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小説 『震える熱帯夜』

kage

2009/07/28 (Tue)

 競作参加作品 テーマ『夏』 お題『熱帯夜』 


 休日の居場所はここしかない。
 高い天井に設置された明かり取りの天窓から差し込む陽射しは、眩しいほどの光を放っている。とは言うものの強すぎる冷房のせいか、窓の外はうだるような熱気だとは思えぬほど館内はひやりとしている。平日の昼間から図書館で過ごすなんて、ここに居る連中はよほどやる事がないのだろう。
 そして俺もその一人。
 本など読まない俺がわざわざ図書館にやって来るのは、誰かと話す必要が無いからだ。
 目当ての本がある訳でも無いのに本棚の間をふらふら歩き、いつも同じソファにもたれ掛かり、さほど興味もない雑誌を広げ、うとうと昼寝をしたとしても誰に気を遣うこともない。その上冷房が効いているときた。俺はただ何時間もこの場所で、無駄に時間を費やしている。
 もっとも俺が毎週火曜日にここに来るのには、もう一つ理由があった。

 雑誌に飽きた俺は、無知の分野である小説の本棚にあてもなく移動する。小説家の名前など知らないが、地味な本の中に、ひと際目立つ赤い背表紙が目に留まった。
 それとなく手を伸ばすと、同時にそれを取ろうとする手に触れた。はっとして見下ろし、そこに居た人物が誰だか気付くと、さらにどきりとして俺は固まる。
 あの子がいたのだ。彼女はあわてて手を下ろし、すみませんと小声で言うと逃げるように隣の本棚に隠れてしまった。
 黒髪で華奢な体つきから十五、六才頃に見えるが、見た目より大人っぽい少し低い声。彼女の声を聞いたのはそれが初めてだった。いつもは目で探す距離にいたので、すぐ隣に彼女が立っていただなんて、自分の鈍感さに恥ずかしくなり、後からじわじわと緊張してきた。

 いつもここであの子を見かける。高校生だと思うのだがこんな時間に一人で来て、詩集を何冊か立ち読みしたあと、小説を数冊借りて帰っていく。彼女が毎週火曜に来ていると気付いたのは最近だ。
 図書館に涼みに来るというのは口実で、本心は彼女を遠くから眺めるのが目的なのかもしれない。他人に興味などなかった俺だが、なぜだか彼女のことが気になり、彼女を見付けると動きをそっと目で追った。人と関わるのが嫌で図書館に来ているのに、誰かに会えるのを心待ちしているなんて矛盾している気もするのだが、それが本心なのだから仕方ない。

 緊張のあまり見失った彼女を再び探すと、もうカウンターで貸し出し手続きをしていた。彼女は振り返って俺の方を見たような気がしたので、慌てて目をそらした。そしてまたすぐに顔をカウンターの方に向けると、彼女は小説数冊を胸に抱きかかえ、笑顔で軽く会釈をして、図書館を出て行った。
 俺に挨拶したのだろうか。同じ本を取ろうとしただけの俺に。
 少し彼女に近付けた気がする。やばい、ますます彼女が気になってしまうではないか。

 これ以上図書館にいる理由がなくなったので、涼しさが名残惜しいがここを出ることにした。蒸し暑い街を適当にぶらつきながら、しょうがなく下宿に戻った。
 古い木造のアパートの一階が大家の住まいで、俺たち下宿人は二階にそれぞれ割り振られた四畳半に住まわしてもらっている。
 そろりと階段を昇ったつもりだったが、一段昇るごとにぎしぎし音を立てるせいか、奥で大家の「幸人くんか。帰ったのかい」と言う声が聞こえた。いちいち会話するのが面倒だったので、再度話しかけられないように「はぁ」とだけ言って、一気に駆け上がった。
 壁の薄い部屋は隣の物音が筒ぬけだ。隣の大学生は一日中訳の判らない音楽を聴いている。バンドを組んでいるのか時々ヘタなギターの音も聞こえてくる。せめて夜はやめろと言いたいが、口論になっても厄介なので、努めて無視することにした。
 反対側の部屋の男は二十歳のフリーターらしい。いつも長々と携帯電話で誰かと話している。そんなに積もる話があるのなら会って話せばいいだろう。奴らは俺と同じ位の年齢だ。こんな古い安アパートに住むほど貧乏なはずなのに、無駄なことに使う金は持っているのか。
 夜まではまだ長い。自室にいても苛立ちは抑えきれない。冷房の効いた図書館にもっと居たらよかったと後悔した。敷きっぱなしの布団の上に置いた未返却の本を蹴飛ばして、空いたスペースに寝転がると、一冊だけ借りてきた漫画を何度も読み返した。

 寝苦しい夜が怖い。
 窓を開けても外気の温度と変わりはなく、窓を閉めると世界で息をしているのが俺だけのような、根拠の無い恐怖に襲われる。
 あの日も熱帯夜だった。
 布団の中で帰ってこない母を朝まで待った。
 少年の日の癒えない傷が、今でも俺を孤独へと追いやる。
 噴き出す汗は拭いてもまた溢れ、ただひたすらに暑さに震える。

 一週間はだらだらと過ぎていった。
 パソコンの部品を組み立てる流れ作業の仕事は、慣れれば頭を使わなくても手が勝手に動くようになった。時間が来たら作業終了のベルが鳴る。休憩時間になると、パートのおばちゃんがやたら話しかけてきてうっとうしかった。「はい」と「いいえ」でわずらわしく返事をしても、連中はおかしくも無いところで大声で笑う。おばちゃんという生き物は理解できない。
 この仕事を始めて半年。長くもったほうだ。
 休みの火曜日になればいつもの場所へ向かう。
 平日の午前中の図書館は大概すいている。お決まりの指定席が空いているので、新聞を持ってそこに座った。
 手にするのは新聞でも何でもよかった。きょろきょろしてしまう動作を隠すものが欲しいだけだ。
 今日はまだ来ていないようだな。
 首を左右に振るのをやめて、新聞に目をやったその時
「いつも誰を探しているんですか」
 もたれ掛かるソファの後ろで不意に声がした。驚いて振り返ると、あの子だ。
「うわぁー!」
 図書館に響き渡る素っ頓狂な声を出してしまった。司書の女性がこちらを睨む。
「やだなー。お化けでも見たような声出さないでくださいよ」
 彼女は立てた人差し指を口に当てて、親しい友人のように俺をたしなめる。
「悪りぃ、いや、すみません。……何で? 俺?」
 慌てすぎて自分でも何を言っているのか分からない。
 彼女はくすくす笑いながら、
「先週、ううん、もっと前から。よく見かける人だなって思って。本お好きなんですか」
 彼女だ。間違いなく本物だよな。彼女の方から俺に話しかけている。
「いや、別に好きってほどでもねえけど……」
 上ずった声で答える。突然の出来事に脳が反応できない。
 先ほど睨んだ司書が俺たちに聞こえるように咳払いをしている。
「出ましょうか」
 小さい声でささやいた彼女は、申し訳なさそうに職員に頭を下げながら図書館の出口に向かった。俺は放り投げてしまった新聞紙を拾って元に戻すと、彼女の後を小走りで追いかける。
 図書館の中庭にある藤棚の下まで行くと、彼女はここに座りましょ、と言ってベンチに腰掛けた。彼女はベンチの横に立っている俺を見上げると、どうぞと自分の左側を勧めた。俺は言われるままに隣に座る。
「今日も暑いですね」
 彼女は空を見上げて手をかざした。
 俺はそれにどう答えようかと返事に困り、季候の挨拶をするような間柄だったっけか?の困惑と疑問とが、頭の中でめまぐるしく回転し、結局ひと言も言葉が浮かんでこなかった。
 額から汗が滲むのを感じた。無言のままの空気が流れる。
 彼女はなぜ、俺を外に連れ出したのだろう。俺はともかく彼女も黙っているのは、俺が何か言うのを待っているのだろうか。もしかして俺が何度もじろじろ見ていたのに気づいて、ストーカーだと勘違いしているのか。まぁ勘違いされても仕方が無いのだが、俺を捕まえて謝らせようという策略か。いや待て。ここで謝ってしまえばストーカーを認めたことになる。ここはシラを切るべきか。そうだ、ただ見ていただけで何を謝る必要がある。

「さて、と……。じゃあ、あたし帰るね」
 彼女はすっと立ち上がると道路の方向へ向かってすたすたと歩き出した。
 あっけにとられて見送るようにうしろ姿を眺めていると、彼女は急に思い出したように振り返り、
「あたし、和。のぎへんに口でな・ご・み」と手を振った。
 やれやれ、俺はからかわれていたのか。年頃の女の子の気まぐれに付き合わされただけか。
「ふっ、あほくせぇ」
 笑えるほど情けない自分に向かって、声に出して言い放つ。

 翌週の火曜日、図書館に行くと、もう和は来ていた。まるで待ち合わせをしていたかのように手を上げて駆け寄ってきた。俺は和が小説や詩集を選ぶのを、ソファに座って待ってから、彼女と一緒にこの前の中庭のベンチに移動した。
 和はこちらから聞き出さなくても自分のことをよくしゃべる。彼女のことを何でも知っているように思えてきた。
 今月十九才になったこと。ケーキ屋でバイトをしていること。幼い頃に両親が離婚して、今は母親と二人で暮らしていること。高校時代の部活のこと。読んだ小説の感想のことまで、途切れることなく何分でも話をしている。
 俺は幼く見える和が、もう十九才だったことに驚いたが、そんなことを口にする訳にもいかない。機関銃のように次々出てくるお喋りを、相槌も打たずにただ黙って、よく動く和の口元と遠くの景色を交互に見ながら聞いていた。
 俺はそばで和の話を聞いているだけだ。和も時々俺に合わせて静かにしているときもあるが、切迫した気まずさはない。中学時代のクラスの女子は、よく俺のことをなに考えているかわからないと言って気持ち悪がったが、そんな女たちとは違う。心を開ける友達なんて一人もいなかったから、長い時間ずっと誰かと一緒にいるというのも初めての経験だ。
 和はどんな風に思っているのだろう。俺との時間を。
 俺だけか感じている親近感なのかもしれないが、和と一緒の空気は心地よかった。彼女の前では、素になれる。無理に愛想笑いをしなくても、つまらない話に合わせなくても、有りのままの俺で居られる。
 この感情は何なのか自分でもわからない。和も同じ思いでいてくれるのだろうか。
 そんな戸惑いと安らぎを感じながら、毎週火曜日はここで過ごした。

 ある日、和が図書館以外の場所でも会いたいから、携帯電話の番号を教えてくれと言った。携帯持ってないんだ、と答えると、ええーっと信じられないと言いたげな声を出した。
「だったら、どうやって連絡すればいいの?」
 困った顔で和が訊く。
 連絡先は大家の電話番号だ。必要があれば大家に取り次いでもらう。それも滅多にあることじゃないが、今まではそれで充分だった。だが、和に大家の電話番号を教える訳にはいかない。
 携帯電話って高いのか?
 俺は和と図書館を出たその足で、携帯ショップに寄った。

 携帯電話を手に入れただけで、すぐそばに和が居る気がして安心する。
 俺は常に手が届く位置に携帯を置いて、相手は和だけの着信をひたすら待った。話したいのならこちらから掛ければいいのだが、元々友達も居なかった俺は電話なんてほとんど使ったことがなく、よほどの用事でもなければ掛けてはいけないと思ってしまう。
 その割に彼女は案外さらりと、用も無いのにかけてくるのだ。

「今何してる?」「別に」
 それだけの会話がとても新鮮で。
「何の用?」「声が聞きたくなって」
 何気ないひと言にうろたえる。

 和が最初に誘ったのは、図書館の近くにある公園だった。和はここの公園が好きだから俺を連れて来たかった、と言った。小さい頃お父さんとよく遊んだ場所らしい。
 芝生の広場の隅に置かれたベンチは大きな木の陰になるので比較的涼しい。向こうのグラウンドでは野球をしている少年たちが歓声をあげている。濃い緑の葉を繁らせた名前も知らない大きな木は、緑の隙間から降る光で地面やベンチに斑模様を作っている。俺たちはベンチをずいぶん長い間占領していた。夏の午後の穏やかな風が吹いている。
 そういえば、俺もここに来た記憶がある。一度だけ、家族三人で来た。かすかに覚えている唯一のいい思い出かもしれない。俺の記憶に残るのは、あの日俺と母を置いて出て行った広い背中だけだと思っていたのに。

 遠くの空が青とオレンジのグラデーションを描き出すのを指差して和がはしゃぐ。
「わぁ。ねぇ、見て。きれーい」
「あ、あぁ……」
 そっけなく答えると不満そうだ。
「ちょっと、ちゃんと見てる?ほらあれ」
 そう言って顔を近づける。じっと俺の横顔を見ていた和が
「幸人くん、まつ毛長いって言われない?」
「言われねーよ」
 和の発見に思わず照れて顔を遠ざける。
「あたしもまつ毛長いんだよ。似てるとこ、みっけ」
 無邪気にくすくす笑う。屈託の無い笑顔で。
 しばらく一人で笑ってから、もう一度こちらを見て彼女が言った。
「幸人くんて、昔からそんなに無口なの?」
 いつからだろう。人と話をするのを拒むようになったのは。心を悟られるのが怖くなったのは。
「本当は、聞いて欲しいことがあるんじゃないかって。そんな気がするの」
 和になら、話してもいいと思った。誰にも話したことない話を。
 滲む夕焼けが、心を少し緩ませた。
「――俺は、いらない子だったんだ」

 幼い頃の記憶にあるのは、厳格で仕事熱心な父と、そんな父に不服も言わずに尽くしていた母との三人暮らし。
 父はあまり家に居なかったが、仕事が忙しいからだろうと思っていた。
 突然だ。突然だったんだ。父が家を出たのは。
「お父さんは他にも家庭があるんだ。この家を出てそっちに行くから、お前はお母さんと暮らしなさい」
 まるでコンビ二にでも行くかのように、振り向きもせず、出て行った。
 夜中に父と母の喧嘩する声が一度だけ聞こえたことがあったから、それがどういう意味か、ガキの俺にも察しはついた。
 母は何事も無かった顔をして、その日もパート出かけた。母が夜中に酒を飲んで泣くようになったのも、俺をヒステリックに怒るようになったのも、その頃からだ。
 母はいつも俺にいい子にしていなさい。そればかり言っていた。いい子にしていれば父は帰ってくるんだね。元の生活に戻れるんだね。俺は本気で信じていた。
 あれは小学一年生の夏だった。夜中になっても、母は帰って来なかった。留守番は慣れているが、今日はなぜだか独りが怖い。寝ながら待とうとしても、暑くて眠れない。節約のためと言われているので、エアコンをつけるのも許されず、布団の上を転がりながら母を待った。
 寝てしまったと気付いたのは、ドアを叩く音が聞こえたときだ。早朝だというのに、けたたましいノックの音に母が帰ってきたのだと思い、勢いよくドアを開けた。
 だがそこに居たのは見知らぬ男の人だった。その人の深刻な表情で言う「幸人くんだね」の声にただならぬ胸騒ぎがした。
「きみのお母さんが電車に飛び込んだ。自殺だったよ」
 驚きはしたが、涙は出なかった。悲しいとかそういうレベルじゃない。悲しさより裏切られたという感情が勝った。
 俺はいい子にしていたじゃないか。お手伝いもしたし、宿題だって忘れずにした。母を怒らせないように笑顔を心がけた。それなのに父も母もどうしていなくなるんだ。

 俺が今度どうなるのかは、大人たちが決めた。父親も親戚もいるのに誰も俺を引き取らない。俺は施設に入所することになった。中学卒業までそこでお世話になったが、いつまでも居るわけにもいかず、その後は職を転々としながら一人でどうにか暮らしてきた。
 母はなぜ俺を残して死んだのだろう。俺と生きていくのが嫌になったのか。
 父は俺のことが気がかりではないのか。捨てた息子のことなど、思い出しもしないのか。
 俺は何のために生きているのだろう。生きる必要がないのかもしれないな。所詮ぼんやりと虚ろな存在なのだから。

「――なんて、面白くもねえだろ。ひくよな、こんな話……」
 照れ笑いしながら和の方を見ると、静かに泣いていた。大粒の涙を流しながら。
 俺が泣かしたのか。俺を不憫に思い哀れんでいるのか。それとも……。
 俺は悪いことをした気がして、いきなりベンチを立ちあがった。和に渡すハンカチなんか持っていない。
「悪りい。俺、帰るわ」
 その場に居られない。俺のせいで彼女は泣いたのだ。俺が慰めるなんて筋が通らない。
 暮れていく空に和を残し、振り向きもせず走り去った。


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 ――話さなければよかった。
 激しく後悔した。嫌われたかもしれない。もう和に会えない。
 いやそれでいいのだ。俺が誰かと心の触れ合いを求めることなど、初めから間違いだった。どうせ誰も俺には関心ないじゃないか。
 アパートに駆け込むと、薄暗い部屋の隅で、捨てられた子犬のようにうずくまった。

 今夜も熱帯夜に襲われる。
 Tシャツがじっとり汗をかいた背中に張り付く。静か過ぎる不気味な夜に耳に入ってくるのは、俺が寝返りを打つたび布団が擦れる音と、自分のうなり声。
 言いようのない恐怖に怯える。
 ――俺を独りにしないでくれ。
 隠していた本心が叫ぶ。
 置いていかないでくれ。俺はここにいる。誰かに気付いて欲しいんだ。
 強がりを見せかけていても、孤独感は背中合わせに居座り続け、いつだって俺を不安に陥らせる。
 小鳥の鳴き声が聞こえてきた。少しずつ少しずつ、朝が近付く。

 次の日、何度も携帯電話が鳴ったが取らなかった。何と言ったらいいのか。
 やはり謝ったほうがいいのか。泣かせるつもりは無かったなんて言い訳にしかならない。俺の話で泣いたのだから、謝るべきだ。
 ようやく踏ん切りが付いて、五度目の電話で覚悟を決めた。
 待ち合わせの公園に行くと、もう和は来ていた。俺は目だけで挨拶をして、ベンチの隣に座った。
 まずは謝ろう。
 何の迷いも無く、純粋に生きてきた君に、嫌な話を聞かせてしまったな。
 忘れてくれないか。何も気にすることはない。
 頭の中では弁舌だ。
「あの……。昨日のことなんだけどな……」
「あたしね」
「えっ」
「子供の頃、誘拐されたことがあるんだ」
 唐突な切り出しに驚いた。
「四才のときね。あまり覚えてないんだけど」
 彼女は話を始めた。

 幼稚園で帰りの仕度をしていたら、母親の代理だと言う人が迎えに来た。その当時は今ほど警戒心がなかった幼稚園の先生は、その人に和を預けたそうだ。
 和もお母さんの友達と名乗るその女の人に、何の疑いも持たずついて行ったという。見た感じは自分の母親と同じくらいの年齢で、綺麗で大人しそうな人だったから、それだけで信じてしまったと和は言う。
 その後電車に乗ってどこかのデパートに連れて行かれ、アイスクリームを買ってもらい、屋上で乗り物に乗ったのは覚えているらしい。
 しばらくして、和が疲れたからおうちに帰りたいと言ったら、その人の態度が急に変わったと言う。
「あたしがママの所に帰りたいと言ってぐずったらね、その人はパパとママを困らせてあげましょうよ。もう少し私と一緒にいましょうね、と言うのよ。でもやだやだと言って泣きそうになったらね、その人、あたしの顔を覗き込んで、私と一緒に死んでくれる?と言ってあたしの首に手を掛けたの。あたしびっくりして大きな声で泣いちゃったの。するとその人は、そうよね、私とじゃ嫌よね、と言ってそのままどこかへ行ってしまったわ」
 しばらくその場で泣いていたら、デパートの従業員が来て、迷子センターに連れて行かれ、連絡を受けた父親と母親が血相変えて迎えに来たらしい。
「ママはずっと泣いていた。パパは申し訳なさそうな顔して黙っていたの。それからはパパもママも誘拐の話をあたしの前ではしなかったけど、その後すぐ離婚したの。子供心に誘拐が原因だって分かったわ」
 そこまで話して和は大きく息をした。
「あたしのせいだ。あたしが誘拐されたからパパとママは仲が悪くなっちゃったんだ。ママはあの日のことは忘れなさいって言うけれど、あたしはっきり覚えてる。パパが何度もママに謝っていたのを。パパは悪くないのに。あたしが誘拐されたから……」
 最後の声は小さくてよく聞こえなかった。泣きそうになるのを我慢しているのが俺にもわかった。

 話のすべてを黙って聞いていたけれど、思い出すのも辛い話を俺にしてくれる和を、何度もいとおしいと思った。肩に触れたいと思った。彼女の笑顔の奥にある辛い記憶を、少しでも楽にしてあげたいと思った。
 和も辛い過去があったのだ。それなのにいつも明るい。世間の連中だって顔には出さないが、他人に言えない傷を抱えて生きているのかもしれない。子供の頃の辛い記憶をいつまでも引きずっているのは俺だけだ。
 和は長いまつげを濡らして俺を見た。
「心を閉じたままでいるともっと辛くなるよ。あたしたちは似たような痛みを持つもの同士」
 ひざの上に置いた俺の手に、和はそっと自分の手を乗せた。
「あたしには、幸人くんが必要だから」
 和の目を見つめ返した。黒と白の目は今まで俺を冷ややかな同情の目で見てきた奴らとは違い、温かく包み込む。
 感情を表すことも、本音を他人にぶつけることも、今まで避けてきたのは、他人に心を開いたとしても、裏切られ捨てられるのを恐れていたからだ。凍りついた心を溶かしてくれる人を待っていたのかもしれない。
 俺は和に思いのすべてを伝えたかったけれど、どう言えばこの安らいだ気持ちが伝わるのかわからない。ただじれったくて、いろいろ頭で考えるより先にしたことは、俺の手の上にある和の手を掴んでみたら、彼女も俺の手を握り返してくれたので、ほっとして息を吐いた。

 子供を捨てた父と、子供を残して逝った母。俺があの日、怯えながら母を待っていたのと似た思いで、母は帰らない父を待ち続けていたのだろうか。
 俺たちを捨てた父は、今頃別の家族とのんきに暮らしているのかと思うと、憎しみより先に軽蔑心が湧く。勝手にすればいいさ。たかが記憶の残骸に過ぎない。もうつきまとわないでくれ。
 俺はいったい、いつまで過去に怖気づいているのだ。
 眠れない暑さが今夜もべたべたと纏い付き、得体の知れない恐怖が過去から這い上がる。
 
 それから数日後、星のきれいな夜ふけのことだった。
 アパートで退屈していると、急に和から電話があった。
「今すぐS病院に来て! 幸人くんのお父さんが……」
 なぜ、和が俺の父親を知っている。俺でさえ会うどころか、何年も音信不通だというのに。
 ともかく俺はS病院へ急いだ。
 彼女から聞いた病室のドアを恐る恐る開けた。深刻な気配にたじろいだが、病室に入るとすぐ、ベッドに横たわる老人に視線をやる。点滴チューブをつけた腕は細く、鼻からも管が通っている。白髪交じりの頭に痩せこけた頬、まさかこれがあの厳格で怖かった父親なのか。
 ベッドの横には、和がうつむいて立っている。
「幸人か」
 しわがれた力ない声。十何年ぶりに聞く父親の声だ。こんな形で再会するとは。俺のことなんか忘れて新しい家族と幸せに暮らしていると思っていた。
「何だよ、おやじ、死にそうじゃねえか」
 老いぼれた父は、長いまつ毛の窪んだ目でじっと俺を見た。懐かしそうに、安心したように。
「お前たちには申し訳ないことをした。死ぬ前にこれだけは詫びたかった」
 お前たち……? 何を言っているのだ。疑問は直感的に疑念に変わった。
「妹だ」

 すべてを理解した。父が俺と母を捨ててまで手に入れたかった家庭のことを。
「こうして永く病を患っているのも、お前たちを不幸にした罰だ。ずっと会いに行こうと思っていたが出来なかった。死を前にして成長した息子に会いたいと願ったのは、私のエゴだ。すまない……」
 そこまで言うと父は咳き込み、慌てて和が背中をさすった。
 俺は黙って背を向けると、逃げ出すように病室を出た。
 脳が交錯する現状に混乱状態に陥っている。廊下の奥にある談話室へゆらゆらとたどり着いた。しばらく窓際に立ち通し、星空を見上げていると少しは冷静になれた。

 憎しみと怒りしかなかった父だ。それなのにあんなに衰えて気弱なこと言いやがって。これじゃあ殴ることも出来ないじゃないか。
 過去の恨み辛みを吐き出したとして、それで俺は満足なのか。
 さっき父は俺たちを不幸にしたと言った。俺は不幸だったか? ふて腐れて世の中に背を向けていたのは自分の身勝手だ。誰のせいでもない。
 和の家庭さえも守ることが出来なかった愚かな男を、今はもう哀れむしかない。天罰のように寂しく命が薄れていく男の生涯こそ、不幸ではないのか。
 和もまた、同じ父によって辛い過去を背負わされた、血を分けたきょうだいなのだ。
 和を思えば、俺の投げやりな感情は繊細なものに取って代わる。俺たちは細胞で繋がれていた。
 和を誘拐したのは、きっと俺の母親だ。
 断定は出来ないが本能がそう伝えた。母の自殺は、良心の呵責に苛まれたあげくの、誤った判断だったのかもしれない。

 夜の窓ガラスに映っていたので、背中を向けていても和が後ろに立っていたのが分かった。
「お父さんの容態が……」
 表情は見えないが、かすれた声が辛さを告げている。
「知っていたのか?俺のこと」
「……うん」
「いつから?」
「初めて図書館に行った日から」
「……そうか」
 心配して俺の近くにいてくれたのか。同じような悲しみを持つ俺のそばで、声を聞いて、話をして、泣いてくれる。和にとってはこんな俺でも兄なのだ。俺と分かち合いたかったのかもしれないな。
 血の繋がる家族がいる。俺を気に掛けてくれる人がいる。そう気付いただけで、俺の存在は輪郭を持ち、はっきりと地面に足を着けた。
 それとも存在とは俺の中ではなく、誰かの中にあるもので、それは目に見えなくても、心で感じるものだ、とでも言うべきか。
 もう熱帯夜に悩まされる日は来ない。確信を持って言い切れる。

「和」
 振り返り俺が呼ぶと、彼女はうつむいていた顔を上げた。
「お前の心の中にいる。それが俺の存在理由だ」
 和は少し微笑んだ。
 なぜ生きるのか。人は答えを求めたがる。生きる答えが見つからなければ生きられないわけじゃないのに。
 急いで病室に戻ろう。そしてこれだけは父に伝えよう。俺は不幸ではなかったと。

 空にうっすらと光が生まれた。朝はもうじきやって来る。



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児童文学 『かんちゃんとのやくそく』

kage

2009/05/05 (Tue)

競作参加作品 テーマ『春』 お題『入学式』

 ぼくの友だち かんちゃんは、かっこいい車にのっているんだ。
 ようちえんのみんなとおさんぽに行くときも、おへやであそぶときも、いつもその車にのっているんだよ。
 かんちゃんせんようなんだって。ほかの子はのっちゃだめなんだ。
 かんちゃんは うんてんがとてもじょうずなんだよ。
 ろうかをまがることも、バックもできる。すごいよね。

 ぼくはかんちゃんとなかよしなんだよ。ようちえんでいつもいっしょなんだ。
 絵本をよんだり、おりがみをしたり、たんぽぽ組でかっているカメにえさをあげたりしてあそんでいるよ。
 かんちゃんはとっても ものしりなんだ。
 ポケモンのしんかけいや 虫のかい方や きょうりゅうのしゅるいをたくさんしっている。やっぱりすごいよね。
 ぼくは今日もかんちゃんのとなりで、いろんなお話しをしながら、きょうりゅうの絵をかくんだ。
 ほかの男の子たちは木のぼりしたり、おいかけっこしたりして、お外であそんでいるけれど、ぼくはおへやであそぶのがすきなんだ。
 でも先生は
「男の子はお外で元気にあそびなさい」
 って言うの。
 なんでかなぁ。ぼく元気におえかきしているよ。

 かんちゃんの足は ほかのみんなより細くて小さい。だからいつも『かんちゃん号』にのっておさんぽに行くんだ。
 がたがた道は先生もおしにくいから、ぼくがてつだってあげるんだ。
 よいしょ、こらしょ、ってうしろからおすんだよ。
 するとかんちゃんが、えへへってわらった。
 先生が「よかったわね。大すきなゆうくんにおしてもらって」
 と言うから、ぼくも うふふってわらった。ちょっぴりてれくさかったから。

 ぼくはかんちゃんとテラスにすわって、おにわであそぶお友だちを見ている。
 てっちゃんやこうくんは、木のぼりやおにごっこをしてあそぶのがすきみたい。
 ぼくは木のぼりができないし、走るのがおそいから、みんなはぼくをさそってくれないんだもの。
 ぼくはこうしてかんちゃんと二人で、みんながお外であそんでいるのを見ているだけでいいんだ。

 ある日、てっちゃんがぼくらのところにきて言った。
「ゆうくん、いっしょに木のぼりしようよ」
 うーん。でも、ぼくやったことないし、できないよ。
「だいじょうぶだよ。いちばん下の木のえだに足をかけるんだよ」
 できるかなぁ。やってみようかなぁ。
 さくらの木の下に行こうとしてふりかえると、かんちゃんがわらっていた。
「いいよ。行ってきて。ぼくここで見ているから」
 ぼくはちょっとかんちゃんにわるい気がしたけど、はじめて てっちゃんがさそってくれたんだもん。木のぼりしてみたかったんだもん。
 ぼくは大きなさくらの木に、しがみついてみた。
 太いえだまで 手がとどかないし、足もとどかない。
 がんばって上に行こうとしたら、てっちゃんとこうくんが、おしりをおしてくれたんだ。
 やったよ! 見て見てかんちゃん! いちばん下のえだまでのぼれたよ.
 テラスでかんちゃんがぼくを見てわらっている。ぱちぱちと手をたたいている。
 木のぼりできたのはうれしかったけど、ほんとは はんぶんくらいさみしかった。
 ぼくはやっぱりかんちゃんといっしょに、おえかきしたりポケモンのお話しをしているほうがたのしいよ。
 ぼくはかんちゃんのいちばんのなかよしなんだもの。

 それからもぼくはときどき、てっちゃんとすなばでトンネルをつくったり雪だるまをつくったりしたけれど、テラスでぼくを見ているかんちゃんと目をあわせて、うふふってわらいあうんだ。いっしょにあそんでいる気分になるから。


 そつえんしきの日、先生が言った。
「かんちゃんは四月からようご学校へいくので、みんなとおなじ小学校へは通えません。かんちゃん。 ようご学校へ行っても、おべんきょうやリハビリがんばってね」

 おなじ小学校へ行けないなんて、さみしいな。
 もういっしょにおえかきやおりがみできないのかなぁ。

 かえるとき、かんちゃんがおにわのさくらの木の下でぼくに言ったんだ。
「いつかいっしょに木のぼりしようね」
 やくそくだよ。きっとまた会えるその日まで、ぼくもれんしゅうしておくから。
 かんちゃん、ほら見て。あきにみんなでうえたチューリップのめが出ている。
 「ほんとだね」なに色のお花がさくのかなぁ。「お花がさくころには、ぼくたちは一年生だね」

 ぼくはそのよる、ゆめをみた。
 一年生のぼくは、かけっこがはやくなって、かんちゃんとおにごっこをしている。
 さくらの木のところまで走って行くと、ぼくはじょうずに木にのぼるんだ。
 木のえだにすわって手をのばすと、かんちゃんはぼくの手をぎゅっとつかんだ。
 そして、太くて強い足をみきにかけて、ぼくのいるえだまでよじのぼったんだ。
 二人ならんで見たお空は、とっても青かったよ。


 ぼくは今日、赤いネクタイをしめて、パパみたいなスーツをきて、小学校に行くんだよ。ぴかぴかの黒いランドセルもせおってね。
 ママもピンクのワンピースをきて、めずらしくおけしょうもしちゃってさ。
これから入学式なんだよ。
 かんちゃんのようご学校も、おなじ日に入学式なんだって。
 かんちゃんも、今ごろ『かんちゃん号』にのって、かっこいいスーツきているかな。

 たいいくかんのとびらがあいたら、ぼくたちは一年生になるんだね。
 いろんなものを見たり、聞いたり、考えたりして、少しずつ大きくなっていくけれど、さくらの木の下のやくそくはわすれない。
 ぼくたちはずっとたいせつな友だちだもの。

 ――新入生の入場です。はくしゅでむかえましょう。



                              了


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現代小説 『約束の日』

kage

2009/01/25 (Sun)

競作参加作品 お題『みかん』


「そろそろ着く頃か……」
 俺は新幹線の窓の外を目を細めて眺めた。大きなカーブに差し掛かれば列車の速度がだんだんゆっくりになる。東寺の五重塔が見えると、京都に来たという気がした。
隣の乗客も網棚から荷物を降ろし、降り仕度をはじめた。俺は膝の上に小さめの旅行バッグを置いて、ジャケットの内ポケットに手を伸ばした。封筒を取り出して確認すると、にやりと口元を上げ、またそれを内ポケットにしまった。

 京都に来たのは八年ぶりだ。学生時代に四年間住んでいた思い出深い街。俺はこれから起こるだろう出会いの予感を抱きながらホームに降り立った。
 京都駅は近代的ではあるが、どこか古都の風情が残っている。正面にそびえるろうそく形の白いタワーに向かって立ち、思わず懐かしいなーと声に出した。
 河原町に出ようか。それとも寺院巡りか。もう学生時代と違うのだ。祇園先斗町へ行ってみよう。入ったことない店に行き、飲んだことない酒を飲もう。ああ、その前に手紙の送り主に会いに行かなくては。手紙の主と一緒に食事でもと言う話になるかもしれない。
 などと空想を廻らせながら京都駅を背にして立っていると、後ろからよぉと言う声がしたので振り返る。
 大学時代の友人のナオキだ。今日こちらにやって来る事を伝えたら会いたいと言うのでここで待ち合わせた。八年ぶりの再会だというのに学生のころと変わらないずいぶんと簡単な挨拶。男同士というのはさっぱりしているのかもしれない。
 俺は軽薄な笑顔をみせるナオキに呆れ気味に言った。
「お前変わってないな」
 老舗の呉服屋の若旦那のくせに茶髪にピアス。とても跡取り息子とは思えない。
「ユウジは少しおっさんぽくやったやん」
 当たり前だ。こっちは一流企業のサラリーマンなんだ。いつまでも学生気分でいられない。
「ナオキはいいよな。気楽で」
 と言うと、あいつはフフンと笑って見せた。嫌味のつもりで言ったがやつには通じてないようだ。
「ところで、手紙ってなんやねん。見せてみ」
 そう言われて俺は封筒を差し出した。

 一週間前、自宅に一通の手紙が届いたのだ。京都らしい上品な和紙の封筒に淡い青色の花が印刷されている。お揃いの便箋には美しい文字でこう書かれている。

  庭のからたちがたくさん実をつけました。
  十二月一日は約束の日ですね。
  覚えていらっしゃいますか。
  お会いできるのを楽しみに待っております。
                       春野 清美

 差し出し人の名前に全く覚えがないし、約束の日とは何のことかも分からない。だがこんなに綺麗な字で書かれた手紙をもらったのは初めてのことで、ましてや自分に会いたいと待っている人がいるとなれば、とにかく行ってみるしかない。さっそく有休をとって新幹線に飛び乗ったと言うわけだ。

 ナオキはその手紙を声を出して読んでから、へえーと言って俺に返した。
「しかし、お前ほんまに春野清美って人に心当たりないんか。その当時付き合ってた女はぎょうさんおったやろ。その中の一人ちゃうの」
 俺は数秒記憶をたどってから、知らないな、と言った。
「気になるのは、約束の日。今日のことやろ。結婚の約束でもしたんちゃうか」
 ナオキはにやにやして冗談めかす。
「まさか。それなら覚えているだろう」
 本気で焦る俺の肩にぽんと手を置いて、「まっ、とにかく、行ってみれば分かるっちゅうことやな」
好奇心旺盛なナオキは、俺より先に電車の駅に向かって歩き出した。
 ナオキはよほど興味があるらしい。自分のことのようにはしゃいでいる。俺も正直言ってひとりでは不安だったから、こんな軽いヤツが一緒のほうが楽しい旅になるだろう。


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 電車を乗り継いで住所に書かれてある嵐山に向かう。
 遠足気分のナオキを連れ、とろとろ走る路面電車。この電車に乗るのも久しぶりだ。街を離れると次第に赤や黄色に紅葉した木々が低い山をあざやかに染め出し、日本的な趣を醸し出すのがいかにも京都らしい。窓の外には懐かしい風景が続いているが、よく見ると所々周りを見下ろすように建っている背の高いマンションが雰囲気を壊している。以前はこの辺りは田んぼばかりでマンションなどなかったはずだが、街の変化が十年の年月を物語る。だいぶ印象が違って見えた。

 嵯峨野駅で降りて、そこからは歩きだ。住宅が並ぶ駅からの細い一本道は田舎らしさが漂っていて、初めて歩いた気がしない。俺は過去にもこの道を歩いたのだろうか。新築風のアパートやコンビニがあちこちに建っているせいか、以前に来たことがあったとしても、変わっていて思い出せないのだろう。
 ナオキが携帯のナビを見ながら、たぶんこの辺りのはずやで、と言った。
 目的地に近づいていると思うと緊張感が湧いてくる。髪の毛を両手で撫で付け、服装の乱れをチェックした。あの手紙のムードからして美しい女性に違いない。その人は俺に会いたがっている。話の成り行き次第では泊まっていくことになるかもしれない。そうなればナオキはどうする。うまいこと言って追い帰そうか。

 しばらく行くと雑草が生い茂る空き地の隣に、一軒の民家が見えた。
「おい、ここちゃうか」
 封筒を取り出して住所を確認する。
 古い民家の横にプレハブ小屋がある。何かの作業場らしい。その横の倉庫にはダンボール箱が高く積み上げられている。民家と作業場を囲む生け垣は小さな実をつけている。枝には三センチほどの太く鋭い棘があり不法侵入を防ぐかのような強い意志が感じられる。
 これが、からたちの木か。歌や小説にはよく出てくるが実際に見たのは初めてだ。
 初めて……ではない。この木は前にも見た覚えがある。
 そうだ、確かに俺はここに来た。

 その時小屋から小柄な五十代くらいの男性がにこやかに現れた。
「ああ、これはこれは、ようこそいらっしゃいました。本当に来てくれはったんですね」
 男性は首に掛けたタオルで顔の汗を拭きながらそう言った。
 俺は人の良さそうなその男性に向かって、おどおどと窺う。
「あのう、こちらに清美さんという方は……」
「私ですよ」
「ええ? おじさんが? てっきり女の人やと」
 俺より先にナオキが言った。
「よく間違われるんですわー。わっはっは」
 と豪快に笑って見せた。つられてナオキも引きつった笑いを浮かべている。
「それにしても、十年前のこと覚えていてくれはったんやね。わざわざ来てくれはるなんて嬉しいですねぇ」
 と言う男性の言葉で我に返った。
 ―― 十年前……。
 思い出した。俺は十年前の今日――。

 その頃俺は大学二年生。学生課に貼り出してあったバイト募集の中からたまたま見つけて、この作業場に来た。神社などに置いてあるお守り袋を作っている小さな会社だ。
 赤や紫色の錦織物でできた袋に手作業で紐を通していく。出来上がったお守り袋の数を数えて箱に詰め、納品先ごとに振り分けていく、という単純で地味な仕事だ。秋から冬にかけては忙しい時期らしく、パートのおばちゃんが休んだ三日間だけ雇われたのだ。

 一日目はここのじいさんとふたりで、黙々と紐付け作業をこなしていたが、一時間もすれば飽きてきた。じいさんは歩く速さは亀より遅いが、一度作業をはじめると、迅速かつ正確で、あっという間に完成品が積み上げられていく。誰にでもできる単純で簡単な仕事だと思っていたが、これが職人技かと感心した。じいさんが俺の分までやってくれるし、じいさんも何も言わないので、俺は置いてあった茶菓子を食ったり、携帯で彼女にメールをしたりして適当に怠けた。
 二日目もじいさんと作業場で二人きりだ。畳が敷かれた小屋の真ん中に置いてある座布団の上が俺のスペースだ。周りはダンボールで囲まれている。じいさんはストーブに近い位置を陣取って、俺のより分厚い座布団に猫のように背中を丸めて座っている。じいさんとは一度も口をきいたことがない。耳が遠いらしく近くで大きな声を出すのが面倒だったし、これといって話題もない。
 無言で作業を続け、飽きると同時に肩が凝りはじめた頃、じいさんが亀の動きで小屋の外に出た。トイレに行ったらしい。年寄りはトイレの回数が頻繁でしかも長い。
 気を緩め腕を伸ばしてのびをしながらふとみると、壁ぎわに置かれた事務机の上の金庫のふたが空いている。近づくと一万円札が数十枚入っているのが見えた。俺は周りを見回して、その中から数枚を手にし、素早くズボンのポケットにしまった。そして何食わぬ顔してまた元の場所に戻り、作業をはじめた。数分後じいさんはのそのそと小屋に入ってきて、自分の指定席で作業を再開した。
 その日の仕事が終了し、作業場を出て庭を抜けると、生け垣の木に形の悪い黄色いみかんのような実を付けているのを見つけた。薄気味悪い大きな棘に囲まれた実は、誰も収穫したがらないのだろう。地面にたくさん落ちている。棘が刺さらないように気をつけて一つもぎ取り、歩きながら噛り付くと、すぐに顔を歪めた。苦くてすっぱい実をぺっと吐き出し、道路の隅に投げ捨てた。
「こんなもん、アゲハの幼虫でも食わねえよ」
 一瞬腹がたったが、ポケットの中のお札を思い出し、ふっと鼻で笑った。

 三日目、びくびくしながら作業場に行ってみると、じいさんは相変わらず猫の形で、手だけは素早く動かして紐付け作業中だった。集中しているのか見えていないのか、俺が小屋に入って来ても顔を上げない。お金がなくなったことにも気がついていないのか。年寄り相手だ。俺の仕業だとは勘付いてないに違いない。
 しばらくするとまたじいさんがトイレに立った。じいさんが小屋から見えなくなるのを確認して、俺は再び実行に移す。ラッキー。今日も金庫の鍵が開いている。中を見ると昨日と同じように数十枚のお札がある。手を伸ばして三枚取った。昨日のと合わせて十万円になる。バイトは今日までだ。バレやしない。
 お札をポケットにしまうと含み笑いが込み上げる。ちょろいぜ。
 そう思った時、肩を強く掴まれた。
「何してはんの」
 びくりとして振り向くと、じいさんの息子、つまりこの会社の社長がいた。
 慌てた俺はとっさに土下座してこう言った。
「母が病気で入院中なんです。母子家庭で働きづめの母に苦労をかけっ放しで。俺のバイト料じゃあ 病院の支払いや学費も払えなくて、つい……。すいませんでした」
 嘘だ。母親はぴんぴんしている。今頃寝っころがってせんべいでも食っているだろう。
 頭を地面につけながら目を強くつむった。その場しのぎの出任せでごまかせる訳がない。嫌な汗が流れた。
「それはお気の毒ですね」
 意外な返事に驚いて顔を上げると、社長は眉間に皺をよせ気の毒そうにこちらを見ていた。
「今どき珍しい親孝行の息子さんや。このお金で入院費を払ってください。かまへんよ。そのお金はお貸しします。お金ができたら返しに来てくれはったらええから」
「ありがとうございます。十年後の今日。必ず必ず返しに来ますから」
 と言ってもう一度頭を下げた。にやりとしながら。
 返す気などない。その場を逃げられさえすれば、どうでもよかった。
 だれも俺を怪しまない。
 田舎の年寄りを騙すなんて、なんて簡単なんだろう。ありがたくお金を頂戴して、さっさとそこを出た。
 その時の社長が、春野清美さんだ。

「あの時あなたが盗もうとした……いや、貸した十万円をわざわざ返しに来てくれはったんですね。ちゃんと覚えてくれはると信じていましたよ」
 清美さんは目じりの皺をいっそう深くして柔和な表情を向ける。
 俺は今どんな顔をしている。青ざめているか。きっと俺の指先は小刻みに震えているのだろう。手に持った手紙ががさがさと音を立てている。
「……ええっと。オ、オレ用事思い出した。帰るわ。ほなな、ユウジ」
 ナオキは軽蔑とも哀れみともとれる顔を俺によこすと、逃げるように走り去っていった。
 おい、俺を一人にするな。後を追いかけようとすると肘を掴まれた。
「また逃げるのですか。同じ手は使えませんよ」
 清美さんはさっきまでの声と違う低い声で言った。目は笑っているが笑っていない。背筋がひやりとした。
 だれも俺を助けない。

「い、今お金をお返ししようかと……」
 観念してそう言うと、強く掴んでいた手を放してくれた。俺は財布を取り出して、京都の滞在費用にしようと思って下ろしたばかりの現金を清美さんに手渡した。清美さんは拝むようにお金を頭の上にあげて、おおきにと言った。お礼を言われるとどう反応していいかわからない。
「こちらこそ。返しに来るのが遅くなってしまってすいません」
 と言っておいた。
 清美さんは人当たりの良さそうな笑顔で
「これからどうしはんの? お茶漬けでも食べて行かはりますか」
 と言った。京都人のお茶漬けどうですか、は、もう帰れの意味だ。
 いいえ結構です、と言うと、さらりとそうでっか、と言われた。
 ただでさえ俺はこの場から立ち去りたいのだ。一刻も早く京都から。
 清美さんの透視した眼差しに怖気づく。出来ることなら透明人間になりたい。
 俺は借りたお金を返すためにここに来た、ただの旅行者だ。もうお金は返した。犯罪者にならずにすんだのだ。感謝するべきか。
 清美さんに手を振られ軽く頭を下げると、そそくさと今来た道を引き返す。

 からたちの木の横を通り過ぎるとほのかにみかんの香りがした。からたちは春に白い可憐な花を咲かせるらしい。美しい花と芳しい香り、けれども実は食べるとまずい。うっかり手を出すと鋭い棘で痛い目に遭う。
 からたちが俺をあざ笑っているように不気味に風にゆれた。
                                         
                                                    了

現代小説 『冷めた食卓』

kage

2008/12/19 (Fri)

競作参加作品  テーマ「冬」 お題「白い息」

 『冷めた食卓』

 ――モモコ:こんばんは♪ さっきバイト終わって帰ってきたの。疲れた~。

 ひとりで食べる夕食。この時間に二人が家にいることはめったにない。
 献立は炊き込みご飯、さんまの塩焼き、あさりのお吸い物、小松菜のおひたし。
 炊き込みご飯はちょっと味が薄すぎた。

 ―― モモコ:バイト帰りにハンバーガー食べました! ハッピーセットは子供しかダメだって(笑)

 静かすぎる部屋には食器を重ねる音がやけに響く。一人分の食器を洗いに流しへ向かう。ラップのかかった二人分の夕食。彼らは冷めた食事が私の味なのだろう。きっと炊き込みご飯の失敗にも気が付かない。

 ―― モモコ:今日は早いですね。残業しなかったんですか。
 ―― ヒロ:うん。珍しく早く終わってね。覗いてみたらちょうど君も来てた。
 ―― モモコ:そろそろヒロさん来る頃かなーって思ったの。タイミングばっちり!

 私はモモコ。十九才の女子大生。チャットの中では。

 ネットで知り合ったヒロさんは、私が三十九才の主婦だとは知らない。夫が残業で遅くなる月曜日と水曜日はこうしてチャットで話す。退屈な一人の夜。相手をしてくれるのは画面の向こうにいる顔も知らない彼だけだ。
 夫に内緒で買った中古のノートパソコンに向かう。インターネットを使い慣れない私が、ブログサーフィンでたまたま見つけた新人サラリーマンの日記ブログ。初々しさのある彼の日記に私がメッセージを送ったのをきっかけにたびたび返事を返してくれるようになった。そしてヒロさんは自分のブログに設置したミニチャットに私を招待してくれた。一時間程度のチャットでの会話。彼とチャットで話すときは違う自分になれる。寂しさを知らない、明るい未来があると信じていた十九才の頃の私に。
 ヒロさんは先輩に付いて得意先回りをしていたが今日から一人で回るようになったとか、初めて契約が取れて嬉しかったとか、新人さんらしい職場での奮闘振りを話してくれた。
 私も制服が気に入ったからバイト先をそこに決めたとか、短大の全部の授業が休講だったので友達とショッピングに行ったとか、女子大生らしさを作ってヒロさんに話題を合わせた。
 夫と息子が帰って来るまでのわずかな時間の私のもう一つの顔。チャットの中には、夫も息子もいない過去にタイムスリップしたモモコがいる。

 玄関でドアが開いた音がした。息子が帰ってきたようだ。

 ―― モモコ:そろそろお風呂に入らなきゃ。ママがうるさいの。ではまた月曜日に。

 息子に見つからないように新聞紙でパソコンを隠す。
「高志。ごはんは?」
「いらない。ダチと食ってきた」
 息子はぶかぶかの制服のズボンを引きずってウォレットチェーンを鳴らしながらそれだけ言うと、自分の部屋に入る。おそらくそのまま朝まで出てこない。パソコンをクローゼットに片付け、息子が食べなかった夕食を冷蔵庫にしまいながら思う。
 たしか今日は塾の日じゃないはず。あの子毎日遅くまで何やっているのかしら。
 入浴を済ませ二階の寝室で化粧水をはたいていると、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。今度は夫が帰って来た。
 しばらくすると電子レンジのチンという音が聞こえてきた。夫は台所にいる。わかっていても一階には降りていかない。夫と顔を合わせ何を話せばいいのか。冷めた夕食を温めるだけなら夫が自分ですればいい。
 階段を昇ってくる音がして、夫が寝室に入ってきた。そろっとスーツをハンガーに掛けると、音を立てないように静かにドアを閉め部屋を出た。私はそれらの気配を背中で感じ取る。ベッドに潜りこみ眠った振りをし続けた。

 朝食も食べずに慌てて玄関を飛び出す息子。いつもと変わらぬ朝だ。
 新聞を読みながらコーヒーを啜る夫に困った口調で言ってみる。
「最近、高志ったら帰りが遅いのよ。まだ高校一年生なのよ。何やっているのか聞いてもろくに答えないし。あなた何か言ってやってよ」
「思春期の男の子はそんなもんさ。あいつも友達付き合いとかいろいろあんだろう」
「それにしても……」
 その続きを言っても無駄だ。夫は家族のことには興味がない。予想通りの味気ない返事しか返ってこなかった。夫は一度も私を見ずに黙々とパンをかじり淡々と身支度をして会社へと向かう。いつもと変わらぬ朝だ。

 夫が知らないのは私がパソコンを持っていることだけじゃない。火曜日にヨガを習いに行っていることも。リビングのカーテンを取り換えたことも。ダイヤの指輪を二年ローンで買ったことも。夫の目には家族の何が見えているのだろうか。
 元々口数の少ない人だ。それは結婚前から変わらない。けれども最近はますます家にいる時間が減り、私と話そうともしなくなった。
 夫は寡黙な上に表情が読めない。会話が減った理由は女がいる後ろめたさからなのか。
 お隣の仲良し夫婦が先月離婚した。何の疑いもなく旦那さんの自慢話をしていた奥さんは、げっそり痩せて実家へ帰っていった。私も同じ道を辿るのか。浮気相手は若くて華やかな女なのかもしれない。手抜き化粧のぼさぼさ髪の私なんて見たくもないという意味か。疑い始めると帰宅が遅いだけで苛立ちを感じる。
 今までに浮気を疑ったことは何度もある。なんの証拠もないけれど。もし見つけたとして、私はどうしたいのだろうか。追求したらあっさり認めるかもしれないが、そんな面倒くさいことはしない。夫の浮気を勘ぐったところでその先に何がある。今の静かな生活を壊してまで。

 ――静かな生活に満足しているの?
 モモコの声が聞こえる。
 ――あなたはそこから抜け出したいんじゃないの?


 ヒロ:どうしたの。今日は元気ないね。
 モモコ:うーん。ちょっとね。彼氏のことなんだけど……。
 ヒロ:どうかした?
 モモコ:最近あんまり会話がないんだ。男の人って浮気していると気が咎めて、話しをしなくなるの?
 ヒロ:そんなことはないと思うけど。
 モモコ:ヒロさん、浮気したことあるんだ~。
 ヒロ:あるわけないだろ(笑)
 モモコ:男は浮気していても、しているとは言わないわ。
 ヒロ:してないって(笑) 彼女を愛しているからね。
 モモコ:なんだ。ヒロさん彼女いたんだ。ちょっと残念^^
 ヒロ:一緒に暮らしているよ。こんな話するの初めてだね。
 モモコ:彼女が浮気していたらどうする?
 ヒロ:あはは。それはないね。
 モモコ:なぜわかるの?
 ヒロ:わかるさ。信頼しているからね。
 モモコ:彼女のこと愛しているんですね。
 ヒロ:そうかもしれないね。男は愛しているとか好きだとか、いちいち口に出して言わないからね。おそらく彼女はそれが不満なんだろうけど。
 モモコ:彼女は言って欲しいと思いますよ。
 ヒロ:だろうね。

 (そろそろ夫が帰る時間だ。チャットを終らせないと……)

 ヒロ:おっと。もうこんな時間だ。お疲れ様。また水曜日に。
 モモコ:おやすみなさい。

「おやすみなさい」「お疲れ様」
 夫にそう言ったのは、いつだったか。最近はチャットの中でしか使ったことのない言葉だ。
 優しくて女心がわかっているヒロさんでさえ、彼女に愛していると言ってあげない。言ったほうがいいと思っていても言わない。それが信頼だとヒロさんは言いたいのだろうか。
 パソコンを閉じると急に現実に戻される。ソファにもたれ掛かりながら時計の秒針が一周するのをぼんやりと目で追いかけた。もう一度時刻を確信してからパソコンをクローゼットの奥にしまうと、夫が帰ってくる前に二階へと急ぐ。顔を合わせたくない。
 夫とヒロさんを比べてしまう。ヒロさんは私より年下だけどずっと大人。私の欲しい言葉をくれる。夫にヒロさんほどの理解と包容力があればいいのに。今の私の楽しみは月曜と水曜のチャットの時間だけ。

 モモコ:ヒロさんとお話しするのがすごく楽しいわ。
 ヒロ:僕だって同じだよ。
 モモコ:月曜と水曜が待ち遠しいの。
 ヒロ:僕もだよ。なんだかこの台詞、恋人同士みたいだね。
 モモコ:本当。恋人同士みたい。

 こんな会話を夫以外の男性としているなんてあの人が知ったらどう思うだろう。どうせ何とも思わないか。
 ヒロさんとの時間が楽しければ楽しい分、夫への愛情は冷めていく。夫より私のことをわかってくれる。乾いた心を潤してくれる。誰にも秘密のこのチャット。愛想のない夫と顔を合わせるより、顔の知らないヒロさんと話しているほうがずっといい。
 広く感じるリビングルームでそばにいてくれるのは、快い起動音を立てるパソコンとホットコーヒーの湯気。この黒くて薄い長方体は呼吸していないのに、私に孤独を与えない。
 夫が浮気しているかもしれない時間はヒロさんに話し相手になってほしい。夫が秘密にしたいのなら勝手にすればいいわ。私にだって秘密はある。しかし罪悪感はない。それはそうだ。それは浮気ではないのだから。
 ではヒロさんに対する気持ちは何? 恋愛感情はない。友達とも違う。一緒にいるだけで包んでくれるような安心感。気を張らなくていい安らぎのある空気。
 家族……のような。私の求めていた家族感が彼にはある。夫ではなく息子でもなく、画面の向こうにいる人に。
 息子は夕食後自分の部屋に入ったきり出てこない。勉強しているのか、ゲームをしているのか。部屋に入ると怒るので掃除もできないが、あの子ちゃんと自分でしているのかしら。
 三LDK一戸建て。三十年ローンを払い終わるのはまだまだ先だ。暖房を点けても暖まらない冷え切ったこの家にばらばらな家族。みんなで囲めるようにと買ったダイニングテーブルはこの家には大きすぎる。


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 ヒロ:彼氏と仲直りできた?
 モモコ:ケンカはしてないんだけどね……。ケンカできたほうがどんなにいいか。
 ヒロ:彼と話し合えばいいのに。
 モモコ:そうしたいけど、最近は話すことさえできなくなっちゃった。分かって貰えないのなら話し合っても疲れるだけだわ。
 ヒロ:男と女は脳の構造が違うから所詮分かり合えないものなんだよ。僕だって彼女がわからないからね。
 モモコ:ヒロさんでもそんなことあるんだ。
 ヒロ:まあね。彼女は僕が贈ったプレゼントは絶対身に着けないんだ。指輪もスカーフも。結構たくさんあげたんだけどね(笑)
 モモコ:大切にとってあるんじゃないですか。
 ヒロ:でもね。僕が贈ったのと違う指輪を毎日しているんだよ。誰かに貰ったのかなぁ、と思うけど本人には聞けやしない。
 モモコ:うーん。別な男に貰った可能性あり^^;
 ヒロ:高そうな指輪なんだよなぁ。そういえば昔、随分昔だけど、自分で作ったネックレスを彼女にプレゼントしたことがあったな。
 モモコ:自分で? へぇ~素敵じゃないですか。
 ヒロ:猫の形をしたやつをね。それも全然してくれなかったな。まぁ安っぽい手作りだからしょうがないや(苦笑)


 キーボードをタッチする手がぴたりと止まる。
 猫……? 猫のネックレス……。
 猫のネックレスを夫と付き合いはじめの頃に貰った覚えがある。二十年も前のことだ。デートで行った観光地の銀細工のお店で手作り体験させてもらって夫が作ったネックレス。
 とても嬉しかったけれど、センスが悪くて一度もしていない。だって小学生が描いた漫画のような猫の顔の裏に、私と夫の名前が彫ってあるんですもの。人に見られたら恥ずかしいわよ。


 ヒロ:……あれ? どうしたの? 止まっちゃったな。
 ヒロ:時間が来たね。じゃあ、今日はこれで。お疲れ様。

 返す言葉が見つからない。
 ヒロさんも彼女に猫のネックレスをプレゼントした? 私たち夫婦と似たような思い出がヒロさんにもあるというの?

 二階に上がって寝室のドレッサーの引き出しを開ける。奥にしまったままの小さな箱を開けると少し黒ずんだ猫のネックレスが見えた。
 大学生の頃の夫。真剣な目で一生懸命作っていた横顔を私は見つめていた。どうして猫なのと聞くと、きみが猫に似ているからだと言った。思えばこれが初めて貰ったプレゼントだったかもしれない。一緒に歩くだけで照れくさくて、手を繋いでくれたのが嬉しくて。あの頃の私たちは会話がなくても側にいるだけで幸せだった。

 しばらくして玄関の鍵を開ける音が聞こえた。私は二階から降りて夫を迎える。ドアを開けると珍しく私が出迎えたものだから夫は驚いたようだ。ご飯すぐ食べる? の私の言葉に、ああ、と言って顔を上げるともう一度驚きの表情を見せた。
 私の胸元にある猫のペンダント。夫はそれに気がついた。
 しばらく言葉が出なかったようだが、どうしたの、それ? うろたえた様子で言った。
「うん……、ちょっと急に思い出して。たまにはしてみようと思ったから」
 へぇ、と曖昧な声を出して夫はリビングのソファにバッグを置くとネクタイを緩めた。
 夫の焦りはなんだったのか。私はこのペンダントを見せた夫の反応を確かめない訳にはいかなかった。

 まさか……。ヒロさんは夫?
 ヒロさんは理解があって話し上手で心が広くて、夫と同一人物であるはずがない。
 でもあのチャットはパスワードを知る人しか入れない。夫があの会話を覗いていたなんてありえない。
 だってヒロさんは二十二才新人サラリーマンのはずじゃあ……。そう思って私ははっとした。
 私は十九才の女子大生。チャットの中では誰にでもなれる。

 夫は複雑な表情で長い間考え込んでいる。目の前に置かれた食事に手をつけていない。私は台所の片づけを素早く済ませ、夫に何か訊かれるのを怖れて寝室へ上がる。

 翌朝、家を出る時間のぎりぎりまで寝ている息子を起こして、慌ただしく送り出す。少し遅れて夫が玄関で靴を履く後ろ姿の、数歩離れて様子をうかがう。
 すると夫が言いにくそうに小声で話をしかける。
「君……、パソコン持ってないよね」
「持ってないわよ。私パソコン使えないもの」
「そうか……。そうだったな。……あ、いや、なんでもない」
 たどたどしくそう言っていつものように無愛想に家を出る。

 ヒロさんの言う猫のネックレスの話は偶然なのか。
 月曜日と水曜日に夫の帰りが遅くなったのは二ヶ月前、そして私がヒロさんとチャットを始めたのもその頃。それも偶然なのか。
「ねえねえ、私見ちゃったんだけどね」
 私の髪をとかしながら急に友人が声を出すので、びくりと肩が動いた。
 そうだ、私は今、友人の経営する美容室に来ている。
「なんか様子がおかしかったのよねー」
 もったいぶっているが早く言いたそうだ。
 なぁに何のこと、と促すとせきを切ったようにしゃべりだした。
「あのねぇ、昨日の九時頃、国道沿いのファミリーレストラン行ったのよ。そしたらお宅の旦那さんがいてねぇ。一人でずっとパソコンしていたわよ。時々くすっと笑ったりして。十時までいたかしら。お仕事ならコーヒー一杯であんなところ行かなくても、ご自宅に帰ってなさればいいのに。ご主人帰宅拒否症なのかしらねぇ。あらごめんなさい。余計なことを。心配だったものだから」
と、ちっとも心配してなさそうに言った。
 昨日のその時間、私とヒロさんがチャットをしていたときだ。十時はヒロさんと私がなんとなく決めたチャット終了の時刻。
 混乱が少しずつ整理されていく。私の顔色の変化が鏡にうつし出された。黙り込んでいる私に慌てた友人が、こんな感じでどうですか、と合わせ鏡にして後ろに立つ。髪型の仕上がりなんてどうだっていい。元々こちらの希望は適当に切りそろえてとしか言ってないのだから。

 セットしたての髪の匂いをまとわりつかせながら店を出る。大きく息を吸って一気に吐くと、ため息の形が白い息になって目の前に現れた。
 大通りの広場に置かれた大きなクリスマスツリーの黄色いイルミネーションが綺麗で、思わず立ち止まって見上げた。洋菓子屋もおもちゃ屋も本屋だってクリスマスセールのポスターやモールで賑やかに飾り付けられている。何処からかクリスマスソングも聞こえてきて、街はすっかり華やいだムードだ。
 今年のクリスマスはケーキでも焼いてみようか。去年は受験生の息子に気を遣ってクリスマスらしいことは何もしなかった。

『ママ、サンタさんにこの手紙とどくかな』
 そう言ったのは七才の頃の息子。イブの夜にはプレゼントのリクエストの手紙を、大きな靴下の中に入れていた。 
 あの子がサンタの正体を知ったのは六年生の時だ。
 学校の友達が自分のお父さんが枕もとにプレゼントを置いたのを見たと言っていたけど、うちもそうなのかと蒼白な顔をして聞いてきた。うちには本物のサンタさんが来るのよと言おうかと思ったが、この年齢の子に見え透いた嘘をつくのもどうかと思い直し、そうだよと言った。すると息子はしゅんとして部屋に入ったきりしばらく出てこなかった。六年生まで本気でサンタの存在を信じていた息子の純真さを、夜遅く帰って来た夫と笑みを浮かべて話した。でもそれ以来息子はプレゼントを欲しがらなくなった。欲しいものは自分で買うからお金をちょうだいと言うようになってしまった。
 あの時息子の問いに、サンタはいるんだよと言ってあげれば、あの子は純朴に育っただろうか。

 美容室であんな話を聞いた後なのに、呑気にクリスマス気分でいる私はなんなのだろう。
 疑い始めて半日で、妙に落ち着いている自分がいた。ヒロさんに感じた家族の感覚に納得できるものがあったし、夫がヒロさんならばそれでよかったのかもとさえ思える。
 チャットの中の二人は過去だ。あの頃の私たちがいる。十九歳の私と二十二歳の夫。
 夫が浮気をしていなかった安堵感。ヒロさんを通して夫の内心が伝わった充足感。このふたつの感情が自分でも不思議なほどに冷静に私を過去へと導いてくれる。

 愛されたい。大切にされたい。理想に描いた家庭を築きたい。
 求めてばかりいた。私は夫に尽くしていたのだろうか。
 夫の温かさをないがしろにし、違う方向を向いていたのは私ではないのか。
 私を見てくれない。何も話してくれない。
 私が夫に対して抱いていた同じわだかまりを、夫も持っていたのかもしれない。
 私は夫を見ていたのだろうか。話をしていたのだろうか。

 私の髪型の変化に無反応の夫は、今朝も普段と変わらず私と目を合わさないようして家を出た。
 今日は水曜日。
 夜の九時をいつもとは違う緊張感で待つ。息を呑んで恐る恐るパソコンを開くと、もうヒロさんは来ていた。

 ヒロ:こんばんは。
 モモコ:こんばんは。やっぱりいましたね。
 ヒロ:この時間までずっと考えていたよ。チャットではきみと打ち解けて話せるのに、彼女には言葉で上手く言えない理由を。
 モモコ:理由はなんですか。
 ヒロ:おそらく、彼女とは努力する必要がない程信頼し合っているという僕の自惚れかな。
 モモコ:言葉にしなくても伝わっていると思います。彼女には。
 ヒロ:そうだといいね。
 モモコ:もし伝えたいことを形にしたいのなら、薔薇の花でも買って帰ったらどうですか。きっと彼女は喜びます。
 ヒロ:そうしてみるよ。照れくさいけど。
 モモコ:実は私……。
 ヒロ:きみに言っておきたいことが。

 同時だった。タイピングの遅い私はヒロさんと重なることが多い。数分後、文字を打ち込んだのは私が先だった。

 モモコ:言わないでおきましょう。さようなら。元の私に戻ります。
 ヒロ:そうだね。僕も本当の自分に戻ろう。
 モモコ:ありがとう。私はもう大丈夫。
 ヒロ:きみと話せてよかった。

 さようなら。永遠に。ヒロさん。そしてモモコ。
 幸せな空気に包まれながらパソコンの電源を切る。

 一時間後、玄関のチャイムが鳴り、私が内側から鍵を開けドアを開くと、顔を赤らめて立つ夫がいる。
「おかえりなさい」
 久しぶりに言うとなんとなく恥ずかしい。ただいま、と、同じく照れくさそうに言う夫の後ろに息子の姿も見えた。
「珍しい。一緒だったのね」
「帰ってきたら家の前でおやじが入りにくそうにもじもじしていてさ。何してんだと思ったら、見ろよ母さん。おやじ花束抱えてんだぜ」
 息子にそう言われて、夫は後ろ手に持った薔薇の花束を私の目の前に黙って差し出した。私は大げさに、まぁきれいと驚いて見せた。想像していたより大きな花束だったので、驚いたのは事実だが。
 息子が汚れたスニーカーを脱ぎながら言う。
「どうしたの? それ。誰かに貰ったの?」
「いや……。これは母さんに……」
「へぇー。おやじ、やるじゃん」
 へへっと笑うとリビングに入っていく。
「あー。腹減った。今日のバイトきつかったよ」
「高志。バイトしているの?」
 大きめの花瓶を棚から出そうとしていた私は驚いて息子を見る。
「あれ、言ってなかったっけ? 自分の小遣いくらい自分で稼ぎたいじゃん。それより今日の晩御飯なに?」
「ビーフシチューよ。手を洗ってらっしゃい。温め直すから」
「ラッキー! 母さんのビーフシチュー食べたかったんだよね。友達とマック行くの断って正解」
「たまには私も一緒に食べようと思って待っていたのよ。急いで仕度するわね」
 自然と笑みがこぼれる。
「母さんの笑顔久しぶりにみたな。最近母さん不機嫌だったから、話しかけないほうがいいのかなって、これでも気を遣ってんだぜ」
「親に向かって生意気言うんじゃないの」
 そう言って笑い合う。息子との会話をそばで微笑んで見ている夫。無口なのは昔から。 

 私と夫と息子。お互いに守り守られている。それが家族だ。
 明日もあさっても、私は台所に立つ。一時間半かけて作った料理を十五分で平らげる息子と、うまいともまずいとも言わない夫のために。
 冷めたシチューは温めなおせばいい。何度でも。
 冬のシチューのように、この家は温かい。ぬくもりを与えてくれる家族のいる、私のホームだ。


                                              了



小説『のら猫の住む部屋』 

kage

2008/06/04 (Wed)

これは私が初めて書いた小説です。初心者丸出しだけど修正せずそのまま載せます


    のら猫の住む部屋 



第1章 春海  

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 四月の海は静かだった。空と海の境が分からない程の黒い空間から吹いてくる風は、少し肌寒く感じた。
 夜の海岸。人影がいなくなったのを見計らったように、修司は今日も砂浜を走る。
 修司がこの海辺の町に来て三ヶ月になる。漁師町にしてはよそ者に無関心で詮索したがらないこの町は修司にとって住みやすかった。
 風が冷たいと感じたのは初めだけで、少し走ればすぐ汗が噴き出る。
 修司は目的があって走っている訳ではない。習慣のようなものだ。誰もいない夜の海は誰かに見られることもなく何も考えなくていい。こんな夜更けに、こんな場所で、男がひとり、冷ややかな空気に汗を飛ばしながら走っているとは、誰も思わないだろう。
 走りながら、何気なく目をやると、黒い海面に動くものが見えた。確かに人影だ。ゆっくりと海の中へと入って行くように見える。まずいものを見てしまったと思ったが、このまま通り過ぎる訳にはいかない。修司はフラフラと入っていくその人影を目指して、海の中へと急ぐ。
後ろから近づく水音に気付きもせず、前へ進もうとするその人の腕を掴み振り向かせた。月明かりの下、近づいて初めて見えた。人影は若い女性だった。女は急に腕を掴まれてはっとすると「はなしてよ」と腕を払いのけようとする。
「面倒くさい奴だな。 死にたいなら俺の見てない時にしろ」
 女は修司を見上げると、何かを思い出したかのように動きが止まった。修司はその視線に気付くことなく「ほら、戻るぞ」と言うと、腕をぐいぐい引っ張って浜へと引き返す。女はおとなしく従った。
 浜にバッグと靴が置いてあるのを見つけると、
「これ、お前のか」
 拾って乱暴に渡す。
「ちっ。お前のせいで俺までずぶぬれだよ。おい。こっちだ」

 修司は漁師小屋へ勝手に入って行く。かまわず棚の上からマッチを探り出して、囲炉裏に火を点ける。女はつっ立って修司のやる事を見ていた。
 すると修司はTシャツを脱いで、近くにあった木箱に引っ掛けた。
 毛布を女の足元に放り投げると、火の前にしゃがんだ。
「お前も脱いで乾かしたほうがいいぞ」
 無表情に言うが、それには女は答えず、ブラウスの胸元を掴んだままガチガチと震えながら、戸口の前で立ち尽くしている。
「まぁ、好きなようにしろ」
 修司は座ってまっすぐ火を見ている。女はじっと修司の横顔を見つめていたが、急に決心したかのように、足元にある毛布にくるまってブラウスとスカートを脱いだ。修司がしたのを真似して木箱に服を引っ掛けて火に近づけた。
 しんとした小屋には火の燃えるパチパチという音だけが響いた。時折、夜の風が戸に当たって、きしむ音を立てて小屋が揺れる。その度に、女は毛布を掴んで身をすくめる。風が止むと再び静寂に包まれる。女はこの小屋に入って一言もしゃべらない。何分経ったのだろう。修司は沈黙を断ち切るようにふいに立ち上がった。
「乾いたな」
 独り言のようにそう言ってTシャツを着る。
「じゃあ、俺、帰るから」
 女の方を見もしないで突き放すように言うと、気にする様子もなく足早に小屋を出て行った。

 修司の住まいは、海岸線から道路を挟んで歩いて十五分くらいの住宅密集地の中にある、二階建ての古いアパートだ。
 しばらく歩くと修司は自分の足音の他に、少し後ろからリズムの違う足音が近づいて来ているのに気が付いた。
 この町は漁師町だ。あまり夜に人影はない。足音は海からついて来ている。
 アパートの入り口まで来たとき、修司は足音の主が誰なのか知っているかのように、呆れたため息を付きながら振り返った。
 思ったとおり、さっきの女がいる。修司が急に振り向いたのに驚いたのか、びくっとして立ち止まった。
「何だ?お前。どこまでついてくるんだよ」
 眉をひそめて発した修司の言葉に、女は「私、この町初めて、泊まる所ないし。……今日泊めてもらえないかな?」と怯えたようにそろそろと答えた。
「はぁ? 何考えてんだ。男の部屋に泊まるなんて。何するかわかんねえぞ」
 声を荒げた修司を恐れることもなく、すねた口調で女は言い返した。
「だって。一人で夜道歩くのこわいし。海にいたら、私また自殺するかもしんないよ。死んじゃうよ」
 アパートの前で、突然大声で自殺だの死ぬだの言われたものだから、修司は焦ってあたりを見回す。
「とりあえず入れよ」
 仕方なくそう言って鍵を開けると修司が先に部屋に入った。その後に続けて女も入る。

 六帖一間のその部屋の中は、物はあまりなくて散らかってると言うほどでもなかった。部屋の隅に小さいキッチンがあり、コンロにやかんと小さい鍋が一つ、マグカップが一つあるだけで、食器らしきものはなかった。大きな登山用のリュックが開けっ放しの押入れに突っ込んであった。家具はなく、洗濯してあるのかないのか分からないTシャツやタオルが二~三枚、畳の上に丸めて投げてある。布団はなく、毛布やタオルケットが出しっぱなしにしてあった。
 女は周りを見回して、そろっと部屋の中へ足を踏み入れた。
「今日だけだからな」
 修司は無愛想にそう言うと、毛布を女の足元にどさっと置いた。見知らぬ解せない女にこうも親切にしてやるとは、自分でも意外だった。
「ありがとう」
 修司は聞こえているが何も答えない。
「それから、もう一つ、ありがとう。命を助けてくれて」
 無表情のまま修司は振り返りもせずに、黙々とリュックから寝袋を出して広げ、自分の寝床を作っていた。
 すると、女は部屋の真ん中に架かっている洗濯物干し用のロープを見つけると、
「あのー、カーテンとかシーツとか、ないよね」
 と言いながら、部屋の中を物色し出す。
怪訝な顔で、女を見ていると
「あぁ、これでいいや」
 女はタオルケットやバスタオルを、ロープに広げて洗濯ばさみで挟んで、勝手に部屋を二つに仕切っている。
 さすがに無視し続ける訳にもいかなくなった修司は「勝手に何やってんだよ」と声を掛ける。
「こっちには入ってこないでね。あなたの陣地はそっち」
 女は平然と答えると、指で畳に線を引く。
「覗いてもだめよ」
「……。ちっ 勝手にしろ」
 修司は自分の陣地に入って、背中を向ける。
 女は男臭い毛布にくるまって、すやすやと眠りについた。
 修司は恐ろしく非常識な女の身勝手さに腹が立ったが、まぁ、明日までの辛抱だ。そう自分に言い聞かせて寝ることにした。

 翌朝、修司はいつもより早く目が覚めた。と言うより、ほとんど寝ていない。自分の部屋なのに落ち着かなかった。
 洗面所にいき、蛇口を勢いよく捻り、水を周りに飛び散らせながら、顔を洗った。正面の壁に貼り付けてある鏡を覗いた。無精髭の顔からしずくがぽたぽた落ちる。情けないほど寝不足顔の男がそこにいる。
「はー。ちくしょう」
 ため息をついた。なぜだか悔しかった。
 すると、物音で目を覚ましたのか女の声が背後から聞こえる。
「ふぁ、おはよう」
 幸せそうな声に、修司は少しいらついた。
 修司は女をちらっと見ると、急いで支度を済ませた。支度といっても、歯を磨いて、着替えて、トイレに行って、五分程で終わる。まだ毛布にくるまって、うずくまっている女の方を見もしないで、
「俺、仕事行くから。夜までには出て行ってくれよ。鍵はかけたら、郵便受けに入れといて。じゃあ」
 それだけ一方的に言うと、なぜか急いで玄関のドアに手を掛けた。
 修司は背中に注がれている、確信めいた視線に気付かぬまま、部屋の外に出てドアを勢いよく閉めた。

 第2章 迷い猫

 修司はこの町に来て以来、建設工事現場で働いていた。いろいろな町を転々として、様々な仕事に就いた。
 黙々と働いて汗を流し、仕事が終わると、帰り道にあるいつも同じコンビニに寄り、パンやカップラーメンや飲み物を買ってアパートへ帰る。暗い部屋の灯りを点け、買ってきた食糧を食べ終わると、海へ行き浜辺を走り、終業間際の銭湯へ行く。家に帰るともう、あとは寝るだけだ。
 これが、修司の日課だ。いつもさほど変わりはない。
 それが、今日は違った。
 アパートの部屋の前まで行くと、灯りが点いている。ドアに手を伸ばすと、鍵もかかっていない。
 まさかと思ってドアを開けると、昨日の女がいる。
「おかえり」
 明るい声に意表を衝かれた。
「何やってんだ? お前」
 ドアの前に突っ立ったまま、眉間の皺をさらに深くして修司が聞く。
「今、お腹すいたから、あそこのコンビニでおにぎり買ってきて食べてたところ」
 と、女はまるで留守番していた子供のように答えた。
「そうじゃなくて。なんでお前、まだここに居るんだよ」
「だって、行くところないし。……ああ、でも大丈夫。バイト見つけたから。駅前のスーパー。明日からそこで働くことにしたから」
 さらりと気安く答える女に修司は足音を大きく立てて近づくと、むっとした表情で声を荒げて言った。
「大丈夫って何だよ。どういうつもりだよ。仕事見つかったなら、さっさと出て行けよ」
「だって、アパート借りるお金ないし。しばらくここにおいて」
「見ず知らずの男の部屋に泊まりこんで、何考えてんだ」
「見ず知らずじゃないよ。私、あなた知ってる」
「!」
 予想外の答えに修司は思わず、声にならない声を発した。
「中塚修司。ボクシング元世界ライト級チャンピオン」
 頭が空白になりうまく反応できない。
「私、あの光ジムの近くに住んでたんだ。高校一年生の時。いつも学校帰りに見学してた。だから知らない人じゃないでしょ」
「……ふぅ、 勝手にしろよ」
「それって、居てもいいってこと? やったー」
 何がそんなに嬉しい。この女は何を考えている? 自分を知っている人が、この町にもいた。
 自分を知る人に会うのが嫌で、現れるとすぐ、町を出て行った。だから一つの町に一年以上居たことはない。
 あぁ、また次の行き先を探すのか……。修司は煩わしくそんな事を考えながら、とりあえず、さっき買ってきたパンを食べた。
 
 狭い部屋の中に気まずい空気が生まれた。もっとも気まずさを感じているのは修司だけだろう。
 (女は何をしているのか。背中を向けているので分からない。でも確かにいる。俺のすぐ後ろに。この部屋に自分以外の人間がいるのは初めてだ)
「共同生活するなら、自己紹介しておくね。私、谷川ユキ。二十一歳。よろしく」
 背中を向けて、無言でパンをかじる男にそう言った。
(これって共同生活なのか?勝手に決めるなよ)
 鬱陶しいので考えるのはやめにして、いつもの日常に戻す。修司は洗面器やらタオルやら持って、部屋を出ようとした。
「どこ行くの」
「銭湯」
「待って。私も行く」
 ユキは立ち上がった。
「私、何も持ってないけど、買えるよね。昨日、お風呂入ってないから嬉しい」
(何なんだこの女は。本当に昨日、自殺しようとしていた人間の明るさなのか)

 早足にどんどん歩く修司の三メートル後ろを、ユキは小走りについて行く。女の歩幅に合わせて歩いてやるなんてことはしない。ましてや、並んで歩くなんて雰囲気でもない。
 三十分後、修司が銭湯を出ると、立ち止まって周りを見た。ユキはまだ出てないらしい。仕方がないので道路の向こう側へ渡り、何気なさを装って、電柱にもたれて立った。
 しばらくすると、ユキが暖簾をくぐって慌てて飛び出てきた。
 修司を見つけると「よかった。待っててくれたんだ」と、ほっとした表情で言った。
「別に待ってた訳じゃねーよ」
 修司はうつむいたまま、目だけユキのほうに向けてそう言うと、振り返りもせずアパートの方向に向かって歩き出した。
 しんとした夜空を背景にして、相変わらず二人は黙ったまま、三メートル離れて歩く。

 部屋に戻ると、ユキは当たり前のように、部屋の仕切りを作った。
「じゃあ、こっちで寝るから。くれぐれも入ってこないでね。覗かないでね」
「のぞかねーよ。興味ねーから」
 度胸があるというのか、無防備というのか、頭がおかしいのか。いくら自殺を止めてくれた男とはいえ、昔、顔を見たことあるとはいえ、男の一人暮らしの部屋だ。普通、男の部屋に泊めてくれなんて言う場合は、それなりの行為もありと決まっている。一夜の関係なんてよくある話しだ。
 しかし、そういう女とは違う。自分から男の部屋に上がりこんでおきながら、そのくせ境界線を作って入ってくるなと、勝手にルールを決めている。ましてや、そのまま住み込むつもりでいる。理解できない。だが、そのルールに素直に従っている自分も普通じゃない。
 即席カーテンに仕切られた部屋の中で、二メートル先に人の気配を感じながら、修司はそんな思いを忍ばせていた。

(ユキは、やたら人に懐いてくる捨て猫のようだ。自分に優しくしてくれた人間に懐いて離れない。もしかしたら本当に猫なのかも……)
 なんて馬鹿げたことを考えて、ふっと笑えた。
 修司は、この突然現れた気まぐれな迷い猫を、しばらく家へ置いてやることにした。

 第3章 部屋の灯り

 修司は日が暮れるのを待って、いつものように海へ行き、汗を流す。
 ユキが修司の部屋へやって来て一週間が経った。いつも仕事を終えて海で走ってからアパートへ帰ると、ユキが夕飯を用意して待っている。修司がそうしろと命令したわけじゃないが、ユキがここへ置いてくれるお礼のつもりと言っていた。
 アパートには食器類や調理器具は何もなかったが、ユキが適当に買い揃え、簡単な料理を作ったり、バイト先のスーパーで惣菜を買って来たりしている。
 そろそろユキはバイトから帰って来る時間だろう。修司はシャドウボクシングを続けながら、そんなことを考えていた。
(同棲カップルじゃあるまいし。ただ部屋を二つに区切って、一緒に住んでいるだけだ)
 頭の中に、ちらちらとユキのことばかり浮んで来るのに自分で気付くと、払い取るように首を振って、軽く舌打ちしながら、海をあとにした。

 街灯の灯りがぼんやりと夜道を照らす。駅前に通じる細い道路沿いの、雑草の生えた駐車場の隣に、修司のアパートがある。
 金属製の外階段を登ると、カンカンという高い音が夜の静けさの中に響いた。
 灯りの点いた部屋のドアを開けると、ユキが「おかえり」と言って出迎えた。
 修司は黙って部屋の中に入ると、小さい袋をテーブル代わりの木箱の上に、無造作に置いた。
「ああ、これ。たこ焼き屋出てたから、買ってきた」
 ユキは微笑みながら「ありがとう」と言うと、キッチンに向かった。
「今日はスーパーでお惣菜買ってきたから、お味噌汁しか作ってないの。でもデザート付きよ。修司さん、チョコプリンと抹茶プリン、どっちにする?」
「あ? ユキが二つとも食えよ。女はそういうの好きなんだろ」
 ユキは修司の顔を窺うと、うつむいて恥ずかしそうに、ふふっと笑った。
「なんだよ。二つ食えるの、そんなに嬉しいのか」
「ううん。今、初めて、私のこと、ユキって呼んだ。名前、覚えてくれてないのかと思ってた」
 と言って、また笑った。
 修司は、慌てて目をそらした。
「さあ、食べよ」
 ユキはまだ嬉しそうだ。修司は垂れてきた髪を掻き揚げもしないで、いつものように、黙々と食べた。

 ユキは恋人ではない。ただの同居人だ。ユキも出て行こうとしないし、修司も追い出さない。
ユキは本当にいつも朗らかだ。オムライスがきれいに出来たとか、天気が良かったから洗濯物がよく乾いたとか、そんなことでいつも幸せそうに笑う。
 なぜ、ユキは無邪気な笑顔を自分に見せるのか。自分はユキに優しくもしていないし、ほとんど話しかけもしない。この女の目的は何なんだ? と考えた時もあったが、勝手に自分が捨て猫を拾ってきたようなもんだと解釈してからは、もうそんなことはどうでもよくなった。
 誰かが自分のために食事を作り、自分の帰りを待つ。そして灯りの点いた部屋へ帰る。今までの自分にはありえなかったそんな生活が、脳に考えることを麻痺させている。本当に猫ならばそれでいい、とさえ思った。ただ、この味わったことのない生活が日常になりつつあるなら、何も考えずに過ごせばいい。修司はなぜユキが自殺を考えたかなんて、探ろうともしなかったし、ユキの過去について知りたいとも思わなかった。

 カーテンの向こうでユキの寝息が聞こえる。修司は殺風景なこの部屋で、ひじをついて窓の外を眺める。何分でもそうしている。小さい頃からの癖だ。

 修司は子供の頃、児童福祉施設で育った。施設では職員の人が、食事や身の周りのことなど事務的に面倒みてくれたが、友達も作らず、いつもひとりで周りを冷ややかに見ていた。その頃から、何かを考える訳でもなく、独りでただ、窓の外を眺めるのが癖になった。
 中学になると、あまり学校へも行かなくなった。こんな家庭環境で育った人間がぐれるのは、当然だと思われていたのか、施設の人からも注意されたことは無い。一人で学校を怠けて街をふらついたりしていると、決まって不良グループに絡まれた。だが、けんかだけは強い修司は負け知らずだった。そのうち不良グループも手を出さなり遠巻きに眺めるようになった。
 中学を卒業すると、住み込みの小さな工場で働いた。だが、職場の同僚とけんかしてはクビになり、長続きしないことの繰り返しだ。修司は他人と深く関わるのが苦手だった。苦手と言うより、自分から避けていると言ってもいい。
 そんな修司に、ボクシングをやらないかと声を掛けてきた人がいた。光ジムの会長が修司の才能を見込んでスカウトしたのだった。その後、修司はたちまちランキング上位に上り詰めていった。仕事は相変わらず長続きしなかったが、ボクシングはやめなかった。ただボクシングの事だけ考えて、真面目に毎日ジムへ通った。
 ユキが修司を知っていると言ったのは、おそらくこの頃のことだろうと、修司は推測していた。

 修司は自分を知っている人間に出会えば、すぐその町を出て行った。だが、なぜだか今回はそんな気にならなかった。

 第4章 遠い記憶

 五月になれば、藍色の海はまぶしく光り始める。修司は一人で海に来ていた。
 夏になると、この海も人が増えるだろう。走りにくくなるな。と思った。
 今日は仕事は休みだ。いつもは夜に来ているここに、昼間来るのは初めてだった。夜になれば、波の音と潮の匂いしかしない、無人島のような不気味さを持つこの海は、陽を浴びれば、海の息づかいが聞こえるかのように輝きを放つ。
 修司は浜辺に座って、漁師らしき人や、釣り人が時々目の前を通り過ぎるのを、ただ、ぼーっと眺めて時間を潰した。
 夕方になったので、修司はとりあえずアパートに戻ることにした。ユキはバイトに行っているらしい。部屋はいつの間にか生活用品が増え、何気なく片付いている。仕切りカーテンもタオルケットから大き目のシーツに変わっていた。トイレにいい匂いのするやつが置いてあったのを発見した時は、ここ本当に俺んちか? と目を疑った。自分の部屋はユキにより、小奇麗に変わっていったが、不思議と嫌じゃなかった。居心地のよさを初めて味わったように思えた。

 ふいに玄関のドアの鍵をカチャカチャ開ける音がする。ユキが帰ってきた。
「あっ ただいま。修司さんいたんだ。鍵、開いてたからびっくりした」
「ああ おかえり」
 修司は自分から出た言葉に驚いた。ユキはこの部屋に来た日から、一日も欠かさず修司に「おかえり」と言っている。耳練れない、たった四文字の言葉は心地良く、修司の心の奥に響いた。でも自分が誰かにその四文字の言葉を言うなんて、思いもしなかった。言った直後、照れ隠しなのか、ユキに背中を向けて部屋の隅であぐらをかいた。
 ユキは一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐ笑顔に戻って、もう一度「ただいま」と言ってキッチンに向かった。
「今日ね、ハンバーグ作るの。うちのスーパー、ミンチの特売日だったから。すぐ作るね。私のハンバーグすっごくおいしいんだから」
 そう言ってフンフンと鼻歌を歌いながら、手際よく料理にかかった。
 修司は離れたところから、畳に座って、ユキの後ろ姿を見ていた。

 ユキは小柄で華奢だけど、スタイルは良かった。今日は細身のTシャツとジーンズなので、ウエストから脚にかけてのラインがよくわかって、女らしかった。顔は美人と言うより、かわいらしい顔している。顔のあどけなさと、女らしい体つきが、ちぐはぐな感じがする。バイト先の従業員やお客さんにまで、お菓子や果物なんかを、よくもらって帰ってくる。人なつこく、愛嬌の良さで可愛がられ、誰かしらあれこれ物をあげたくなるのだろう、と想像はついた。
 修司はそんなことを考えながら、てきぱきと右へ左へ動く、ユキの姿を眺めていた。
すると、ユキが急に振り返るので、うっかり目が合う。何を考えていたのか見破られた気がして、慌てて顔を伏せた。
「もうすぐ出来るからね」
 そう言って、また前を向き直り、料理を続ける。

 出来立てで湯気を立てているハンバーグと豆腐の味噌汁が並べられた。
「さあ、できた。いただきまーす」
ユキは、一口食べるなり、
「おいしー! 私って天才!」
と嬉しそうに言った。
 ユキはいつも、自分で作った料理を、満足そうに、おいしい、おいしいと言って食べている。
 確かに、ユキの作った料理は、何を食べてもおいしかった。修司が施設にいた頃出された食事は、まずくはなかったが、どこか味気なかった。それは修司の心の問題かもしれないが、ユキの料理は他で食べる食事とは、どこか違う。とは言え、コンビニや牛丼屋くらいしか修司の舌は知らないので、比べようもないのだが。
 それでも修司は一度もユキの料理に、口に出しておいしいと言ったことがない。修司が言う前に、ユキが自分で言って満足しているのだから、言うタイミングを失う。人と深く関わったことのない修司は、人を褒めたり、喜ばせたりする、すべを知らない。修司が一言おいしいと言えば、ユキの笑顔がまたさらに大きい笑顔になるのは想像できるが、ガラじゃないと自分でも分かっていた。
 下を向いて黙々と食べる修司に、「このソース、工夫したのよ」と、機嫌のいいユキは一方的に話しかけ続ける。

「もっと、私、いろいろ作れるのよ。グラタンとか、餃子とか。ロールキャベツも得意なのよ。修司さん、ロールキャベツ好き?」
「そんなん、食ったことねーよ」
 修司は愛想のかけらもない返事をした。
「そう? 食べさせてあげたいな。私のロールキャベツ。今度お給料でたら作るよ。そうそう、クッキーとかも、作れるのよ。でもこの部屋、オーブンないじゃない? 冷蔵庫もないし、調理器具も揃ってないし、私の料理の腕が振るえなくて、残念だわ」
 ユキは狭い部屋を見渡して無邪気に言った。
「そういうことに、しといてやるよ」
 小さなテーブルに向かい合って座る。何もない部屋に透明な時間が漂っている。
「うふふ。ああ おいしい。幸せ」
「お前は、簡単に幸せになれるんだな」
 ずっと下ばかり向いていた修司はふと顔を上げてユキを見た。
「おいしいもの食べたら、幸せになれるのよ。修司さんの幸せって なに?」
 目が合ったので修司は顔を伏せる。
「そんなこと、考えたこともねーよ」
「ふーん。じゃあ私の料理で幸せにしてあげたいな」
 屈託のない笑顔で、ユキは言った。
 そんなユキをみて、つられて修司もふっと笑った。
(笑いながら食事をするのは、どれぐらいぶりだろう。記憶にないほど大昔かもしれない。ユキといると、笑い方を忘れた俺も、自然と笑顔になる)

 食事の後、二人は連れ立って銭湯に行った。ユキが来た頃は、修司が早足でさっさと歩くのを、ユキが数歩後ろを、必死でついて来ていた。だが、最近ではユキの歩調に合わせ、別に話しをするわけでもないが、隣り合わせで歩いている。帰りもどちらかが出てくるのを待って、また並んで歩く。おしゃべりなユキも、黙ってついて歩く。
 ユキがやってくるまでは、修司は毎日銭湯には行ってなかった。面倒くさくて風呂に入らず寝てしまうなんて、ざらにあることだった。だが、今ではユキについて、毎日行っている。女の子を夜道、一人歩きさせる訳にはいかない。すると必然的に自分も毎日風呂に入るハメになる。

「修司さんって優しいよね」
 突然、ユキが口を開いた。
「はあ? 何だよ。いきなり」
「五年前、光ジムで修司さんを見てたって言ったでしょ? あの頃、少しだけ修司さんと話したことあるの。世界チャンピオンの修司さんを見に、たくさん人が来てたよね。私も、その一人だったんだけど」
 そしてユキは、五年前、修司と初めて言葉を交わした日のことを、話し始めた。

 当時、高校一年生だったユキは、学校帰りに光ジムに寄って、修司を密かに見ているのが日課だった。ただ窓の外から、修司が縄跳びやスパーリングをしているのを見ている、それだけで満足だった。スポーツ選手のファンは静かに練習を見守るのが礼儀だと、ユキなりに弁えていた。
 その日も光ジムに向かって歩いていると、急に雨が降り出した。バッグの中には折りたたみ傘がある。急いで喫茶店の軒先に雨宿りして、バッグの中から傘を出した。
 すると、そこへ一人の男が急ぎ足でやってきて、ユキの隣に立つ。修司だった。修司はユキを気にする様子もなく、雨が落ちてくる空を見上げていた。
 ユキは傘を広げて、修司の頭の上に差し出した。
「どうぞ。一緒に入っていきませんか」
「……いえ、結構です」
 修司はユキをじっと見つめて言った。こんなに近くで本物の修司を見たのは、初めてだ。
「光ジムに行かれるんですよね。私もそっちの方向なんです。だから、どうぞ」
 そう言うと
「じゃあ、すいません」
 と言って、素直にユキの傘に入ってきた。
 背の低いユキが修司を入れて傘を持つと、手をぐっと伸ばさないといけない。持ち辛そうな様子に気付いて、
「俺が持ちます」
 そう言って、修司はすっとユキの手から傘を取った。
 光ジムまでの道、二人は黙って歩いた。ユキは心臓の音が、修司に聞こえてるのではないかと思うほど緊張していた。
 ユキは修司の顔をそっと盗み見た。ユキの二十センチ上にある修司の目は、まっすぐ前を見ている。
 ふと見ると、傘は左側に傾いている。かなりユキ側に。修司の右肩は、雨が直接かかっている。おまけに傘から落ちてくる雫もかかって、修司の右半分はびしょ濡れになっている。ユキが濡れない様に気遣いしてくれる、そんな優しさに、ちょっと感激した。
 光ジムに着くと、修司は「ありがとうございました」と素っ気無く言って傘を返し、小走りにジムの中に入っていった。
 ユキはジムの奥へと消えていく修司の後ろ姿を目で追った後も、しばらくそこから離れられないでいた。
 

 そんな話しをユキから聞きながら、銭湯からの帰り道を、修司はユキと並んでゆっくり歩いた。
 修司は、その日のことなど全く覚えていなかった。
(そんな昔から俺のこと知っていたのか。俺はユキのこと何も知らない。名前と歳と、以前、光ジムの近くに住んでいたということぐらいしか。
 ……俺のこと、どこまで知っている……?)
 そう頭に浮かんだところで、足はアパートの前に着いた。

 修司は夜中にふと目が覚めた。のどの渇きが気になって、ふらふらと六畳を出るとキッチンの流し台の蛇口をひねった。水を注いだコップを口へ持っていこうとしたその時、手が止まった。
 修司の部屋は、入り口を入ってすぐの板の間にキッチンがついている。その先の和室の真ん中に、シーツカーテンが垂れ下がっているのだが、完全に仕切られている訳ではない。寝ている場所からは、お互いを隠す事はできても、流し台まで移動すれば、ユキの寝姿が見えてしまう。タンクトップと短パン姿の腰から下が、はだけた毛布からはみ出ているのが目に入った。慌てて視線をずらして、水の代わりに唾を飲み込んだ。
(覗いたんじゃない。たまたま見えただけだ。境界線も踏み込んでない)
「ちっ ユキのやつ、俺じゃなかったら、今頃……」
 そんな思いが頭をよぎった瞬間、自分でも戸惑った。
(俺じゃなかったら……? 俺、そんなにいい奴だったか?)
 一つ屋根の下、一ヶ月以上も一緒に寝泊りして何もないなんて、他人が聞いたら信じてもらえないようなことを、現実にやってのけている。シーツの仕切りなんて、あってないようなものだ。こうやって、二、三歩歩けばすぐ、太ももあらわにした女の寝姿に出くわしてしまう。
(ユキは、さっき俺のこと優しいと言ったが、俺は優しい男なんかじゃない。いい奴なんかじゃない。俺が一番よく知っている)
「信用しすぎじゃねえか……」
 そう呟いて、コップの水を一気に飲み、自分の陣地に戻って、シーツカーテンに背中を向けて横になった。
 修司は暗闇を見つめて、寝返りを打ちながら、拭い去る事の出来ない過去を思い出していた。

 第5章 光と闇

 七年前、光ジムの会長に拾われた修司は、元々素質があったボクサーとしての才能を開花させ、ランキングも一気に駆け上がり、ついには試合七戦目にして、世界チャンピオンになった。世界チャンピオンになったとたん、周りの見る目が急変し、生活も変わる。大金が手に入るし、マスコミも騒ぎ立て、ジムにもファンだという人が、連日押し寄せた。
 でも修司は周りなど気にしなかった。ただ、純粋にボクシングに夢中になり、もっと強くなりたいと思っていた。

 そして、次の試合が決まった。相手はランキング下位クラスの無名の日本人。勝てる自信はあった。ジムの会長も、興行試合のようなものだ、と言った。
 試合当日は、緊張すらしなかった。負ける気などするはずもない。

 三ラウンドまでは静かな展開で進み、多少打ち合いが見られたが、余裕だった。楽に繰り出すパンチも確実にヒットさせていた。相手のパンチも効果が見られない。この分だと、最終ラウンドまで持ち込むことはない。楽勝にKOできる。そろそろ決めてやるか、と相手をロープ際に追い込み、連打を見せた。四ラウンド、相手は倒れ込み、そのままKO勝ちした。盛り上がる観客席。タイトル防衛なんて、あっけないと思った。

 悲劇を知ったのは、控え室に帰ってからだ。
 相手の男がリングで倒れ、意識不明のまま救急車で運ばれ、まもまく、死んだと。
 会長は、「お前のせいじゃない。気にするな」と言った。
 俺のパンチを受けて人が死んだ……。そう思うと、体が震えた。恐怖に似た大きな黒い塊が襲い掛かる。取り返しのつかないこの現実に打ちのめされた。

 しばらくして、廊下で会長とトレーナーの話し声が聞こえた。
「やばいことになりましたね」
「“試合に負けてくれ” とは言ったが、“死んでくれ” とは言ってない。俺たちのせいじゃないさ」
「相手が死んだということは、金は払わなくていいんですよね」
「ああ。死人に口なしだ。黙っておけばわからないだろう。儲けたな。前回もこれで手に入れた世界チャンピオンの座だ。しばらくはいい思いさせてもらわないとな」
 そこまで聞いて、修司がドアから飛び出してきた。怒りに震えながら、二人に近づく。
「ま まってくれ。話しを聞いてくれ」
 言葉を最後まで聞かずに、会長を殴った。
 倒すべき相手はこの男だった。言いようのない屈辱で体が震えた。不思議と冷たい拳を見つめて、もうこいつは汚されたのだ、と思った。金で買った勝利など無意味だ。ましてや人の命を奪ってまで……!
 自分の誇りを叩き潰された。

 修司はそのまま体育館を出て、ジムにも家に戻らなかった。あれほど憧れていた世界を飛び出して、闇へと紛れ込んだ。
 メディアが相手のボクサーの死と、八百長疑惑を関連付けて、面白がって伝えた。
“疑惑のチャンピオン失踪”という文字が、通りかかった本屋に山積みされた、週刊誌の表紙にあるのを見た。
 パーカーのフードを目深にかぶり、うつむき加減にその場を離れた。
 すべて忘れたかった。逃げたかったのだ。
 以来、あちこちの町へ行き、様々な仕事をして生きてきた。自分を知っている人が目の前に現れると、すぐその町を出た。過去に戻されるのが嫌だった。
(俺はチャンピオンじゃない。ただの弱い男だ)
―― 今でも、心の闇は消えない。


 いつもは急いでアパートを出る修司だが、その日の朝に限って、なにやらごそごそと押入れの中を探っている。
「修司さん。今日仕事は?」
「あ、あぁ、これから行く」
 そう言って、焦った表情を隠すようにして玄関を出ると、仕事場とは反対方向に向かって、急ぎ足で歩いた。

 修司は駅前の小さな郵便局に入った。
 窓口で現金書留の封筒をもらい、あて先のところに“○県△市 谷川明子”と書いた。
 書き終えたところで、背後から声がした。
「そこの住所に、今、その人はいないわ」
 焦って振り返ると、ユキだ。
「谷川明子は死んだの。私の母よ」
 驚きを隠せない。鋭い眼差しでまっすぐ見据える修司に、ユキは続けて言った。
「そう。谷川良介は、私の兄なの」
 言葉も出ない。ただ呆然と立ち尽くす修司を見続けるユキに、いつもの笑顔はなかった。

   第6章  真実

 五年前、ユキは病弱な母と兄の三人で暮らしていた。生活は苦しかったがユキは不幸だと感じたことはなかった。諦めていた高校にも行かせてもらっていたので、せめてもの親孝行として、ユキもバイトをして家計を助けていた。
 兄、良介はボクシングのプロテストに合格し、ジムに通いながら働いて家族を支えていた。世界チャンピオン目指して、仕事で疲れていても、夜遅くまでトレーニングを欠かさない兄を、ユキは励まし応援していた。
「世界チャンピオンになればお金が入る。お前たちを楽させてやるからな」と庭で汗を飛ばしながら縄跳びをする兄は勢い立って言った。そんな姿をユキは微笑ましく見ていた。家族思いで努力家の兄が自慢だったし、夢を叶えさせてあげたいと心から思っていた。
 
 そんな時、兄の試合相手が決まった。なんと世界チャンピオンの中塚修司だという。ランキング下位の兄には到底勝ち目はないと、誰もが思っていたようだ。だが、兄は「絶対勝ってやるからな」と意気込んでいる。ユキはきつい減量もして、厳しいトレーニングその上、仕事もしている兄の体が心配だったが、試合に勝つことだけを考えて練習する兄に、何も言えなかった。
 何より、大ファンの中塚修司が相手だ。修司に勝って欲しいという気持もあったが、やはり、兄の勝利を素直に望んでいた。

 試合の途中、なんだか兄の様子がおかしいことに胸騒ぎを覚えた。減量のせいで顔色が悪いのだろうと思ってはみたが、嫌な予感は消えない。
 そして、四ラウンド、悲劇は起きた。

 ユキは週刊誌で事の顛末を知った。週刊誌に書いてあることだから、信用できるか分からなかったが、兄が死んだというのは、疑いようのない事実だ。兄がお金の為に八百長を引き受けたというのは、うそではないような気がした。
 優しい兄だった。家族の為に恥を捨て、プライドを捨て、大金欲しさに魂を売ったのかもしれない。
 兄を殺した男に恋心を抱いていたなんて、兄に申し訳ない気持でいっぱいになった。兄を死に至らしめたのは、あの男だ。しかも、謝罪することもなく、どこかへ行方を晦ましている。修司を恨むことが、兄への供養になるのだと思わずにはいられなかった。
 週刊誌の記者は、容赦なくユキの自宅まで押しかけた。その後、元々病弱な母は、心労のせいか入退院を繰り返すようになってしまった。ユキは学校へも行かず、甲斐甲斐しく母の世話をした。友達が噂している気がして、学校へ行く気がしなくなったのが本心だが。
 こうなったのも、すべてはあの男のせいだ。ユキは腹立たしい気持ちを抑えるのに必死だった。
 そののち卒業すると、ユキは懸命に働いて入院費を稼いだ。そして五年間、明るく気丈に振る舞いながら母を看病し、行方の分からない修司を恨み続けた。それが兄のためだと、夢を断ち切られた兄へしてあげられる精一杯だと、そう必死に思い続けた。母は、そんなユキの笑顔の奥にある、心の闇を気にかけていたのかもしれない。
 
 ある日のことだ、母は病室に見舞いに来ていたユキに、一つの預金通帳をみせた。
 いぶかしく通帳を受け取るユキに母はこう言った。
「良介が亡くなって以来、毎年命日にお金を送ってくれる人がいるのよ。名前も住所も書いてないので、誰かわからないけれどもね。良介の知り合いにも聞いてみたけど、該当する人はいないのよ。いったい誰がこんなことしてくれるのかしらね」
 そう言いながらも、母は落ち着いた表情だ。まるで送り主が分かっているように。それで母は、以来五年間送られてくるお金を、ユキの名義の口座に、使わずにそのまま残してあるという。そして最後にこう付け加えた。
「今まで内緒にしていてごめんなさいね。あなたの本当の笑顔が見られないのは私も辛いのよ。人を恨んで生きていても、幸せにはなれないの。世の中には見守ってくれている人もいるのよ」と。
 まるで遺言のような母の言葉を、夢の中にいる気分で聞いていた。
 そして、その数日後、母は静かに息を引き取った。

 天涯孤独になった私に、いったい誰が手を差し伸べてくれるというのか。
 兄の一件であれだけ世間に非難され、母は病気になった。兄を殺した男も、周りの冷たい人たちも、恨まずにいられるのか。五年間、兄の供養だと思い、修司を恨んできたことは、一体なんだったのか。
 ユキは、そう思えば思うほど悲観に包まれる。
 母を失い、自分の心さえも、何もかも失った気がした。今はもう、恨む気力すらない。たちまち大きな絶望に襲われた。
 そして、冷たい海の中で修司に再会したのだ。


 凍りつくような空気の漂うアパートの部屋で、修司はユキから、兄の死から今までの一部始終を聞いた。二人とも立ち尽くしたまま動かない。しばらくの沈黙のあと、ユキが途切れ途切れに話しはじめた。
「冷たい海の中で、下から見上げた修司さんの目は、五年前、傘の下でみたのと同じ、澄んだ目だった。この時、お金を送ってくれていたのは、この人かもしれない、と、そう思ったの」
 ユキはうつむいた顔を上げて修司を見た。修司は両手を力なく下ろしたまま目を伏せている。
「兄がお金欲しさに裏で細工していたのを知って、送ってくれたのでしょう?償いたかったのでしょう? それを確かめたくて、今まで一緒にいたの。五年間必死に恨もうとしたけど、やっぱり恨みきれなかった。修司さんの優しさは昔と変わっていない」
 ユキは修司をおどおどと見つめた。修司は感情の読み取れない表情で、ずっと畳から目を離さない。ユキはこの話の続きを言うべきか、ためらった。修司の反応が怖かったし、一方的に話し続ける自分が身勝手にも思えてきた。だが、これだけは言わずにいられない。
「修司さんは初恋の人だもの。だから、お金を送ってくれたのが、修司さんだとわかったら、なんだか嬉しかった。兄の供養だと思って、今まで恨もうとした私を、どうか許して」と……。

 修司の頭の中に、様々な感情が駆け巡った。
 この一ヶ月半、ユキと安穏とした生活に浸かり、静やかな人並みの毎日に癒しを覚えていた自分が情けなかった。
 ユキの自分に向けられていた笑顔は、全部うそだったのか。今のみじめな自分を見届けたかったのか。
 必死に避けようとしていた、五年前の過去へと一気に引きずり下ろされた。誰に向けられるでもない、怒り、悲しみ、後悔、絶望、あらゆる感情が一瞬にして頭に押し寄せた。

 長い沈黙のあと、こぶしの震えをこらえながら、修司は低く投げつける様に言った。
「俺の姿を見てあざ笑っていたのか!」
「……違う! 私、この一ヶ月半、毎日楽しくて、ずっと……」
 悲しみと困惑の表情で吐き出したユキの声をさえぎるように修司が叫ぶ。
「復讐したかったんだろ! だから、俺の前に現れた!」
「そうじゃない! 私は……」
 ユキの言葉が終わらぬうちに、修司はユキの腕を押さえ込み、壁に押し付けて、ユキの唇を自分の唇で塞いだ。数秒して、唇を頬にずらすと、
「いやー!」
 悲鳴とも、泣き声とも言えぬ声で、ユキが悲しく叫んだ。
 その声にはっとして、手を放し、ユキから離れる。壁に背を向けて、畳を見つめる。どうしようもない空しさが修司を押し潰した。
(ユキは悪くない。悪いのはいつだって俺だ)
「ちくしょう!」
 髪をくしゃくしゃに掻き揚げて、はき捨てる様に言った。
 大きなため息を付くと、後ろでバタンとドアが閉まり、外の階段を駆け下りる音が聞こえた。

(あんなこと、言うつもりはなかった。気がつくとユキを怒鳴りつけていた。ユキは何も悪くない。なのに、あんなことまで……)
 つくづく、自分の愚かさに腹が立った。

 修司は、壁に向かって座り、あごの下に手をやって、ぼんやりと窓の外を眺めた。
 そして修司は自分を責め付ける。
 一人でいるのが好きだった。だが今は、孤独な自分がやり切れない。逃げることで自分が楽になりたいだけの、未熟な人間だった。あのボクサーの家族の運命を変えたのは自分だ。だから、自分を抑圧して生きなければならない。修司は今までそう決めてきた。絶望と闇の中で、独り過去を引きずって生きる道を選んだ。光の当たった世界で生きていた頃の魂は、もう息絶えている。
 それなのに、それなのに、“ヒトヲコロシタ”消し去ってはいけない現実を、ユキとの安らぎの中で脳の隅に追いやっていた。馬鹿だ。大馬鹿だ。自分を恨み殺したい。

(ユキは猫なんじゃないかと思ってた。だが、猫は俺のほうだった。孤独な野良猫だ。近づこうとする人には警戒し、威嚇する。決して人を信用しない。懐かない。でも本当は、臆病なだけだ。人の温かみを感じてみたい。でも、それは許されない。俺は飼い猫じゃない。温もりを望んではいけない)


 窓の外に、ぽつぽつと雨の当たる音がした。ユキが部屋を飛び出して、一時間くらいはたったのだろうか。
(あいつ、今頃どこで……。そんなに遠くには行ってないはずだ)
 修司は、傘を持って部屋の外に出た。
 すると、アパートのドアの近くの外壁にもたれて、立てた膝を抱えて顔をうずめて座る、ユキがいる。
 すっと近づくと、ユキは顔を上げた。
「ごめん。私、どこにも行くとこなかったんだ……」
 泣きはらした目が赤い。
「…… 入れよ」
 二人は、それ以上なにも言わず、ゆっくりと部屋に入った。

 第7章  後悔

 《ユキの想い》
 いつものように、シーツカーテンで仕切られた部屋で眠った。いいえ、ほとんど寝られなかった。修司さんも同じだろうな。
 修司さんは、あれからずっと黙っている。当然でしょう。昨日私が言った事で、修司さんを深く傷つけ、怒らせたのは間違いない。許してもらえないかもしれない。
 でも今は、いいえ、十六歳のあの頃から、私の中には修司さんしかいない。急に燃え上がった恋ではなく、ゆっくりと心に芽生え、育っていった気持ちは、着実に根を広げている。そして初恋から愛へと変貌していったことを、自分でも確信している。昨日はうまく気持ちを伝えられなかった……。

 いつもなら、仕事に出かける時間なのに、修司さんは起きてこない。気になってカーテンの向こうを覗いてみた。
 修司さんは、座ったまま窓の外を眺めてぼんやりしている。何か言わなきゃ、そう思って近づくと、修司さんが私の方を見て口を開いた。
「昨日のことだけど……」
「ごっ ごめんなさい。謝っても許してもらえないかもしれないのは、わかってる。でも私は、今を大事にしたい」
 修司さんは、昨日のこと私に謝ろうとしたのかもしれない。でも修司さんに先に謝らせてはいけない。悪いのは私だから。
 何か言いたげな目をして私を見つめる修司さんに向かって、私は言う。
「あのー。私、今からバイト行くけど、修司さん、今日仕事は?」
「……ああ。あとから行く」
 修司さんは力なく呟くように言った。
「そう。じゃあ、夕飯作って待ってる」
 まだここにいたい気もするけど、バイトに遅刻する……。名残惜しい気持ちを残して、玄関のドアに手をかけた。
 修司さんは珍しく私をじっと見ている。いつもなら、目が合うと恥ずかしそうに目をそらすのに……。
 笑顔を作ると「いってきます」そう言って、ドアを閉めた。

 バイトを終えると、食材を買い込んで急いでアパートに帰った。
 すぐキッチンに向かって食事の支度をしよう。
 修司さんが帰ってきたら、ちゃんと伝えよう。私の今の正直な気持ちを。恨んでなどいない、修司さんへの想いを。
「ロールキャベツ、喜んでくれるかな」
 そんな独り言を言いながら、コンロに鍋をのせる。煮込んでいる間、部屋でも片付けよう。
 向き直って、和室に足を踏み入れたその時、思わず立ち止まった。
 ふっと、違和感のある空気が私をなでる。
 何か違う……。
 部屋を見渡すと、いつも散らかっているはずの、修司さんの服がない。コップも、歯ブラシも……。
 押入れを開けると、修司さんのリュックがない。修司さんのものは、なにもなかった。
 信じられないこの現実を、受け止めるのに時間がかかった。嘘と思いたい。神様はどうしていつも、私から大切な人を連れ去るのだろう。
 私は、へなへなと座り込んでしまった。
 修司さんは、それっきり、アパートには戻らなかった。

 窓からふきこむ風の温度も変わった。私が小さな植木鉢に蒔いた朝顔が芽を出し、やがて窓の手すりに巻き付いて青い花を咲かせた。修司さんにも見せたかったな。
 修司さんがアパートを出て三ヶ月が経とうとしている。
 私は、不意に帰ってくるかもしれないと思って、アパートを解約せずに、そのまま住んだ。
 食事も、毎日二人分用意した。
 食事の時には、いつも思い出す。
――ついこの前まで、修司さんは確かにここにいた。
――目の前で黙々と食べ、背中向けて座る、修司さんがいた。
 思えば思うほど寂しさは募る。そして毎日、後悔の念に襲われる。
 私が本当のことを言わなければよかったのかも……。でも、いずれは分かるかもしれない。そうすれば、余計に傷つける。修司さんは怒って出て行った。私の顔も見たくなかったんだ。私は嫌われた。
 そう考えると、決まって涙がこみ上げてきた。
 修司さんと暮らした記憶が、私の胸を痛めつける。
 私が想うほど、修司さんは私のことなど想ってはいなかった。
 私の心に住み着いた、深く一途な初恋は、もう修司さんに届くことはない。

 夏の暑い日、私は二人で暮らしたアパートを引き払って、この町をあとにした。


  第8章  心の居場所

 灰色の空から、小さな雪の粒が舞い落ちて、次第にアスファルトの地面を白く覆いつくす。
 東京にも、この冬初めての雪が降った。

 東京のとある体育館で、今日の夜、ボクシングの試合がある。
 会場は活気づいていた。

「おう、修司。そろそろ始まるぞ」
 修司は小さくはいと言って、椅子から立ち上がった。
「普通、お前のように長い間試合をしなければ、タイトルは剥奪される。だからマスコミの過熱した報道に便乗して、チャンピオン戦を組んだんだからな」
「……わかってます」
「お前は人気あるからな。メディアも取り上げて話題性もある。今日も新聞社やテレビ局がたくさん来てるぞ」
 修司はグローブをはめながら、そうですかと言った。朴訥とした修司の受け答えに反するように、張り詰めた空気が充満する。
「ボクシングに興味のない連中まで騒いでるからな。ボクシングの世界は所詮、興行重視。チケットも完売だそうだ」
 グローブの紐を結んでもらうために、修司は黙ってトレーナーに腕を突き出したあと、小声ではぁと言った。
 試合直前の控え室。興奮気味の会長の言葉に、修司は気の無い返事を繰り返す。

 修司は、東京のボクシングジムに、ある日突然「練習生からはじめたい」と言って現れた。
 ボクシング関係者が、修司の顔を知らないはずがない。すぐ現役復帰できた。自己トレーニングを続けてきた修司は、五年のブランクを感じさせない。自らリングを去ったとは言え、その実、心の奥底には、いつでも復帰できる身体を作っておきたいという思いがあったせいかもしれない。
 以前、修司が就いたことのある、世界ライト級チャンピオンの座。
“疑惑に隠れ、消息不明のボクサーが、ベルトを取り返しに復活”とスポーツ紙の好きそうな話題に、各社飛びついて記事にした。
 元々、やらせの色が強いテレビ局も、八百長疑惑の真相解明はどこかへ消え、修司の今日の試合中継で高視聴率を獲得しようと熱を入れている。


 《修司の想い》
 俺はマスコミの話題など、どうでもよかった。
 俺はもう一度ボクシングを始めないと、前に進めない。このままでは終われない。己自身に決着をつけるために、この試合はある。
 現実から逃げ、煩わしさから避け、さ迷っていた自分を捨てて、ボクシングに熱中していた頃の心を取り戻したい。自分の手でチャンピオンを勝ち取りたい。
 もう、ユキに会うことはない。どこかで幸せに暮らしていて、もしこの試合のことが、耳に入れば、それでいい。

 ずっと独りで生きてきた。孤独で寂しいとは思わなかった。そんな俺が誰かを想い苦しむ辛さを知った。
 二人でいることの安らぎを知ると同時に、ユキの屈託のない笑顔が、俺のために曇るのを見たくなかった。
 どこかで笑顔でいれば、それでいい。ユキを忌々しい過去から断ち切るためには、俺がそばにいてはいけない。

 これでいいんだ、と言う俺。
 これでいいのか、と言う俺。
―― 心はどこにある――
 俺の中の、もう一人の俺が叫ぶ。
 心は、ユキを求めてさ迷い続ける。
 ユキを想う気持ちが、密かに俺の中に生息していることを、ごまかしきれずにいる。
―― 心はどこにある。俺の心はどこにある――
 容赦なく叫び続ける。
 俺の心は、紛れもなく、ユキのそばある。
 どこにも居場所がなかった俺の、心のあるべき場所は、ユキだ。
 体はそばにいなくても、せめて心はそばでユキを感じていたいと願う。そんな、ちっぽけな男だ。


 ゴングが鳴り、試合は始まった。
 相手は初防衛のメキシコ人。修司は一ラウンドでいきなりダウンして、マイナスポイント取られた。ペースを崩し、パンチの数が極端に減る。五ラウンドから必死に追い上げ、両者互角の打ち合いになる。相手もフラフラになっているのは、誰が見てもわかる。このまま時間を稼がせやしない。修司は右ストレートで相手からダウンを奪う。有効打を打ち込み積極的に攻める。

 九ラウンドが終わり、一分間の休憩に入った。コーナーの椅子に座り朦朧とした意識の中で、ふと顔を観客席の方に向けたその時、修司の目ははっきりとユキの姿を捉えた。
(ユキが来ている!)
 心が叫んだ。確かにユキだった。観客席の後ろのほうで、祈るように手のひらを合わせて、まっすぐ修司を見ている。
 その直後、十ラウンドのゴングが鳴った。修司は椅子から勢いよく立ち上がって、相手を睨む。
“ユキが見ているかもしれない”から“確実に見ている”に変わった瞬間、体の奥のほうから力が湧き出てきた。どこからそんな力が出るのか、体中が熱くなるものを感じた。
 あとはどうなったか覚えていない。体が勝手に動き、試合の優劣も分からないまま進んでいく。
 そのまま最終ラウンドのゴングが鳴り、判定にもつれ込んだ。

 椅子に座らされて、セコンドがタオルや水を次々と修司の前に持ってきては、肩を叩いて声を掛ける。
 結果が出るまで待ちながら、目はユキを探す。さっきいた場所に、もうユキの姿はなかった。
(―― ユキ、どこにいる)

 その時、レフェリーが修司の腕を掴み、高く挙げる。場内アナウンスが修司の名前を呼んだ。観客席からどっと歓声があがる。
 修司の周りは、記者やカメラマンに大勢取り囲まれ、マイクを突き出される。
 修司は、人だかりの真ん中で、必死にユキの姿を探す。
(―― ユキ、どこだ)

 修司は人垣をすり抜け、リングを飛び降りる。湧き立つ焦燥が、体を走らせる。群がる観衆を掻き分け、会場のドアを勢いよく開けて、廊下に飛び出した。
 今、試合を終えたばかりの汗まみれの体で、さらに走ってきたせいか息が荒い。
 修司は肩を上下に揺らしながら、廊下の向こうに、盛り上がる歓声を背にして、ゆっくり体育館の出口に向かって歩くユキを見つけた。
「ユキー!」
 胸の底から振り絞った声で叫ぶ。
 ユキは一瞬、立ち止まって、泣きそうな表情を見せ振り返った。
 修司は、揺るぎない確信したような目でユキを見ると、一気に駆け寄り、ユキを抱きしめた。

 修司の頭の中を支配していた、複雑な感情はどこかへ消え失せた。
 今は、ユキが目の前に、在る。
 もう一ミリも離れていたくはなかった。
 修司の心の闇に、今一点の灯がともった気がした。

 ユキは修司の広い胸に、涙あふれる顔をうずめながら、小刻みに震えていた。だが修司の背中にまわした手は、しっかりとして戸惑いはない。修司はその手から、確かな決意が伝わるのを感じていた。

「いたぞ! こっちだ」
 大勢の報道陣が、二人を見つけるなり、いっせいに押し寄せ取り囲む。
 シャッター音が響き、リポーターがマイクを向けて騒がしく捲し立てるざわめきの中、二人の空間は、静まり返っていた。まるで二人しかいない森閑の果てに吸い込まれたかのように。修司は優しい静寂に漂いながら、ようやく閉ざされた扉を抜け出そうとしていた。


 翌朝、修司はボクシングジムに来ていた。
 軽快な音楽が流れるジムには、一夜にして世界チャンピオンになった男を、ひと目見ようとする見物客や、テレビの撮影や雑誌の取材で、人があふれていた。
 修司は普段通りの練習メニューをこなそうにも、タレントのようにカメラを向けられては集中できない。それでも絆創膏だらけの顔で無愛想に対応していたが、ボクシング以外の質問や、空白の五年間何をしていたか、とあれこれ追求されるのに、うんざりしていた。
 会長は自分のジムから世界チャンピオンが出たせいもあって、始終上機嫌で無口な修司に代わって取材を受けていた。

 一通り取材も終わり、マスコミ陣もはけ、見物客がいなくなったところで、会長が言った。
「今日は、祝杯だ。もう何を飲んでも、食べてもいいぞ。みんなで夜通し、飲み明かすぞ。いいな」
 修司は、今まで見せたことのない、すがすがしい顔で答える。

「いや、やめときます。家で猫が待っていますから」