に、女は「私、この町初めて、泊まる所ないし。……今日泊めてもらえないかな?」と怯えたようにそろそろと答えた。
「はぁ? 何考えてんだ。男の部屋に泊まるなんて。何するかわかんねえぞ」
 声を荒げた修司を恐れることもなく、すねた口調で女は言い返した。
「だって。一人で夜道歩くのこわいし。海にいたら、私また自殺するかもしんないよ。死んじゃうよ」
 アパートの前で、突然大声で自殺だの死ぬだの言われたものだから、修司は焦ってあたりを見回す。
「とりあえず入れよ」
 仕方なくそう言って鍵を開けると修司が先に部屋に入った。その後に続けて女も入る。

 六帖一間のその部屋の中は、物はあまりなくて散らかってると言うほどでもなかった。部屋の隅に小さいキッチンがあり、コンロにやかんと小さい鍋が一つ、マグカップが一つあるだけで、食器らしきものはなかった。大きな登山用のリュックが開けっ放しの押入れに突っ込んであった。家具はなく、洗濯してあるのかないのか分からないTシャツやタオルが二~三枚、畳の上に丸めて投げてある。布団はなく、毛布やタオルケットが出しっぱなしにしてあった。
 女は周りを見回して、そろっと部屋の中へ足を踏み入れた。
「今日だけだからな」
 修司は無愛想にそう言うと、毛布を女の足元にどさっと置いた。見知らぬ解せない女にこうも親切にしてやるとは、自分でも意外だった。
「ありがとう」
 修司は聞こえているが何も答えない。
「それから、もう一つ、ありがとう。命を助けてくれて」
 無表情のまま修司は振り返りもせずに、黙々とリュックから寝袋を出して広げ、自分の寝床を作っていた。
 すると、女は部屋の真ん中に架かっている洗濯物干し用のロープを見つけると、
「あのー、カーテンとかシーツとか、ないよね」
 と言いながら、部屋の中を物色し出す。
怪訝な顔で、女を見ていると
「あぁ、これでいいや」
 女はタオルケットやバスタオルを、ロープに広げて洗濯ばさみで挟んで、勝手に部屋を二つに仕切っている。
 さすがに無視し続ける訳にもいかなくなった修司は「勝手に何やってんだよ」と声を掛ける。
「こっちには入ってこないでね。あなたの陣地はそっち」
 女は平然と答えると、指で畳に線を引く。
「覗いてもだめよ」
「……。ちっ 勝手にしろ」
 修司は自分の陣地に入って、背中を向ける。
 女は男臭い毛布にくるまって、すやすやと眠りについた。
 修司は恐ろしく非常識な女の身勝手さに腹が立ったが、まぁ、明日までの辛抱だ。そう自分に言い聞かせて寝ることにした。

 翌朝、修司はいつもより早く目が覚めた。と言うより、ほとんど寝ていない。自分の部屋なのに落ち着かなかった。
 洗面所にいき、蛇口を勢いよく捻り、水を周りに飛び散らせながら、顔を洗った。正面の壁に貼り付けてある鏡を覗いた。無精髭の顔からしずくがぽたぽた落ちる。情けないほど寝不足顔の男がそこにいる。
「はー。ちくしょう」
 ため息をついた。なぜだか悔しかった。
 すると、物音で目を覚ましたのか女の声が背後から聞こえる。
「ふぁ、おはよう」
 幸せそうな声に、修司は少しいらついた。
 修司は女をちらっと見ると、急いで支度を済ませた。支度といっても、歯を磨いて、着替えて、トイレに行って、五分程で終わる。まだ毛布にくるまって、うずくまっている女の方を見もしないで、
「俺、仕事行くから。夜までには出て行ってくれよ。鍵はかけたら、郵便受けに入れといて。じゃあ」
 それだけ一方的に言うと、なぜか急いで玄関のドアに手を掛けた。
 修司は背中に注がれている、確信めいた視線に気付かぬまま、部屋の外に出てドアを勢いよく閉めた。

 第2章 迷い猫

 修司はこの町に来て以来、建設工事現場で働いていた。いろいろな町を転々として、様々な仕事に就いた。
 黙々と働いて汗を流し、仕事が終わると、帰り道にあるいつも同じコンビニに寄り、パンやカップラーメンや飲み物を買ってアパートへ帰る。暗い部屋の灯りを点け、買ってきた食糧を食べ終わると、海へ行き浜辺を走り、終業間際の銭湯へ行く。家に帰るともう、あとは寝るだけだ。
 これが、修司の日課だ。いつもさほど変わりはない。
 それが、今日は違った。
 アパートの部屋の前まで行くと、灯りが点いている。ドアに手を伸ばすと、鍵もかかっていない。
 まさかと思ってドアを開けると、昨日の女がいる。
「おかえり」
 明るい声に意表を衝かれた。
「何やってんだ? お前」
 ドアの前に突っ立ったまま、眉間の皺をさらに深くして修司が聞く。
「今、お腹すいたから、あそこのコンビニでおにぎり買ってきて食べてたところ」
 と、女はまるで留守番していた子供のように答えた。
「そうじゃなくて。なんでお前、まだここに居るんだよ」
「だって、行くところないし。……ああ、でも大丈夫。バイト見つけたから。駅前のスーパー。明日からそこで働くことにしたから」
 さらりと気安く答える女に修司は足音を大きく立てて近づくと、むっとした表情で声を荒げて言った。
「大丈夫って何だよ。どういうつもりだよ。仕事見つかったなら、さっさと出て行けよ」
「だって、アパート借りるお金ないし。しばらくここにおいて」
「見ず知らずの男の部屋に泊まりこんで、何考えてんだ」
「見ず知らずじゃないよ。私、あなた知ってる」
「!」
 予想外の答えに修司は思わず、声にならない声を発した。
「中塚修司。ボクシング元世界ライト級チャンピオン」
 頭が空白になりうまく反応できない。
「私、あの光ジムの近くに住んでたんだ。高校一年生の時。いつも学校帰りに見学してた。だから知らない人じゃないでしょ」
「……ふぅ、 勝手にしろよ」
「それって、居てもいいってこと? やったー」
 何がそんなに嬉しい。この女は何を考えている? 自分を知っている人が、この町にもいた。
 自分を知る人に会うのが嫌で、現れるとすぐ、町を出て行った。だから一つの町に一年以上居たことはない。
 あぁ、また次の行き先を探すのか……。修司は煩わしくそんな事を考えながら、とりあえず、さっき買ってきたパンを食べた。
 
 狭い部屋の中に気まずい空気が生まれた。もっとも気まずさを感じているのは修司だけだろう。
 (女は何をしているのか。背中を向けているので分からない。でも確かにいる。俺のすぐ後ろに。この部屋に自分以外の人間がいるのは初めてだ)
「共同生活するなら、自己紹介しておくね。私、谷川ユキ。二十一歳。よろしく」
 背中を向けて、無言でパンをかじる男にそう言った。
(これって共同生活なのか?勝手に決めるなよ)
 鬱陶しいので考えるのはやめにして、いつもの日常に戻す。修司は洗面器やらタオルやら持って、部屋を出ようとした。
「どこ行くの」
「銭湯」
「待って。私も行く」
 ユキは立ち上がった。
「私、何も持ってないけど、買えるよね。昨日、お風呂入ってないから嬉しい」
(何なんだこの女は。本当に昨日、自殺しようとしていた人間の明るさなのか)

 早足にどんどん歩く修司の三メートル後ろを、ユキは小走りについて行く。女の歩幅に合わせて歩いてやるなんてことはしない。ましてや、並んで歩くなんて雰囲気でもない。
 三十分後、修司が銭湯を出ると、立ち止まって周りを見た。ユキはまだ出てないらしい。仕方がないので道路の向こう側へ渡り、何気なさを装って、電柱にもたれて立った。
 しばらくすると、ユキが暖簾をくぐって慌てて飛び出てきた。
 修司を見つけると「よかった。待っててくれたんだ」と、ほっとした表情で言った。
「別に待ってた訳じゃねーよ」
 修司はうつむいたまま、目だけユキのほうに向けてそう言うと、振り返りもせずアパートの方向に向かって歩き出した。
 しんとした夜空を背景にして、相変わらず二人は黙ったまま、三メートル離れて歩く。

 部屋に戻ると、ユキは当たり前のように、部屋の仕切りを作った。
「じゃあ、こっちで寝るから。くれぐれも入ってこないでね。覗かないでね」
「のぞかねーよ。興味ねーから」
 度胸があるというのか、無防備というのか、頭がおかしいのか。いくら自殺を止めてくれた男とはいえ、昔、顔を見たことあるとはいえ、男の一人暮らしの部屋だ。普通、男の部屋に泊めてくれなんて言う場合は、それなりの行為もありと決まっている。一夜の関係なんてよくある話しだ。
 しかし、そういう女とは違う。自分から男の部屋に上がりこんでおきながら、そのくせ境界線を作って入ってくるなと、勝手にルールを決めている。ましてや、そのまま住み込むつもりでいる。理解できない。だが、そのルールに素直に従っている自分も普通じゃない。
 即席カーテンに仕切られた部屋の中で、二メートル先に人の気配を感じながら、修司はそんな思いを忍ばせていた。

(ユキは、やたら人に懐いてくる捨て猫のようだ。自分に優しくしてくれた人間に懐いて離れない。もしかしたら本当に猫なのかも……)
 なんて馬鹿げたことを考えて、ふっと笑えた。
 修司は、この突然現れた気まぐれな迷い猫を、しばらく家へ置いてやることにした。

 第3章 部屋の灯り

 修司は日が暮れるのを待って、いつものように海へ行き、汗を流す。
 ユキが修司の部屋へやって来て一週間が経った。いつも仕事を終えて海で走ってからアパートへ帰ると、ユキが夕飯を用意して待っている。修司がそうしろと命令したわけじゃないが、ユキがここへ置いてくれるお礼のつもりと言っていた。
 アパートには食器類や調理器具は何もなかったが、ユキが適当に買い揃え、簡単な料理を作ったり、バイト先のスーパーで惣菜を買って来たりしている。
 そろそろユキはバイトから帰って来る時間だろう。修司はシャドウボクシングを続けながら、そんなことを考えていた。
(同棲カップルじゃあるまいし。ただ部屋を二つに区切って、一緒に住んでいるだけだ)
 頭の中に、ちらちらとユキのことばかり浮んで来るのに自分で気付くと、払い取るように首を振って、軽く舌打ちしながら、海をあとにした。

 街灯の灯りがぼんやりと夜道を照らす。駅前に通じる細い道路沿いの、雑草の生えた駐車場の隣に、修司のアパートがある。
 金属製の外階段を登ると、カンカンという高い音が夜の静けさの中に響いた。
 灯りの点いた部屋のドアを開けると、ユキが「おかえり」と言って出迎えた。
 修司は黙って部屋の中に入ると、小さい袋をテーブル代わりの木箱の上に、無造作に置いた。
「ああ、これ。たこ焼き屋出てたから、買ってきた」
 ユキは微笑みながら「ありがとう」と言うと、キッチンに向かった。
「今日はスーパーでお惣菜買ってきたから、お味噌汁しか作ってないの。でもデザート付きよ。修司さん、チョコプリンと抹茶プリン、どっちにする?」
「あ? ユキが二つとも食えよ。女はそういうの好きなんだろ」
 ユキは修司の顔を窺うと、うつむいて恥ずかしそうに、ふふっと笑った。
「なんだよ。二つ食えるの、そんなに嬉しいのか」
「ううん。今、初めて、私のこと、ユキって呼んだ。名前、覚えてくれてないのかと思ってた」
 と言って、また笑った。
 修司は、慌てて目をそらした。
「さあ、食べよ」
 ユキはまだ嬉しそうだ。修司は垂れてきた髪を掻き揚げもしないで、いつものように、黙々と食べた。

 ユキは恋人ではない。ただの同居人だ。ユキも出て行こうとしないし、修司も追い出さない。
ユキは本当にいつも朗らかだ。オムライスがきれいに出来たとか、天気が良かったから洗濯物がよく乾いたとか、そんなことでいつも幸せそうに笑う。
 なぜ、ユキは無邪気な笑顔を自分に見せるのか。自分はユキに優しくもしていないし、ほとんど話しかけもしない。この女の目的は何なんだ? と考えた時もあったが、勝手に自分が捨て猫を拾ってきたようなもんだと解釈してからは、もうそんなことはどうでもよくなった。
 誰かが自分のために食事を作り、自分の帰りを待つ。そして灯りの点いた部屋へ帰る。今までの自分にはありえなかったそんな生活が、脳に考えることを麻痺させている。本当に猫ならばそれでいい、とさえ思った。ただ、この味わったことのない生活が日常になりつつあるなら、何も考えずに過ごせばいい。修司はなぜユキが自殺を考えたかなんて、探ろうともしなかったし、ユキの過去について知りたいとも思わなかった。

 カーテンの向こうでユキの寝息が聞こえる。修司は殺風景なこの部屋で、ひじをついて窓の外を眺める。何分でもそうしている。小さい頃からの癖だ。

 修司は子供の頃、児童福祉施設で育った。施設では職員の人が、食事や身の周りのことなど事務的に面倒みてくれたが、友達も作らず、いつもひとりで周りを冷ややかに見ていた。その頃から、何かを考える訳でもなく、独りでただ、窓の外を眺めるのが癖になった。
 中学になると、あまり学校へも行かなくなった。こんな家庭環境で育った人間がぐれるのは、当然だと思われていたのか、施設の人からも注意されたことは無い。一人で学校を怠けて街をふらついたりしていると、決まって不良グループに絡まれた。だが、けんかだけは強い修司は負け知らずだった。そのうち不良グループも手を出さなり遠巻きに眺めるようになった。
 中学を卒業すると、住み込みの小さな工場で働いた。だが、職場の同僚とけんかしてはクビになり、長続きしないことの繰り返しだ。修司は他人と深く関わるのが苦手だった。苦手と言うより、自分から避けていると言ってもいい。
 そんな修司に、ボクシングをやらないかと声を掛けてきた人がいた。光ジムの会長が修司の才能を見込んでスカウトしたのだった。その後、修司はたちまちランキング上位に上り詰めていった。仕事は相変わらず長続きしなかったが、ボクシングはやめなかった。ただボクシングの事だけ考えて、真面目に毎日ジムへ通った。
 ユキが修司を知っていると言ったのは、おそらくこの頃のことだろうと、修司は推測していた。

 修司は自分を知っている人間に出会えば、すぐその町を出て行った。だが、なぜだか今回はそんな気にならなかった。

 第4章 遠い記憶

 五月になれば、藍色の海はまぶしく光り始める。修司は一人で海に来ていた。
 夏になると、この海も人が増えるだろう。走りにくくなるな。と思った。
 今日は仕事は休みだ。いつもは夜に来ているここに、昼間来るのは初めてだった。夜になれば、波の音と潮の匂いしかしない、無人島のような不気味さを持つこの海は、陽を浴びれば、海の息づかいが聞こえるかのように輝きを放つ。
 修司は浜辺に座って、漁師らしき人や、釣り人が時々目の前を通り過ぎるのを、ただ、ぼーっと眺めて時間を潰した。
 夕方になったので、修司はとりあえずアパートに戻ることにした。ユキはバイトに行っているらしい。部屋はいつの間にか生活用品が増え、何気なく片付いている。仕切りカーテンもタオルケットから大き目のシーツに変わっていた。トイレにいい匂いのするやつが置いてあったのを発見した時は、ここ本当に俺んちか? と目を疑った。自分の部屋はユキにより、小奇麗に変わっていったが、不思議と嫌じゃなかった。居心地のよさを初めて味わったように思えた。

 ふいに玄関のドアの鍵をカチャカチャ開ける音がする。ユキが帰ってきた。
「あっ ただいま。修司さんいたんだ。鍵、開いてたからびっくりした」
「ああ おかえり」
 修司は自分から出た言葉に驚いた。ユキはこの部屋に来た日から、一日も欠かさず修司に「おかえり」と言っている。耳練れない、たった四文字の言葉は心地良く、修司の心の奥に響いた。でも自分が誰かにその四文字の言葉を言うなんて、思いもしなかった。言った直後、照れ隠しなのか、ユキに背中を向けて部屋の隅であぐらをかいた。
 ユキは一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐ笑顔に戻って、もう一度「ただいま」と言ってキッチンに向かった。
「今日ね、ハンバーグ作るの。うちのスーパー、ミンチの特売日だったから。すぐ作るね。私のハンバーグすっごくおいしいんだから」
 そう言ってフンフンと鼻歌を歌いながら、手際よく料理にかかった。
 修司は離れたところから、畳に座って、ユキの後ろ姿を見ていた。

 ユキは小柄で華奢だけど、スタイルは良かった。今日は細身のTシャツとジーンズなので、ウエストから脚にかけてのラインがよくわかって、女らしかった。顔は美人と言うより、かわいらしい顔している。顔のあどけなさと、女らしい体つきが、ちぐはぐな感じがする。バイト先の従業員やお客さんにまで、お菓子や果物なんかを、よくもらって帰ってくる。人なつこく、愛嬌の良さで可愛がられ、誰かしらあれこれ物をあげたくなるのだろう、と想像はついた。
 修司はそんなことを考えながら、てきぱきと右へ左へ動く、ユキの姿を眺めていた。
すると、ユキが急に振り返るので、うっかり目が合う。何を考えていたのか見破られた気がして、慌てて顔を伏せた。
「もうすぐ出来るからね」
 そう言って、また前を向き直り、料理を続ける。

 出来立てで湯気を立てているハンバーグと豆腐の味噌汁が並べられた。
「さあ、できた。いただきまーす」
ユキは、一口食べるなり、
「おいしー! 私って天才!」
と嬉しそうに言った。
 ユキはいつも、自分で作った料理を、満足そうに、おいしい、おいしいと言って食べている。
 確かに、ユキの作った料理は、何を食べてもおいしかった。修司が施設にいた頃出された食事は、まずくはなかったが、どこか味気なかった。それは修司の心の問題かもしれないが、ユキの料理は他で食べる食事とは、どこか違う。とは言え、コンビニや牛丼屋くらいしか修司の舌は知らないので、比べようもないのだが。
 それでも修司は一度もユキの料理に、口に出しておいしいと言ったことがない。修司が言う前に、ユキが自分で言って満足しているのだから、言うタイミングを失う。人と深く関わったことのない修司は、人を褒めたり、喜ばせたりする、すべを知らない。修司が一言おいしいと言えば、ユキの笑顔がまたさらに大きい笑顔になるのは想像できるが、ガラじゃないと自分でも分かっていた。
 下を向いて黙々と食べる修司に、「このソース、工夫したのよ」と、機嫌のいいユキは一方的に話しかけ続ける。

「もっと、私、いろいろ作れるのよ。グラタンとか、餃子とか。ロールキャベツも得意なのよ。修司さん、ロールキャベツ好き?」
「そんなん、食ったことねーよ」
 修司は愛想のかけらもない返事をした。
「そう? 食べさせてあげたいな。私のロールキャベツ。今度お給料でたら作るよ。そうそう、クッキーとかも、作れるのよ。でもこの部屋、オーブンないじゃない? 冷蔵庫もないし、調理器具も揃ってないし、私の料理の腕が振るえなくて、残念だわ」
 ユキは狭い部屋を見渡して無邪気に言った。
「そういうことに、しといてやるよ」
 小さなテーブルに向かい合って座る。何もない部屋に透明な時間が漂っている。
「うふふ。ああ おいしい。幸せ」
「お前は、簡単に幸せになれるんだな」
 ずっと下ばかり向いていた修司はふと顔を上げてユキを見た。
「おいしいもの食べたら、幸せになれるのよ。修司さんの幸せって なに?」
 目が合ったので修司は顔を伏せる。
「そんなこと、考えたこともねーよ」
「ふーん。じゃあ私の料理で幸せにしてあげたいな」
 屈託のない笑顔で、ユキは言った。
 そんなユキをみて、つられて修司もふっと笑った。
(笑いながら食事をするのは、どれぐらいぶりだろう。記憶にないほど大昔かもしれない。ユキといると、笑い方を忘れた俺も、自然と笑顔になる)

 食事の後、二人は連れ立って銭湯に行った。ユキが来た頃は、修司が早足でさっさと歩くのを、ユキが数歩後ろを、必死でついて来ていた。だが、最近ではユキの歩調に合わせ、別に話しをするわけでもないが、隣り合わせで歩いている。帰りもどちらかが出てくるのを待って、また並んで歩く。おしゃべりなユキも、黙ってついて歩く。
 ユキがやってくるまでは、修司は毎日銭湯には行ってなかった。面倒くさくて風呂に入らず寝てしまうなんて、ざらにあることだった。だが、今ではユキについて、毎日行っている。女の子を夜道、一人歩きさせる訳にはいかない。すると必然的に自分も毎日風呂に入るハメになる。

「修司さんって優しいよね」
 突然、ユキが口を開いた。
「はあ? 何だよ。いきなり」
「五年前、光ジムで修司さんを見てたって言ったでしょ? あの頃、少しだけ修司さんと話したことあるの。世界チャンピオンの修司さんを見に、たくさん人が来てたよね。私も、その一人だったんだけど」
 そしてユキは、五年前、修司と初めて言葉を交わした日のことを、話し始めた。

 当時、高校一年生だったユキは、学校帰りに光ジムに寄って、修司を密かに見ているのが日課だった。ただ窓の外から、修司が縄跳びやスパーリングをしているのを見ている、それだけで満足だった。スポーツ選手のファンは静かに練習を見守るのが礼儀だと、ユキなりに弁えていた。
 その日も光ジムに向かって歩いていると、急に雨が降り出した。バッグの中には折りたたみ傘がある。急いで喫茶店の軒先に雨宿りして、バッグの中から傘を出した。
 すると、そこへ一人の男が急ぎ足でやってきて、ユキの隣に立つ。修司だった。修司はユキを気にする様子もなく、雨が落ちてくる空を見上げていた。
 ユキは傘を広げて、修司の頭の上に差し出した。
「どうぞ。一緒に入っていきませんか」
「……いえ、結構です」
 修司はユキをじっと見つめて言った。こんなに近くで本物の修司を見たのは、初めてだ。
「光ジムに行かれるんですよね。私もそっちの方向なんです。だから、どうぞ」
 そう言うと
「じゃあ、すいません」
 と言って、素直にユキの傘に入ってきた。
 背の低いユキが修司を入れて傘を持つと、手をぐっと伸ばさないといけない。持ち辛そうな様子に気付いて、
「俺が持ちます」
 そう言って、修司はすっとユキの手から傘を取った。
 光ジムまでの道、二人は黙って歩いた。ユキは心臓の音が、修司に聞こえてるのではないかと思うほど緊張していた。
 ユキは修司の顔をそっと盗み見た。ユキの二十センチ上にある修司の目は、まっすぐ前を見ている。
 ふと見ると、傘は左側に傾いている。かなりユキ側に。修司の右肩は、雨が直接かかっている。おまけに傘から落ちてくる雫もかかって、修司の右半分はびしょ濡れになっている。ユキが濡れない様に気遣いしてくれる、そんな優しさに、ちょっと感激した。
 光ジムに着くと、修司は「ありがとうございました」と素っ気無く言って傘を返し、小走りにジムの中に入っていった。
 ユキはジムの奥へと消えていく修司の後ろ姿を目で追った後も、しばらくそこから離れられないでいた。
 

 そんな話しをユキから聞きながら、銭湯からの帰り道を、修司はユキと並んでゆっくり歩いた。
 修司は、その日のことなど全く覚えていなかった。
(そんな昔から俺のこと知っていたのか。俺はユキのこと何も知らない。名前と歳と、以前、光ジムの近くに住んでいたということぐらいしか。
 ……俺のこと、どこまで知っている……?)
 そう頭に浮かんだところで、足はアパートの前に着いた。

 修司は夜中にふと目が覚めた。のどの渇きが気になって、ふらふらと六畳を出るとキッチンの流し台の蛇口をひねった。水を注いだコップを口へ持っていこうとしたその時、手が止まった。
 修司の部屋は、入り口を入ってすぐの板の間にキッチンがついている。その先の和室の真ん中に、シーツカーテンが垂れ下がっているのだが、完全に仕切られている訳ではない。寝ている場所からは、お互いを隠す事はできても、流し台まで移動すれば、ユキの寝姿が見えてしまう。タンクトップと短パン姿の腰から下が、はだけた毛布からはみ出ているのが目に入った。慌てて視線をずらして、水の代わりに唾を飲み込んだ。
(覗いたんじゃない。たまたま見えただけだ。境界線も踏み込んでない)
「ちっ ユキのやつ、俺じゃなかったら、今頃……」
 そんな思いが頭をよぎった瞬間、自分でも戸惑った。
(俺じゃなかったら……? 俺、そんなにいい奴だったか?)
 一つ屋根の下、一ヶ月以上も一緒に寝泊りして何もないなんて、他人が聞いたら信じてもらえないようなことを、現実にやってのけている。シーツの仕切りなんて、あってないようなものだ。こうやって、二、三歩歩けばすぐ、太ももあらわにした女の寝姿に出くわしてしまう。
(ユキは、さっき俺のこと優しいと言ったが、俺は優しい男なんかじゃない。いい奴なんかじゃない。俺が一番よく知っている)
「信用しすぎじゃねえか……」
 そう呟いて、コップの水を一気に飲み、自分の陣地に戻って、シーツカーテンに背中を向けて横になった。
 修司は暗闇を見つめて、寝返りを打ちながら、拭い去る事の出来ない過去を思い出していた。

 第5章 光と闇

 七年前、光ジムの会長に拾われた修司は、元々素質があったボクサーとしての才能を開花させ、ランキングも一気に駆け上がり、ついには試合七戦目にして、世界チャンピオンになった。世界チャンピオンになったとたん、周りの見る目が急変し、生活も変わる。大金が手に入るし、マスコミも騒ぎ立て、ジムにもファンだという人が、連日押し寄せた。
 でも修司は周りなど気にしなかった。ただ、純粋にボクシングに夢中になり、もっと強くなりたいと思っていた。

 そして、次の試合が決まった。相手はランキング下位クラスの無名の日本人。勝てる自信はあった。ジムの会長も、興行試合のようなものだ、と言った。
 試合当日は、緊張すらしなかった。負ける気などするはずもない。

 三ラウンドまでは静かな展開で進み、多少打ち合いが見られたが、余裕だった。楽に繰り出すパンチも確実にヒットさせていた。相手のパンチも効果が見られない。この分だと、最終ラウンドまで持ち込むことはない。楽勝にKOできる。そろそろ決めてやるか、と相手をロープ際に追い込み、連打を見せた。四ラウンド、相手は倒れ込み、そのままKO勝ちした。盛り上がる観客席。タイトル防衛なんて、あっけないと思った。

 悲劇を知ったのは、控え室に帰ってからだ。
 相手の男がリングで倒れ、意識不明のまま救急車で運ばれ、まもまく、死んだと。
 会長は、「お前のせいじゃない。気にするな」と言った。
 俺のパンチを受けて人が死んだ……。そう思うと、体が震えた。恐怖に似た大きな黒い塊が襲い掛かる。取り返しのつかないこの現実に打ちのめされた。

 しばらくして、廊下で会長とトレーナーの話し声が聞こえた。
「やばいことになりましたね」
「“試合に負けてくれ” とは言ったが、“死んでくれ” とは言ってない。俺たちのせいじゃないさ」
「相手が死んだということは、金は払わなくていいんですよね」
「ああ。死人に口なしだ。黙っておけばわからないだろう。儲けたな。前回もこれで手に入れた世界チャンピオンの座だ。しばらくはいい思いさせてもらわないとな」
 そこまで聞いて、修司がドアから飛び出してきた。怒りに震えながら、二人に近づく。
「ま まってくれ。話しを聞いてくれ」
 言葉を最後まで聞かずに、会長を殴った。
 倒すべき相手はこの男だった。言いようのない屈辱で体が震えた。不思議と冷たい拳を見つめて、もうこいつは汚されたのだ、と思った。金で買った勝利など無意味だ。ましてや人の命を奪ってまで……!
 自分の誇りを叩き潰された。

 修司はそのまま体育館を出て、ジムにも家に戻らなかった。あれほど憧れていた世界を飛び出して、闇へと紛れ込んだ。
 メディアが相手のボクサーの死と、八百長疑惑を関連付けて、面白がって伝えた。
“疑惑のチャンピオン失踪”という文字が、通りかかった本屋に山積みされた、週刊誌の表紙にあるのを見た。
 パーカーのフードを目深にかぶり、うつむき加減にその場を離れた。
 すべて忘れたかった。逃げたかったのだ。
 以来、あちこちの町へ行き、様々な仕事をして生きてきた。自分を知っている人が目の前に現れると、すぐその町を出た。過去に戻されるのが嫌だった。
(俺はチャンピオンじゃない。ただの弱い男だ)
―― 今でも、心の闇は消えない。


 いつもは急いでアパートを出る修司だが、その日の朝に限って、なにやらごそごそと押入れの中を探っている。
「修司さん。今日仕事は?」
「あ、あぁ、これから行く」
 そう言って、焦った表情を隠すようにして玄関を出ると、仕事場とは反対方向に向かって、急ぎ足で歩いた。

 修司は駅前の小さな郵便局に入った。
 窓口で現金書留の封筒をもらい、あて先のところに“○県△市 谷川明子”と書いた。
 書き終えたところで、背後から声がした。
「そこの住所に、今、その人はいないわ」
 焦って振り返ると、ユキだ。
「谷川明子は死んだの。私の母よ」
 驚きを隠せない。鋭い眼差しでまっすぐ見据える修司に、ユキは続けて言った。
「そう。谷川良介は、私の兄なの」
 言葉も出ない。ただ呆然と立ち尽くす修司を見続けるユキに、いつもの笑顔はなかった。

   第6章  真実

 五年前、ユキは病弱な母と兄の三人で暮らしていた。生活は苦しかったがユキは不幸だと感じたことはなかった。諦めていた高校にも行かせてもらっていたので、せめてもの親孝行として、ユキもバイトをして家計を助けていた。
 兄、良介はボクシングのプロテストに合格し、ジムに通いながら働いて家族を支えていた。世界チャンピオン目指して、仕事で疲れていても、夜遅くまでトレーニングを欠かさない兄を、ユキは励まし応援していた。
「世界チャンピオンになればお金が入る。お前たちを楽させてやるからな」と庭で汗を飛ばしながら縄跳びをする兄は勢い立って言った。そんな姿をユキは微笑ましく見ていた。家族思いで努力家の兄が自慢だったし、夢を叶えさせてあげたいと心から思っていた。
 
 そんな時、兄の試合相手が決まった。なんと世界チャンピオンの中塚修司だという。ランキング下位の兄には到底勝ち目はないと、誰もが思っていたようだ。だが、兄は「絶対勝ってやるからな」と意気込んでいる。ユキはきつい減量もして、厳しいトレーニングその上、仕事もしている兄の体が心配だったが、試合に勝つことだけを考えて練習する兄に、何も言えなかった。
 何より、大ファンの中塚修司が相手だ。修司に勝って欲しいという気持もあったが、やはり、兄の勝利を素直に望んでいた。

 試合の途中、なんだか兄の様子がおかしいことに胸騒ぎを覚えた。減量のせいで顔色が悪いのだろうと思ってはみたが、嫌な予感は消えない。
 そして、四ラウンド、悲劇は起きた。

 ユキは週刊誌で事の顛末を知った。週刊誌に書いてあることだから、信用できるか分からなかったが、兄が死んだというのは、疑いようのない事実だ。兄がお金の為に八百長を引き受けたというのは、うそではないような気がした。
 優しい兄だった。家族の為に恥を捨て、プライドを捨て、大金欲しさに魂を売ったのかもしれない。
 兄を殺した男に恋心を抱いていたなんて、兄に申し訳ない気持でいっぱいになった。兄を死に至らしめたのは、あの男だ。しかも、謝罪することもなく、どこかへ行方を晦ましている。修司を恨むことが、兄への供養になるのだと思わずにはいられなかった。
 週刊誌の記者は、容赦なくユキの自宅まで押しかけた。その後、元々病弱な母は、心労のせいか入退院を繰り返すようになってしまった。ユキは学校へも行かず、甲斐甲斐しく母の世話をした。友達が噂している気がして、学校へ行く気がしなくなったのが本心だが。
 こうなったのも、すべてはあの男のせいだ。ユキは腹立たしい気持ちを抑えるのに必死だった。
 そののち卒業すると、ユキは懸命に働いて入院費を稼いだ。そして五年間、明るく気丈に振る舞いながら母を看病し、行方の分からない修司を恨み続けた。それが兄のためだと、夢を断ち切られた兄へしてあげられる精一杯だと、そう必死に思い続けた。母は、そんなユキの笑顔の奥にある、心の闇を気にかけていたのかもしれない。
 
 ある日のことだ、母は病室に見舞いに来ていたユキに、一つの預金通帳をみせた。
 いぶかしく通帳を受け取るユキに母はこう言った。
「良介が亡くなって以来、毎年命日にお金を送ってくれる人がいるのよ。名前も住所も書いてないので、誰かわからないけれどもね。良介の知り合いにも聞いてみたけど、該当する人はいないのよ。いったい誰がこんなことしてくれるのかしらね」
 そう言いながらも、母は落ち着いた表情だ。まるで送り主が分かっているように。それで母は、以来五年間送られてくるお金を、ユキの名義の口座に、使わずにそのまま残してあるという。そして最後にこう付け加えた。
「今まで内緒にしていてごめんなさいね。あなたの本当の笑顔が見られないのは私も辛いのよ。人を恨んで生きていても、幸せにはなれないの。世の中には見守ってくれている人もいるのよ」と。
 まるで遺言のような母の言葉を、夢の中にいる気分で聞いていた。
 そして、その数日後、母は静かに息を引き取った。

 天涯孤独になった私に、いったい誰が手を差し伸べてくれるというのか。
 兄の一件であれだけ世間に非難され、母は病気になった。兄を殺した男も、周りの冷たい人たちも、恨まずにいられるのか。五年間、兄の供養だと思い、修司を恨んできたことは、一体なんだったのか。
 ユキは、そう思えば思うほど悲観に包まれる。
 母を失い、自分の心さえも、何もかも失った気がした。今はもう、恨む気力すらない。たちまち大きな絶望に襲われた。
 そして、冷たい海の中で修司に再会したのだ。


 凍りつくような空気の漂うアパートの部屋で、修司はユキから、兄の死から今までの一部始終を聞いた。二人とも立ち尽くしたまま動かない。しばらくの沈黙のあと、ユキが途切れ途切れに話しはじめた。
「冷たい海の中で、下から見上げた修司さんの目は、五年前、傘の下でみたのと同じ、澄んだ目だった。この時、お金を送ってくれていたのは、この人かもしれない、と、そう思ったの」
 ユキはうつむいた顔を上げて修司を見た。修司は両手を力なく下ろしたまま目を伏せている。
「兄がお金欲しさに裏で細工していたのを知って、送ってくれたのでしょう?償いたかったのでしょう? それを確かめたくて、今まで一緒にいたの。五年間必死に恨もうとしたけど、やっぱり恨みきれなかった。修司さんの優しさは昔と変わっていない」
 ユキは修司をおどおどと見つめた。修司は感情の読み取れない表情で、ずっと畳から目を離さない。ユキはこの話の続きを言うべきか、ためらった。修司の反応が怖かったし、一方的に話し続ける自分が身勝手にも思えてきた。だが、これだけは言わずにいられない。
「修司さんは初恋の人だもの。だから、お金を送ってくれたのが、修司さんだとわかったら、なんだか嬉しかった。兄の供養だと思って、今まで恨もうとした私を、どうか許して」と……。

 修司の頭の中に、様々な感情が駆け巡った。
 この一ヶ月半、ユキと安穏とした生活に浸かり、静やかな人並みの毎日に癒しを覚えていた自分が情けなかった。
 ユキの自分に向けられていた笑顔は、全部うそだったのか。今のみじめな自分を見届けたかったのか。
 必死に避けようとしていた、五年前の過去へと一気に引きずり下ろされた。誰に向けられるでもない、怒り、悲しみ、後悔、絶望、あらゆる感情が一瞬にして頭に押し寄せた。

 長い沈黙のあと、こぶしの震えをこらえながら、修司は低く投げつける様に言った。
「俺の姿を見てあざ笑っていたのか!」
「……違う! 私、この一ヶ月半、毎日楽しくて、ずっと……」
 悲しみと困惑の表情で吐き出したユキの声をさえぎるように修司が叫ぶ。
「復讐したかったんだろ! だから、俺の前に現れた!」
「そうじゃない! 私は……」
 ユキの言葉が終わらぬうちに、修司はユキの腕を押さえ込み、壁に押し付けて、ユキの唇を自分の唇で塞いだ。数秒して、唇を頬にずらすと、
「いやー!」
 悲鳴とも、泣き声とも言えぬ声で、ユキが悲しく叫んだ。
 その声にはっとして、手を放し、ユキから離れる。壁に背を向けて、畳を見つめる。どうしようもない空しさが修司を押し潰した。
(ユキは悪くない。悪いのはいつだって俺だ)
「ちくしょう!」
 髪をくしゃくしゃに掻き揚げて、はき捨てる様に言った。
 大きなため息を付くと、後ろでバタンとドアが閉まり、外の階段を駆け下りる音が聞こえた。

(あんなこと、言うつもりはなかった。気がつくとユキを怒鳴りつけていた。ユキは何も悪くない。なのに、あんなことまで……)
 つくづく、自分の愚かさに腹が立った。

 修司は、壁に向かって座り、あごの下に手をやって、ぼんやりと窓の外を眺めた。
 そして修司は自分を責め付ける。
 一人でいるのが好きだった。だが今は、孤独な自分がやり切れない。逃げることで自分が楽になりたいだけの、未熟な人間だった。あのボクサーの家族の運命を変えたのは自分だ。だから、自分を抑圧して生きなければならない。修司は今までそう決めてきた。絶望と闇の中で、独り過去を引きずって生きる道を選んだ。光の当たった世界で生きていた頃の魂は、もう息絶えている。
 それなのに、それなのに、“ヒトヲコロシタ”消し去ってはいけない現実を、ユキとの安らぎの中で脳の隅に追いやっていた。馬鹿だ。大馬鹿だ。自分を恨み殺したい。

(ユキは猫なんじゃないかと思ってた。だが、猫は俺のほうだった。孤独な野良猫だ。近づこうとする人には警戒し、威嚇する。決して人を信用しない。懐かない。でも本当は、臆病なだけだ。人の温かみを感じてみたい。でも、それは許されない。俺は飼い猫じゃない。温もりを望んではいけない)


 窓の外に、ぽつぽつと雨の当たる音がした。ユキが部屋を飛び出して、一時間くらいはたったのだろうか。
(あいつ、今頃どこで……。そんなに遠くには行ってないはずだ)
 修司は、傘を持って部屋の外に出た。
 すると、アパートのドアの近くの外壁にもたれて、立てた膝を抱えて顔をうずめて座る、ユキがいる。
 すっと近づくと、ユキは顔を上げた。
「ごめん。私、どこにも行くとこなかったんだ……」
 泣きはらした目が赤い。
「…… 入れよ」
 二人は、それ以上なにも言わず、ゆっくりと部屋に入った。

 第7章  後悔

 《ユキの想い》
 いつものように、シーツカーテンで仕切られた部屋で眠った。いいえ、ほとんど寝られなかった。修司さんも同じだろうな。
 修司さんは、あれからずっと黙っている。当然でしょう。昨日私が言った事で、修司さんを深く傷つけ、怒らせたのは間違いない。許してもらえないかもしれない。
 でも今は、いいえ、十六歳のあの頃から、私の中には修司さんしかいない。急に燃え上がった恋ではなく、ゆっくりと心に芽生え、育っていった気持ちは、着実に根を広げている。そして初恋から愛へと変貌していったことを、自分でも確信している。昨日はうまく気持ちを伝えられなかった……。

 いつもなら、仕事に出かける時間なのに、修司さんは起きてこない。気になってカーテンの向こうを覗いてみた。
 修司さんは、座ったまま窓の外を眺めてぼんやりしている。何か言わなきゃ、そう思って近づくと、修司さんが私の方を見て口を開いた。
「昨日のことだけど……」
「ごっ ごめんなさい。謝っても許してもらえないかもしれないのは、わかってる。でも私は、今を大事にしたい」
 修司さんは、昨日のこと私に謝ろうとしたのかもしれない。でも修司さんに先に謝らせてはいけない。悪いのは私だから。
 何か言いたげな目をして私を見つめる修司さんに向かって、私は言う。
「あのー。私、今からバイト行くけど、修司さん、今日仕事は?」
「……ああ。あとから行く」
 修司さんは力なく呟くように言った。
「そう。じゃあ、夕飯作って待ってる」
 まだここにいたい気もするけど、バイトに遅刻する……。名残惜しい気持ちを残して、玄関のドアに手をかけた。
 修司さんは珍しく私をじっと見ている。いつもなら、目が合うと恥ずかしそうに目をそらすのに……。
 笑顔を作ると「いってきます」そう言って、ドアを閉めた。

 バイトを終えると、食材を買い込んで急いでアパートに帰った。
 すぐキッチンに向かって食事の支度をしよう。
 修司さんが帰ってきたら、ちゃんと伝えよう。私の今の正直な気持ちを。恨んでなどいない、修司さんへの想いを。
「ロールキャベツ、喜んでくれるかな」
 そんな独り言を言いながら、コンロに鍋をのせる。煮込んでいる間、部屋でも片付けよう。
 向き直って、和室に足を踏み入れたその時、思わず立ち止まった。
 ふっと、違和感のある空気が私をなでる。
 何か違う……。
 部屋を見渡すと、いつも散らかっているはずの、修司さんの服がない。コップも、歯ブラシも……。
 押入れを開けると、修司さんのリュックがない。修司さんのものは、なにもなかった。
 信じられないこの現実を、受け止めるのに時間がかかった。嘘と思いたい。神様はどうしていつも、私から大切な人を連れ去るのだろう。
 私は、へなへなと座り込んでしまった。
 修司さんは、それっきり、アパートには戻らなかった。

 窓からふきこむ風の温度も変わった。私が小さな植木鉢に蒔いた朝顔が芽を出し、やがて窓の手すりに巻き付いて青い花を咲かせた。修司さんにも見せたかったな。
 修司さんがアパートを出て三ヶ月が経とうとしている。
 私は、不意に帰ってくるかもしれないと思って、アパートを解約せずに、そのまま住んだ。
 食事も、毎日二人分用意した。
 食事の時には、いつも思い出す。
――ついこの前まで、修司さんは確かにここにいた。
――目の前で黙々と食べ、背中向けて座る、修司さんがいた。
 思えば思うほど寂しさは募る。そして毎日、後悔の念に襲われる。
 私が本当のことを言わなければよかったのかも……。でも、いずれは分かるかもしれない。そうすれば、余計に傷つける。修司さんは怒って出て行った。私の顔も見たくなかったんだ。私は嫌われた。
 そう考えると、決まって涙がこみ上げてきた。
 修司さんと暮らした記憶が、私の胸を痛めつける。
 私が想うほど、修司さんは私のことなど想ってはいなかった。
 私の心に住み着いた、深く一途な初恋は、もう修司さんに届くことはない。

 夏の暑い日、私は二人で暮らしたアパートを引き払って、この町をあとにした。


  第8章  心の居場所

 灰色の空から、小さな雪の粒が舞い落ちて、次第にアスファルトの地面を白く覆いつくす。
 東京にも、この冬初めての雪が降った。

 東京のとある体育館で、今日の夜、ボクシングの試合がある。
 会場は活気づいていた。

「おう、修司。そろそろ始まるぞ」
 修司は小さくはいと言って、椅子から立ち上がった。
「普通、お前のように長い間試合をしなければ、タイトルは剥奪される。だからマスコミの過熱した報道に便乗して、チャンピオン戦を組んだんだからな」
「……わかってます」
「お前は人気あるからな。メディアも取り上げて話題性もある。今日も新聞社やテレビ局がたくさん来てるぞ」
 修司はグローブをはめながら、そうですかと言った。朴訥とした修司の受け答えに反するように、張り詰めた空気が充満する。
「ボクシングに興味のない連中まで騒いでるからな。ボクシングの世界は所詮、興行重視。チケットも完売だそうだ」
 グローブの紐を結んでもらうために、修司は黙ってトレーナーに腕を突き出したあと、小声ではぁと言った。
 試合直前の控え室。興奮気味の会長の言葉に、修司は気の無い返事を繰り返す。

 修司は、東京のボクシングジムに、ある日突然「練習生からはじめたい」と言って現れた。
 ボクシング関係者が、修司の顔を知らないはずがない。すぐ現役復帰できた。自己トレーニングを続けてきた修司は、五年のブランクを感じさせない。自らリングを去ったとは言え、その実、心の奥底には、いつでも復帰できる身体を作っておきたいという思いがあったせいかもしれない。
 以前、修司が就いたことのある、世界ライト級チャンピオンの座。
“疑惑に隠れ、消息不明のボクサーが、ベルトを取り返しに復活”とスポーツ紙の好きそうな話題に、各社飛びついて記事にした。
 元々、やらせの色が強いテレビ局も、八百長疑惑の真相解明はどこかへ消え、修司の今日の試合中継で高視聴率を獲得しようと熱を入れている。


 《修司の想い》
 俺はマスコミの話題など、どうでもよかった。
 俺はもう一度ボクシングを始めないと、前に進めない。このままでは終われない。己自身に決着をつけるために、この試合はある。
 現実から逃げ、煩わしさから避け、さ迷っていた自分を捨てて、ボクシングに熱中していた頃の心を取り戻したい。自分の手でチャンピオンを勝ち取りたい。
 もう、ユキに会うことはない。どこかで幸せに暮らしていて、もしこの試合のことが、耳に入れば、それでいい。

 ずっと独りで生きてきた。孤独で寂しいとは思わなかった。そんな俺が誰かを想い苦しむ辛さを知った。
 二人でいることの安らぎを知ると同時に、ユキの屈託のない笑顔が、俺のために曇るのを見たくなかった。
 どこかで笑顔でいれば、それでいい。ユキを忌々しい過去から断ち切るためには、俺がそばにいてはいけない。

 これでいいんだ、と言う俺。
 これでいいのか、と言う俺。
―― 心はどこにある――
 俺の中の、もう一人の俺が叫ぶ。
 心は、ユキを求めてさ迷い続ける。
 ユキを想う気持ちが、密かに俺の中に生息していることを、ごまかしきれずにいる。
―― 心はどこにある。俺の心はどこにある――
 容赦なく叫び続ける。
 俺の心は、紛れもなく、ユキのそばある。
 どこにも居場所がなかった俺の、心のあるべき場所は、ユキだ。
 体はそばにいなくても、せめて心はそばでユキを感じていたいと願う。そんな、ちっぽけな男だ。


 ゴングが鳴り、試合は始まった。
 相手は初防衛のメキシコ人。修司は一ラウンドでいきなりダウンして、マイナスポイント取られた。ペースを崩し、パンチの数が極端に減る。五ラウンドから必死に追い上げ、両者互角の打ち合いになる。相手もフラフラになっているのは、誰が見てもわかる。このまま時間を稼がせやしない。修司は右ストレートで相手からダウンを奪う。有効打を打ち込み積極的に攻める。

 九ラウンドが終わり、一分間の休憩に入った。コーナーの椅子に座り朦朧とした意識の中で、ふと顔を観客席の方に向けたその時、修司の目ははっきりとユキの姿を捉えた。
(ユキが来ている!)
 心が叫んだ。確かにユキだった。観客席の後ろのほうで、祈るように手のひらを合わせて、まっすぐ修司を見ている。
 その直後、十ラウンドのゴングが鳴った。修司は椅子から勢いよく立ち上がって、相手を睨む。
“ユキが見ているかもしれない”から“確実に見ている”に変わった瞬間、体の奥のほうから力が湧き出てきた。どこからそんな力が出るのか、体中が熱くなるものを感じた。
 あとはどうなったか覚えていない。体が勝手に動き、試合の優劣も分からないまま進んでいく。
 そのまま最終ラウンドのゴングが鳴り、判定にもつれ込んだ。

 椅子に座らされて、セコンドがタオルや水を次々と修司の前に持ってきては、肩を叩いて声を掛ける。
 結果が出るまで待ちながら、目はユキを探す。さっきいた場所に、もうユキの姿はなかった。
(―― ユキ、どこにいる)

 その時、レフェリーが修司の腕を掴み、高く挙げる。場内アナウンスが修司の名前を呼んだ。観客席からどっと歓声があがる。
 修司の周りは、記者やカメラマンに大勢取り囲まれ、マイクを突き出される。
 修司は、人だかりの真ん中で、必死にユキの姿を探す。
(―― ユキ、どこだ)

 修司は人垣をすり抜け、リングを飛び降りる。湧き立つ焦燥が、体を走らせる。群がる観衆を掻き分け、会場のドアを勢いよく開けて、廊下に飛び出した。
 今、試合を終えたばかりの汗まみれの体で、さらに走ってきたせいか息が荒い。
 修司は肩を上下に揺らしながら、廊下の向こうに、盛り上がる歓声を背にして、ゆっくり体育館の出口に向かって歩くユキを見つけた。
「ユキー!」
 胸の底から振り絞った声で叫ぶ。
 ユキは一瞬、立ち止まって、泣きそうな表情を見せ振り返った。
 修司は、揺るぎない確信したような目でユキを見ると、一気に駆け寄り、ユキを抱きしめた。

 修司の頭の中を支配していた、複雑な感情はどこかへ消え失せた。
 今は、ユキが目の前に、在る。
 もう一ミリも離れていたくはなかった。
 修司の心の闇に、今一点の灯がともった気がした。

 ユキは修司の広い胸に、涙あふれる顔をうずめながら、小刻みに震えていた。だが修司の背中にまわした手は、しっかりとして戸惑いはない。修司はその手から、確かな決意が伝わるのを感じていた。

「いたぞ! こっちだ」
 大勢の報道陣が、二人を見つけるなり、いっせいに押し寄せ取り囲む。
 シャッター音が響き、リポーターがマイクを向けて騒がしく捲し立てるざわめきの中、二人の空間は、静まり返っていた。まるで二人しかいない森閑の果てに吸い込まれたかのように。修司は優しい静寂に漂いながら、ようやく閉ざされた扉を抜け出そうとしていた。


 翌朝、修司はボクシングジムに来ていた。
 軽快な音楽が流れるジムには、一夜にして世界チャンピオンになった男を、ひと目見ようとする見物客や、テレビの撮影や雑誌の取材で、人があふれていた。
 修司は普段通りの練習メニューをこなそうにも、タレントのようにカメラを向けられては集中できない。それでも絆創膏だらけの顔で無愛想に対応していたが、ボクシング以外の質問や、空白の五年間何をしていたか、とあれこれ追求されるのに、うんざりしていた。
 会長は自分のジムから世界チャンピオンが出たせいもあって、始終上機嫌で無口な修司に代わって取材を受けていた。

 一通り取材も終わり、マスコミ陣もはけ、見物客がいなくなったところで、会長が言った。
「今日は、祝杯だ。もう何を飲んでも、食べてもいいぞ。みんなで夜通し、飲み明かすぞ。いいな」
 修司は、今まで見せたことのない、すがすがしい顔で答える。

「いや、やめときます。家で猫が待っていますから」