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小説 『錯覚と微笑みと泡沫人(うたかたびと)』

kage

2009/03/26 (Thu)

競作参加作品  テーマ『春』 お題『ひなまつり』

 恋と錯覚は似ている。いい人よ、素敵な人よ、と聞かされれば、自分もその人に恋しているのだと脳に刷り込まれる。やがて、自分のものにならないのなら死んだほうがまし、それが恋だと思い込む。
 自殺と他殺は似ている。死に至るいきさつがどうであろうと、残された者の悲しみは同じなのだから。違うのは罪に問われるかどうかだ。殺人者は罰せられるのに、自殺をしたものは誰が裁くというのか。
 神様はどちらも許さない。死を選んだ姉も。死に追い詰めた男も。
 わたしは許すことが出来ない。

 日記を見つけたのは、姉の四十九日の法要のために実家に帰ったときだった。
 法要が終わると、親戚の人たちがひとりふたりと帰っていき、家には両親とわたしが残された。
 姉が死んだ日から、光を失ったように寒く静かなこの家。それなのにわたしは明るく照らす太陽にはなれない。
 太陽は姉だ。わたしは自分から光を発することのない月。
 親戚の人たちにお茶を淹れたり姉の思い出話をしたりしていた母は、気丈に振舞っているように見えたが、和室でひとりになると、遺影に向かってうつむき背中を震わせていた。わたしはそれを障子に隠れてただ眺めるしかできない。
 「元気をだして」という言葉を、娘を失った母親に掛けるには、無意味で残酷なことだと分かっていた。適切な言葉を探し出せないわたしは、足音を立てないように和室の横を通り過ぎ、姉の部屋がある二階へ上がった。

 姉の葬式以来久しぶりに入ったこの部屋。なにもかも生前のままにしてあると母が言っていた。
 化粧品の少ないドレッサー。ベージュに揃えたベッドカバーとカーテン。恋愛小説が並べられた本棚。小学生の頃から使っている机。持ち主がいなくなったそれらも何処となく寂しげに見える。
 小学生の頃の姉はいつもこの机でこっそり日記を書いていた。
 『日記は誰にも見せちゃいけないのよ』

 机の引き出しを上から一段ずつ開けていく。整理された二段目の引き出しの中にはたくさんのキャンパスノート。小学生のころから書き溜めた日記なのだろう。
 ふと一番下に隠すようにしまってある厚い表紙に目が留まった。他のノートとは違い、ひと目で日記帳とわかる白い花柄のそれを、躊躇なく開く。
 生きていたのなら決して他人が開けて見ることのない日記は、死んでしまえば想いの詰まった遺書になる。
 日記には、どのページをめくっても恋人のことばかり書かれていた。姉には死の半年前から付き合い始めた恋人がいて、その人に夢中になっているらしい文面が、恥ずかしげもなく書かれている。
 姉の毎日は恋人一色だった。会っていた日はデートの内容が、会っていない日は会いたい気持ちが。恋人のことで埋めつくされた全てのページからは幸せしか読み取れない。
 姉に恋人がいたこと、姉が恋愛で熱くなるタイプだったことを知らなかったわたしは、意外な姉の一面に些か驚いた。

 姉の最後の数ヶ月は恋人のためにあった。
 それなのに、なぜ、姉は飛び降り自殺なんかしたのだろう。

 幸せそうな姉の毎日を読み進めるうちに、そんな疑問がのしかかる。
 姉の日記を最後のページまで読み終えたとき、わたしは体の内側から沸き起こるような衝撃に震えた。
 姉の死の真実がそこにあった。幸せだった姉が死んだ本当の理由が。
 わたしは全身の震えをひとつの決意に変化させて、姉の眠るお寺へと向かった。

 姉はこのお墓の中に、顔も知らないご先祖様と一緒にいる。
 ――こんな四角い石の中にいて寂しくない? 
 墓地全体が見渡せるほどの高台に建てられたお墓の近くには、低い紅梅の木が一本植えられていた。この寒さの中もう花が咲いている。細い枝につけた、たくさんの鮮やかな濃い紅色は、遠くからでもよく目立つ。
 ――この花は姉さんみたいね。
 時折吹く緩やかな風は木々を揺らし、春の香りも連れてくる。
 ――いい風よ。姉さん。

 姉の心が聞ける気がした。
 姉がどんな思いで最後のページを書いたのか。どんなに辛かったか。
 ここにくれば分かる気がした。
 わたしが日記を見つけたのは、姉の無念をはらす宿命だから。姉がそうさせたのだ。
 何も言わない無機質な石になってしまった姉に誓う。
 姉さん、悔しかったでしょう。悲しかったでしょう。わたしが姉さんの代わりにあの男に痛みを与えてあげるから。

 その時、かさこそと落ち葉を踏む足音が近づく。振り返る先にあるのは、ゆっくりこちらに向かって歩く見覚えのある男と、姉の好きだったフリージア。眉毛を下げて微笑むこの男は、日記に挟まれていた写真の中にもいた。はにかんだ表情の姉とツーショットで。
 この人が恭一さんか。
 写真と同じ微笑で私を見つめる恭一さんを、突き刺す視線で睨み返す。
 姉はこの男に殺されたのだ。

 「今日だったね。涼子の四十九日」
 恭一さんは持ってきたフリージアを花立てに差しながら言った。確かこの人に会うのは二度目。お葬式で他の友人達と並んで焼香していたはずだ。特に目立たなかったし自分からも名乗らなかったので、この人が姉さんの恋人だなんて、わたしも両親も気付かなかった。
 時々お墓に新しい花が供えてあったのは、恭一さんだったのか。
 恭一さんはお墓の正面にしゃがんでじっと石碑を見上げている。真面目な顔で、同じ姿勢で。
 もう何分経っただろう。今更姉さんと何を話すことがあるの。自分のせいで姉さんが死んだというのに。

 「わたし、妹です。涼子姉さんの」
 「うん。知ってるよ。アキちゃんだろ? 涼子がいつもきみのこと話していたからね。想像していたとおりで驚いた」
 ずっとしゃがみ込んでいた恭一さんはゆっくり立ち上がると、わたしに向かい合う。
 いったいどんな想像していたと言うのよ。なにがおかしいの。この人はさっきからずっと微笑んでわたしを見ている。そういえば姉の日記にも恭一さんはいつも微笑んでくれると書いてあった。
 恭一さんの長い前髪が風にゆれた。
 「きみは涼子に似ているね」
 彼はまだ視線を外さない。
 「そうですか。ぜんぜん似てないと思いますけど」
 わざと冷たい言い方をするわたしに構わず、穏やかな口調で恭一さんは続ける。
 「似てるって言ってたよ、涼子も。ぼくもそう思った。ねえ、涼子」
 そう言って、また石碑と向き合った。わたしと恭一さんの間に風が抜ける。側に姉さんがいる気がした。

 一週間後、わたしは恭一さんが店長として勤めるコンビニでバイトを始めた。姉の日記に彼がどこのお店で働いているのか書いてあったので、突然押しかけてわたしを雇って欲しいと言った。すると恭一さんは一瞬驚きはしたが、すぐにあの笑顔に戻って、即採用してくれた。
 わたしがわざわざ彼のお店で働く理由は、少しでもこの人に近づきたかったからだ。姉を殺した証拠を掴むために。

 警察は自殺だと言った。だがわたしは信じられなかった。真面目で道義的な姉さんが自殺なんてする訳がない。綺麗で優しくて誰からも愛されて、そんな姉さんが自分から命を絶つなんてありえない。
 姉は恭一さんに殺されたのだ。日記の最後のページにそう書いてあるのだから間違いない。警察はこの日記の存在を知らない。日記の中の真実はわたしだけが知っている。わたしの手で姉さんの恨みを晴らしてあげるからね。姉を殺しておきながら、自殺に見せかけてのうのうと暮らしているあの男の、悪魔の顔を隠した仮面を剥がしてやる。

 「もう、慣れた?」
 コンビニの入り口に置いてあるごみ箱に新しいごみ袋をかぶせていると、恭一さんが声をかけてきた。
 わたしがそんな思いで働いているとは知らない恭一さんは、何かとわたしを気にかけてくれる。
 「はい、少しは慣れました。バイト仲間の人たちも親切に教えてくれるので」
 「そう。分からないことがあったら、なんでも聞いてね」
 わたしの目の前の恭一さんは、いつでも誰にでも優しく穏やかだ。仕事中でも怒ったのを見たことがないし、常に微笑みを忘れない。従業員やお客さんにも信頼があるし、恭一さんのことを悪く言う人はいない。
 今日も恭一さんは遅番か。店長の彼はお昼から深夜までの勤務の日が多い。ユニフォームに着替えると、恭一さんはシフト表をチェックした。
 いつ悪魔の顔を現すのだろう。


   ○月×日

  あなたしかいないのに。なぜ、別の人を選んだの。
  あなたを失いたくないのに。なぜ、裏切ったの。
  この裏切りは私が許さない。
  あなたの作り物の優しさが私を苦しめる。
  今はもう、あなたの優しさも、愛した事実も、悲しいだけ。
  裏切りに苦しみ生きるのなら、いっそあなたに殺されたい。
  明日、あの場所で、すべてが終わる。
  あなたの手で、私は消える。
  それが、あなたの望みなら。


 日記はこれで終わっている。
 恭一さんは、姉さんに浮気がばれて、邪魔になった姉さんを高層マンションの屋上に呼び出して突き落とした。姉さんは恭一さんに殺されるのを予期して、この日記に辛い心情を残した。
 つまりそういうことだ。
 姉さんはどんな思いで死んでいったのか。
 バイト先でのわたしの知る恭一さんは、殺人者の目をしていない。わたしが涼子姉さんの妹だと知っているのに、なぜ、普通に接することができるのか。
 恭一さんがわからない。

 今日は姉さんの月命日。
 ここに来れば姉さんの声が聞ける気がした。
 風の強いこの場所にお墓があるなんて、寒がりな姉さんが可哀そう。
 灰色の空を見上げながら長い石段を登ると、冷たい風が頬に当たって痛い。手袋をした手で頬を覆って暖めた。午後から雪になると言った母の天気予報は当たるかも。
 姉が死んで二ヶ月が過ぎようとしている。
 姉の死を受け入れられない母は、お葬式以来ここには来ていない。電話で一緒に行こうと誘ったけれど、お墓を見ると辛いからと言った。

 姉さんのお墓の近くまで行くと、お墓の前でたたずむ背中が見えた。あれは恭一さんがいつも着ている黒いコート。
 わたしはとっさに銀杏の木の陰に隠れた。なぜだか反射的に。
 密かに様子を窺うつもりで覗き見ていると、うつむいてただ立ち尽くす恭一さんの頬をつたって光るしずくが地面に落ちた。
 いつも笑顔のあの人が泣いている。肩を震わせて。
 その涙はとても透き通っていて、それは恭一さんの心の中なのだろうかと錯覚してしまうほどで、わたしが見てはいけなかったようにも思えて、それほど深い思いの詰まった涙にも見えて……。

 その時、雪が風に踊らされるように舞い降りてきた。
 細かい雪が恭一さんの震える肩に落ちては溶ける。
 姉さんなのね。この雪を降らせたのは。風に舞う雪は優しくあの人を慰める。
 わたしは次第に白くなり始めた石段をそっと降りた。


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 恭一さんは今でも姉さんを忘れていない。
 それほどまでに愛していたのなら、なぜ。
 わたしはアパートに帰ると、姉さんの日記を読み返した。


   ○月○日
   
  今日のデートは楽しかったな。楽しくないデートなんてあるわけないけれど。
  さっきあなたと会ったばかりなのに、不思議ね。今すぐ会いたい。
  あなたのおやすみの声で私は満たされる。
  今日の最後に聞いた声が、あなたのおやすみでよかった。
  夢の中でもきっと私はあなたを探しているでしょうね。


 愛する人に殺されると思っていなかった頃の姉さん。
 姉さんは恋していた。少女のような恋を。
 そんな姉さんを裏切った恭一さんを許さない。
 二人は愛し合っていたんじゃなかったの? それなのに、なぜ。
 二人に何があったというの。

 殺した証拠を掴むなんて簡単にはできない。警察でも分かり得なかったことを、わたしがどうしたらいいのかさえも分からない。恭一さんが殺したと公表したとして、そんな事を姉さんは望んでいるのだろうか……。
 新商品の品出しをする手を止めて、そんなことをぼんやり考ていた。
 「どうした? 具合でも悪い?」
 恭一さんの声ではっとする。わたしが並べたお菓子の箱が全部裏向きになっていた。
 「す、すいません。すぐ直します」
 慌てて箱を表に向ける。
 「あははっ。いいよ焦らなくて。それよりアキちゃんバイト零時までだろう? 送っていくよ」

 バイトを上がってタイムカードを押しお店を出ると、恭一さんが駐車場に停めた車の横で待っていた。わたしは彼の微笑みに吸い寄せられる。
 「女の子は深夜に入らなくてもいいんだよ。心配だからね」
 「いいえ、いいんです。わたしを襲う男なんていませんよ。それに……」
 午前中勤務だと、深夜勤務の恭一さんに会えないですから。
 心の中で付け足した。
 「明るいね」
 「えっ?」
 「月が明るいね。今日は満月かぁ」
 恭一さんが月の話題をしていると言うのに、わたしの位置からは月を見上げる恭一さんの咽仏がよく見えて、声が高くて穏やかな口調だけど、この人は男なんだ、と当たり前のことを考えていた。
 「月を見ながら歩いて帰ろうか。ぼくとじゃ嫌かい」
 「そんなことありません」
 恭一さんに聞きたいことはたくさんある。でもなかなか二人きりになる機会がなかったし、もしチャンスがあったとしても、何をどう切り出していいのかわからなかった。
 恭一さんは開けかけた車のドアをロックして、わたしの先を歩き出した。
 「こっちだよね、きみのアパート」
 振り返りながらそう言う恭一さんに、「この道をまっすぐです」小走りで駆け寄る。

 月明かりの下、静まりかえった深夜の道路を恭一さんと並んで歩く。
 この人は何も話さない。
 自分から送っていくと言ったのは、わたしに何か言いたいことがあったのではなく、ただ本当に女の子の一人歩きをさせる訳にいかないという、店長としての好意にすぎないのか。
 アパートまで二十分の距離。このまま黙っていたらすぐ着いてしまう。わたしは勇気をだして口を開いた。
 「姉は、どうして死んでしまったのでしょう」
 再び重い沈黙。恭一さんにいつもの微笑はない。まっすぐ前方の道だけをみて白い息を吐いている彼に、わたしは鋭い視線を投げかける。
 静かな沈黙が続き、わたしは恭一さんの返答を諦めて小さなため息をもらすと、それと同時に彼がぽつりと言った。
 「ぼくが殺したのかもしれないね」
 落ち着いた表情で、淡々とした口調で。
 認めたということ? 殺したことを? 浮気を? すべてを?
 どうしてそんな風に平気な顔で言えるの。
 わたしが聞きたかったのは、この言葉だったはずなのに、なぜだか動揺している。認めて欲しくなかったのかもしれない。心の奥で恭一さんを信じたいもうひとりのわたしがいる。

 「どこ?」
 「え」
 「きみのアパート」
 「あ、あぁ、すぐそこの、あのアパートです」
 恭一さんはわたしが指差した方向を見て確認すると、わたしの正面を向いて立ち止まった。
 距離が近い。こんなに接近したのは初めて。意外とある身長差を発見し心臓が急に早く打つ。思わず息を止めた。
 恭一さんは手のひらをわたしの頭の上に置いた。緊張してこわばるわたしに、前かがみになり顔を近づけると、「おやすみ」と言った。
 これね。これが、姉さんが好きだった「おやすみ」
 「夜は寒いから、早く中に入ったほうがいいよ」
 いつもの微笑に戻った恭一さんは、コンビニの方向へと歩き出す。

 わたしはアパートの玄関のドアにもたれ掛かりながら月を見上げる。
 想像もつかないほどの大昔から、人々はその美しさを誉め、神秘的な力を信じてきた。空気も水もない岩だらけのあの星を。
 月には人の心を見透かす不思議な力がある。
 岩石でできた大きな丸い塊は、三十八万キロ離れた小さなわたしを優しく照らす。

 カーテンの隙間から漏れる月明かりが本棚まで伸びて、白い背表紙にぼんやりと光を当てる。
 恭一さんのことを、お墓の前で会うよりもっと前から知っていた。恭一さんが姉さんと愛し合う前から、わたしは彼の側にいた。
 どんなに記憶を戻してみても、それは妄想以外の何者でもない。
 迷子の気持ちは行き場がなく漂う。
 恭一さんはもうコンビニに着いただろうか……。
 誰かのことを考えるだけで息苦しくなるなんて、まるで幼い恋ではないか。自分の心に問う。なぜ、こんなに気になるのかを。恭一さんのせいで姉さんが死んだのだから、頭から離れないのは否めないのだけれど、それにしては印象が強すぎる。
 ――まさか、惹かれてる?
 「そんなんじゃない」
 わたしは首を振り、声に出して否定した。

 「コンビニでバレンタインチョコを買う人なんているのね」
 店内にお客さんがいないのを確認してから伊原さんが言った。
 彼女は三つ年下だけどわたしにタメ口だ。ここでは先輩なのだから当然かもしれないが。
 「二月十四日にコンビニで買う人は、おそらく義理チョコを買い忘れていたとか、あげるのをやめようとしたけれど、気が変わって慌てて買いにきたとか、そんなところじゃない?」
 などと、チョコを持ってレジに並ぶお客さんの顔を思い出し、その人の背景を勝手に想像した。
 そう言うわたしは、実はもう買ってある。もちろんコンビニではなく、有名なチョコレート専門店に昨日買いに行った。
 渡そうかやめようかで一週間悩み、お店の中ではどのチョコにしようかで一時間迷った。
 店員をさんざん待たせたあげく選んだ品は、小さい箱に四個しか入っていないのに、意外と高くて八百円。安っぽくなく、なおかつ押し付けのない高級感のあるもの、どうせ義理なのだ。それくらいがちょうどいい。
 あげる相手は恭一さんだ。
 夜七時のバイト終わりに恭一さんが出勤するのを店の外で待つ。黒い包装紙に金色のリボンのかかった箱を背中に隠して。
 今日に限って来るのが遅い。まさか今日は休みだったりして。緊張と不安がやってくる。
 バレンタインデーだもの。恭一さんも忙しいわよね。
 そう思った時、左折して駐車場に入って来た白い車が、いつもの場所に停まった。恭一さんのセダン。
 わたしは車から降りた彼が通用口に近づいてくるのをじっと待つ。
 すると、わたしに気付いた恭一さんがはっとして立ち止まった。
 「どうしたの。帰らないの」
 「はいこれ。チョコレート」
 ぶっきらぼうに差し出す。
 「えっ、ぼくに?」
 一瞬驚いた顔を見せたが、右手を出して受け取る。
 「毒は入ってませんから」
 「ははっ、おかしなことを言うね。ありがとう。嬉しいよ」
 その言葉を聞いて耳がかっと熱くなった。わたしのチョコを素直に喜んでくれる。
 「義理ですからね。勘違いしないで」
 そう言ってくるりと背中を向けると、一目散に走って逃げた。もうやだ、中学生じゃあるまいし。
 「ありがとう。気をつけて帰るんだよ」
 恭一さんの声を背中で聞く。赤い顔を見られたくなかった。あの人はいつもわたしの顔をじろじろ見るんだもの。たかがチョコを渡したくらいで、わたしったら何を緊張しているの。
 そのまま一気にアパートまでダッシュした。

 アパートのドアを勢いよく開けて玄関にへたり込む。
 姉さんの愛した恭一さんの優しい目。姉さんの好きだった恭一さんの優しい声。
 恭一さんの声が耳から消えない。
 姉さんの日記に書かれたのと同じ、温かく穏やかな恭一さん。
 でもその眼差しはわたしを見ていない。わたしの目の奥に姉さんを見ている。そう思う。
姉さんに向けたのと同じ愛情を含んだ眼差しを求めてはいけない。それは姉さんに対する気兼ねではなく、不実な恋人に苦しんだ姉のため、わたしに与えられた使命なのだ。
 けれども、そう思い続けた信念は、恭一さんを目の前にすると簡単に崩れてしまう。
 わたしはいったいどうしたいの。わたしの本当はどこにあるの。
 立ち上がって本棚の前までいくと、日記帳を取り出しページを開いた。
 何度も読んだはずの姉さんの日記を一日目から読み返す。この半年後には最愛の人に裏切られ殺される日がくるとは思っていなかっただろうに。


   △月○日

  今日は最高の日。私の二十四回目の誕生日に、指輪とプロポーズのプレゼント。
  永遠の愛を誓うとあなたが言った。私もあなたと生きていく、一生あなたと共に。
  幸せすぎて今日は眠れそうもない。
  恭一さんのすべてを愛している。

 
 恭一さんは姉を愛していなかったのだろうか。それとも愛を誓っていながらも簡単に心変わりしてしまったのだろうか。姉さんのことは殺したいほど愛していたということかもしれない。自分への愛を永遠のものにするために。それでは身勝手すぎる。
 恭一さんは浮気相手と姉さんのどちらを愛していたのだろう。身勝手な愛は愛ではない。たぶん誰も愛していない。ましてやわたしなど。

 誰かのための嫌悪は本心ではない。努力して嫌いになれるものでもない。人から引き継いだ憎しみはその人のものであり、自分の憎しみではない。
 憎しみで脳を支配していたのは錯覚で、相手のことを嫌いになろうと欠点を探していくうちに、いいところしか見つからず、頭の中から消えない存在は、やがて恋に変わる。
 愛されていないとか、誰かが愛した人だからとか、そんなことは構わない。わたしが愛していれば、それがわたしの本当だ。
 
 姉とは昔から好みが似ていた。イチゴショートよりチョコレートケーキ。洋服はピンクより水色。キティちゃんよりスヌーピー。
 そしていつも自分も気に入っているほうをわたしに譲ってくれる。
 雛人形だってそうだ。
 姉は五段飾りの豪華な雛人形を買ってもらっていた。毎年おひな祭りには、実家の床の間に早々と飾り付けをしていた。姉と母の二人が半日がかりで楽しそうに。わたしはそれを羨ましく見ていた。
 わたしにはお雛様とお内裏様の二体がガラスケースに入った親王飾り。床の間の五段飾りの隣の畳の上に毎年置かれていた。スペースがないので、大きなお飾りが二つも買えないのよ、と母が言ったのを覚えている。
 小さい頃は姉の雛人形の前に座って、御所車や三人官女や五人囃子を一日中眺めていた。

 そんなある年のおひな祭りの日。姉がわたしに言った。「ねえ、アキちゃん。お雛様取り替えてあげる。お母さんとお父さんには内緒よ。五段飾りがアキちゃん。ガラスケースのお雛様が私の」
 小学生のわたしは素直に喜んだ。見た目には何も変わらないけど、憧れの大きな雛人形がわたしの物になる。そう思うと嬉しかった。
 しかし、中学生の頃になると、後ろめたさに胸が痛んだ。おひな祭りが近づきあのお人形を見るたびに、姉さんの優しさに気が咎めた。
 姉さんはわたしの欲しがるものは自分が我慢してでも譲ってくれる。もし将来わたしと姉が同じ人を好きになったとしたら、そのときも姉さんはその人を譲ってくれるだろうか。そんな風に考えたこともあった。

 ごめんね。姉さん。わたし、恭一さんを独占したい。
 もう、姉さんに遠慮しない。譲ってくれるでしょう、いつものように。平気よね。わたしが恭一さんを好きになっても。
 この日記に書かれていることは、誰にも秘密。
 わたしは姉さんの日記帳を鍵付きのボックスに入れると、ベッドの下にしまい込んだ。

 「明日の夜、開けといてください」
 仕事中、急にわたしが声を掛けたものだから、恭一さんは持っていたダンボール箱を床に置いてどうしたの、と驚いた表情を見せた。
 「ホワイトデーでしょ、明日。チョコのお返しにわたしを食事に誘ってください。ううん、やっぱり、飲みにいきましょう」
 「へえー、お酒だなんて。アキちゃん、飲めるの?」
 「子供扱いしないでください」
 「そうだね、失礼。アキちゃんは素敵な大人の女性だよ」
 アキちゃん、か……。呼び捨てじゃないのね。姉さんを呼ぶみたいに。
 「わかった。明日の夜だね。開けとくよ」

 どうしよう、明日何着て行こう。やっぱり、この前買った花柄のスカート。
 アパートに戻るとすぐにクローゼットハンガーを開いた。値札のついたままのスカートを腰に当てて鏡の前に立つ。
 姉さんもよく花柄のスカート履いていたっけ。このスカートと水色のジャケットを合わせよう。姉さんに負けないように、おしゃれして行こう。

 大通りにあるレストランバー。お店選びは恭一さんに任せた。前を通ったことはあったけど、入ったことはない。誰かが誘ってくれないと行ける雰囲気でもないし、女の子同志でって訳にもいかない。周りはカップルばかり。なんだか恥ずかしい。
 「アキちゃん、最近楽しそうだね」
 「はい。バイトがある日はなんだか楽しくって」
 「そう、仕事が楽しいのはいいことだよ」
 ウエイターがマルガリータを恭一さんの前に、カンパリオレンジをわたしの前に置いた。
 楽しいのは誰かさんに会えるから、と言いそうになった口を黙らせるいいタイミングで現れてくれた。
 二人が向かい合うテーブルに赤いキャンドルが揺れる。薄暗い店内のムードについ錯覚してしまいそうだった。わたしたちは恋人同士じゃない。
 「……このお店、姉さんと来たんですね」
 返事がなかった。都合が悪くなるといつも黙りこむ。それがあなたの癖。
 恭一さんは火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
 姉さんとどんな話をしたのだろう。目を見交わして愛を語り合ったのだろうか。プロポーズしたのもこのお店だったのかもしれない。
 恭一さんは遠い目でキャンドルの炎を見ながら、二本目の煙草を箱から出した。煙草を軽くテーブルに叩きつけてから、口の右端にくわえ火を点けると、中指と薬指に挟んで煙草を吸う。それもあなたの癖。
 姉さんは気付いていたかしら。彼のこの癖。
 好きな人の癖を見つけるだけで嬉しくなる女なのよ、このわたしは。
 恭一さんのことは何でも知りたい。癖も、好みも、本心も。
 「恭一さんってずるい人ですね」
 「どうして」
 「そのどうしてがずるいって言ってるの」
 何を言うの、わたし。やけ酒になってる。
 「アキちゃん、酔ってるね。大丈夫かい」
 わたしに優しい言葉をかけながら、心は此処にないことを知っている。
 恭一さんがわたしから視線をそらすたびに、悲しくなるの。あなたのその優しさが姉さんを苦しめたのよ。
 言葉にならない言葉たちが、わたしの中でくすぶっている。
 今ここで恭一さんを問い詰めてなじったとしても、自分の気持ちを正直に吐き出したとしても、どちらも楽にはなれない。
 「出ようか。送っていくよ」


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 お店を出ると、恭一さんがわたしを気に掛けながら寄り添ってくれる。冷たい夜の風が気持ちいい。
 酔った振りをすれば、恭一さんの腕にもたれ掛かることもできるのに。
 人影のない歩道には街灯の灯りが点々と灯る。恭一さんと無言のまま歩いて行くと、アパートの近くの児童公園まで来た。アパートに着けばもう今日は会えない。
 わたしは恭一さんの前に立ち塞がった。自分の口はまったく予想のつかないことを言う。
 「キスして」

 自分の大胆さには呆れる。張りつめた体と神経でおそるおそる顔を上げると、まっすぐわたしの目を見つめる瞳。その奥にわたしはいない。
 わたしを見ているのに遠く感じるその目は、わたしと姉さんを重ねている目だ。わたしには分かる。
 恭一さんは少しずつ近づくと、大きな手のひらをわたしの耳の後ろに這わせて髪の中に指を入れた。
 目を閉じて待つと、恭一さんは前髪を垂らしたわたしのおでこにそっと唇を当てた。
 そこじゃないのに。わたしの欲しいキスはくれないのね。
 恭一さんは指でわたしの髪の毛をとかすようにしながらゆっくり離れた。目を閉じていてのも彼の表情は見える。悲しい目を見たくないので、しばらくまぶたを閉じていた。

 「行こうか」
 わたしが小さく頷くと、恭一さんはアパートの方向に歩き出した。夜の児童公園は死んだように静まり返っている。
 「殺したんでしょ」
 突然のわたしの言葉に恭一さんが振り返る。
 「姉のこと愛していたんでしょ。それなのになぜ姉を悲しませるようなことしたの。なぜ、浮気なんか……」
 恭一さんは切なそうに私を見る。そんな目で見ないで。
 「わたしは姉さんと違うの! わたしを見て欲しいの!」
 勢いに任せて飛び出す言葉に、恭一さんは答えない。答える気にもならないということか。
 「わたし、こんなこと言いたかったんじゃない。わたしは、恭一さんのこと……」
 「わかったから。もう話さなくていいよ」
 わかってないくせに。あなたは何もわかってない。優しくしないで、痛いから。
 「だいぶ酔っているようだね。今日はもう休んだほうがいい」
 わたしの肩を抱き寄せて恭一さんは歩き出した。

 わたしは恭一さんに優しくして欲しいんじゃない。姉と同じように愛してくれないのなら、わたしも殺して。あなたの中途半端な優しさがわたしを傷つける。
 無言で歩き続けるアパートまでの道のりは、嫉妬と苛立ちと恥ずかしさで歩くのもやっとだったけれど、それでも肩に伝わる手の暖かさがわたしを少し落ち着かせてくれた。
 アパートの前に着くと、わたしの口から小さくこぼれ出た。「ごめんなさい」
 小さな声すぎて恭一さんに聞こえてないかもしれない。
 悪いことをしたとは思わないけど、恭一さんを困らせたのは確かだ。混乱した頭の中でわたしが言えた精一杯の言葉だった。
 恭一さんはいつも通りの優しい微笑をくれると、返事の代わりに片手を挙げた。
 ゆっくりとアパートから遠ざかる恭一さんの背中はどこか翳りが潜んでいるようで、いつもと違って見えた。

 わかってないのはわたしのほうだ。
 それが恭一さんの姿を見た最後だった。

 次の日、恭一さんは職場に現れなかった。
 バイトのチーフが彼の代わりに入っていたけれど、無断欠勤するなんて珍しいこともあるものだと、皆が噂した。
 わたしは昨日の一件を思い出し、どんな顔して会えばいいか悩んでいたところだったので、内心ほっとしていた。
 言いようのない不吉な胸騒ぎを感じてはいたが、それほど気にならず、いつも通りバイトを終えるとアパートに帰った。

 翌朝、わたしは携帯電話の着信音で目が覚めた。のそのそベッドから這い出して表示を見ると、バイト仲間の伊原さんだ。
 今日のバイトは午後からだったはず。こんな朝早くから何の用だろう。
 仕方なく電話に出ると、けたたましい彼女の声。
 「今日の新聞読んだ?」
 「読んでない。新聞とってないから」
 「落ち着いてよく聞いて。店長が……、店長が亡くなった」
 携帯を耳に当てたまま固まる。伊原さん、冗談キツイわ。
 「うそでしょう」
 「うそでこんなこと言わないってば。昨日の夕方、T市のロイヤルマンションの屋上から飛び降りたんだって。事故と自殺の両面で捜査するらしいよ。それで、今から――」
 電話をわざと切った。携帯が手から滑り落ちて床で横になる。
 悪い冗談だ。そうでなければ、まだ夢を見ているに違いない。全身の血液が抜けたかのように足も指先も冷たくなっていく。
 T市のロイヤルマンションは姉さんが飛び降り自殺した場所。
 携帯の着信音が鳴り、びくりとする。また伊原さんだ。
 「さっき、切れたから話の続き。今から、お店に来れない? お通夜の場所と時間教えるから。バイトの代表者が参列するけど、あなたも一緒に行くでしょ?」
 伊原さん、まだそんなこと言っている。わたしが本気にするとでも思っているのかしら。信じる訳ないのに。信じない。
 とにかく、バイトに行かなければ。早く行って、悪い冗談やめてよ、と言ってやるんだから。
 うそよ。うそ。そう呟きながら洋服に着替えた。
 玄関の外に出て、鍵を掛けようとしてふと見ると、小さな赤い郵便受けに白い封筒が差してあるのを見つけた。取り出して裏側に返すと、そこに書かれた文字が眼に飛び込んできて、一瞬血流が止まった。
 『佐伯恭一』
 わたしは部屋に戻ってためらいがちに封筒の端をはさみで切った。手紙の内容を知るのは怖かったけれど、恭一さんがわたしに手紙を残した意味を嗅ぎ取って、怯まず三つ折りの便箋をそっと開く。


     アキちゃんへ

 これを読む頃には、ぼくはこの世にはいないだろうね。
 月並みだけど、恋人の後追い自殺、と新聞に出ているかな。かっこわるいよね。
 ぼくは涼子を失ってからの三ヶ月、辛かったよ。なぜすぐに涼子のそばに行ってあげなかったのだろうと、ずっと後悔していたんだ。
 でもあの日、涼子のお墓の前できみに会って、涼子の大切にしていた妹のきみを、ぼくが守ってあげたい、そう思ったのは本当だよ。
 きみが知りたがっていた事実は、きみにとって辛いことかもしれない。でもきみには現実を見つめて生きて欲しいんだ。
 涼子は自分で命を絶ったんだ。浮気をしたのは涼子のほうなんだよ。
 ぼくとのほんの些細な感情のもつれから傷ついた涼子は、職場の上司と一度だけ過ちを犯した。涼子は自分を責め続けたよ。
 ぼくは涼子を許したかった。許したつもりだった。でも、ぼくの目の奥にあった、ひとかけの疑いが、重く涼子の心に突き刺さったのだろう。
 涼子とぼくとの想い出が美しすぎたから、一瞬でも涼子を許せなかったぼくを見るのが辛かったんだろう。いやそれ以上に涼子は自分が許せなかったんだね。
 あの日涼子は、ぼくをあのマンションに呼び出して、殺して欲しいと頼んだ。
 そんなことぼくに出来る訳ないだろう。断ると涼子はとても悲しい目をして微笑んだ。
 そして、ぼくの目の前で屋上から飛び降りたんだ。とても悲しい目だったよ。
 涼子の死を止めることが出来なかったのは、ぼくの罪だ。
 涼子のすべてを許すことが出来なかったのも、ぼくの罪だ。
 それはぼくが殺したと同じだ。
 ぼくは涼子を愛していた。だから一人で死なせてはいけなかったんだ。
 きみは誤解しているようだけど、ぼくはきみと涼子を重ねて見てはいないよ。きみはきみだ。ぼくの大切な妹さ。
 残念なのはきみをずっと守ってあげられなかったことだ。弱いぼくを許してほしい。
 最後にきみにお願いがある。
 これから先、辛くて泣きたくなる時があるかもしれない。でもどうか、泣かないで、笑顔で強く生きてほしいんだ。それがぼくと涼子の望みだよ。
 ぼくが今、こんなに幸せな気持ちなのは、最後にきみに会えたからかな。感謝しているよ。

                                   ぼくの大切な妹、アキへ


 これが現実だと理解するまで、どれくらい時間が経ったのだろう。
 ごめんなさい、恭一さん。あなたの望みは叶えてあげられそうにない。
 体中が乾いてしまのではないかと思えるほどの涙が溢れ出て、子供のように大きな声を上げて泣きじゃくった。
 泣かないで、だなんて無理よ。
 わたしはこんな結末を望んでいなかったのに。
 わたしのせいだ。
 思い過ごしの恋愛に酔いしれていた自分を恨んだ。
 わたしの思い込みが恭一さんに死を決意させた。
 わたしの大切な人が、また、いなくなった。
 悲しさと悔しさの入り混じった涙はとめどなく生産され、いっそ溺れて死んでしまいたい。
 二人の絆の深さは始めから分かっていたのに。わたしが認めようとしなかっただけだ。
 姉さんのように、命を燃やしたかった。
 恭一さんのように、優しくなりたかった。
 悔やんでも、後悔の渦に沈んでいくばかりで、ただ無力な自分が悲しい。
 わたしは心の中を嘔吐するように、ずっとずっとむせび泣いた。

 次の日、お葬式の帰りに、実家に寄った。母の顔を見るのは四十九日以来。少しやつれた。
 今年は雛人形を飾らなかったの? と訊くと、喪中なのでお祭りごとはしないと言った。
 「箱に入ったままじゃ、可哀そうよ。姉さんのお雛様」
 そう言うと母は黙って頷き、立ち上がった。
 和室の押入れの奥にしまわれていた大きな桐箱のふたを開けて、一つ一つ白い紙に包まれた人形たちを取り出す。母と二人で包みをほどき、お人形を緋色のひな壇に並べていく。あの頃の姉さんと母のように。
 「思い出すわね、このお人形、涼子が……」
 母はそう言い掛けて、その先は声にならなかった。
 「気に入ってたわよね、姉さん。このお人形」
 わたしは手元のお人形に目をやりながら、母の言葉に続けた。
 母は頷き、瞼を押さえた。

 一番丁寧に包まれた紙の中にいたのは、細い目で上品そうに微笑むお雛様。
 白く美しい顔は姉さんに似ている。一番上の段の右側にそっと置く。
 その隣に並べるのは、恭一さんによく似たお内裏様。
 幸せそうな二人。

 このお雛様は姉さんのものよ。譲ってくれなくていいの。もう何も。もう誰も。
 お雛様は優しくわたしに微笑む。
 もう泣かない。雛人形になった二人にそう誓った。

 姉さん、わたしは生きていく。
 悲しみを咀嚼して、涙の血液を体中にめぐらせながら、
 わたしは、生きて、いく。
                                      
                                        了

小説『失恋のススメ』

kage

2008/09/18 (Thu)

恋愛小説 久しぶりに書いてみました


  失恋のススメ

 浩志が首の後ろを掻くのは、焦ったときによくする癖だ。一週間前、待ち合わせに遅刻したときもやっていた。そして今も盛んに掻いている。私の目の前で目を合わさないようにうつむいて座る、この男のその癖が腹立たしくて、わざと冷たい目線を投げかける。
 珍しく浩志のほうから呼び出すものだから、わざわざ来てあげたのに、この仕打ちは何?
今ここでめそめそと涙の一筋でも流してやろうか、と企んでみたけど、思うように涙は出てくれなかった。仕方が無いので、ふうっと声を出して大げさにため息をつく。

 浩志は私の彼氏だった。そう、たった今から過去形になった。
 エリコにはもったいないくらいの優しい彼だよね、と友達は言うけど、付き合いたいと言ってきたのは、あいつの方だ。私から先に好きになったんじゃない。
 まぁ、高校は女子高だったし、職場もおじさんばっかりだから出会いもない。今までもてた覚えが無いのに初めて告白された訳だから、断る理由もなく、即OKしたのは私だけど。二十年間の人生で最初の彼氏だから、有頂天になって友達に自慢したのも私だけど。
 いつだって彼は私に優しかった。そう、あの日だって――。

      ◇

「今すぐ来て。駅前のカフェ。知ってるでしょ」
『今すぐは無理だよ。バイト中。もうすぐ終わるから待ってて』
「じゃあ、終ったらすぐ来て。すぐよ」
 そう言って携帯電話を耳から放すと、向かいに座る友達のマキが頬杖をつきながら皮肉めいた口調で言う。
「エリコの彼氏、便利よねー。呼び出したらすぐ来てくれるんだ」
「マキが彼氏に会わせてって言ったんでしょ」
「だって。わがままエリコ様と付き合う男って、どんなお人好しか見てみたかったんだもん」
 マキは意味深な笑みを浮かべて、アイスティーに刺したストローを必要以上にぐるぐるとかき回してみせた。
 浩志は私が会いたいと言えば、大学の講義をサボってでも、どんなに夜遅くても、すぐに来てくれる。そういうのがお人好しというのだろうか。彼氏なら当たり前でしょう。
 私の頼みは何でもきいてくれるし、私の嫌がることはしない。背が私より低いのがちょっと気に入らないけど、顔はまあまあだし、そういった意味では理想的な彼氏だ。初めて付き合った人にしては『当たり』だった。
 マキとおしゃべりしながらも、目線はつい腕時計へ。浩志の到着が気にかかる。

 私の苛立ちが沸点近くまで来た頃、自動ドアが勢いよく開くと同時に、浩志が急いで店の中に駆け込んできた。
 私が軽く手を挙げると、こちらに気がついた浩志は、気まずそうに私達のテーブルに近づく。
「遅いわよ」
「ごめんごめん。これでも急いで来たんだよ」
 浩志は汗を拭きながら私の隣の席に座ると、オーダーを取りに来た店員に、ジンジャーエールと言った。
「へぇー、これがエリコ様の彼氏かぁ」
 マキは興味深そうな目で浩志をじろじろ見てから、エリコのどこが好きなの、どんなデートしてんの、としつこく話しかける。浩志はマキの質問攻めに戸惑いながらも、素直に答えていた。
 私は浩志の受け答えを黙って聞いていたけど、あまり期待した答えが出てこなかったのが不満だった。

 店を出るとき、伝票を持って立ち上がる浩志に、マキが言った。
「甘やかすと、つけあがるわよ」
 浩志は何も言わなかったけど、苦笑したように見えた。
 失礼ね。つけあがるって何よ。彼氏なら言い返しなさいよ。

 浩志の運転する車の中から、街路樹が一定のリズムで通り過ぎていくのを、無気力に見つめる。
 さっき浩志は、エリコのどこが好きの質問の答えに長い間があった。その態度を思い起こして無口になっていると、私の不機嫌に敏感な浩志が、せっせと話しかけてくる。浩志の必死な御機嫌とりを無視して、CDを取り替えようと、カーオーディオの取り出しボタンをおす。
「幸田クミないの? 今日は幸田クミの気分なの」
「無茶いうなよ。持ってないよ」
 もう、と怒って私は近くにあった男性アーチストのCDを荒々しく入れると、恐ろしくボリュームを上げる。
「もっと小さくしてくんない。運転に集中できないよ」
 たまらず浩志がそう言う。
「私は、大音量でききたいの」
 CDに負けないぐらいの大声で叫ぶと、浩志はそれには答えず、無表情にまっすぐ進行方向を見て運転していた。夕方の渋滞時、ゆっくり進む車の中に奇妙な空気が漂う。息苦しくて窓を開けた。
「わかんねーな。何に怒ってんだか」
 別に怒ってないし。困らせたいだけ。反応を楽しみたいだけ。浩志こそ何でわかんないの。

 私のアパートに着くと、当然のように浩志も部屋の中に入る。デートの最後はいつも私のアパートだ。
「何か作るよ。パスタでいい?」
 私は小さなキッチンに立つと、スパゲティを茹でて、別鍋でレトルトのトマトソースを温めた。十二分もあればすぐ出来る。浩志はお皿とフォークを食器棚から出して並べている。いつものことだけど気が利く奴だ。
 茹で上がったスパゲティにレトルトのソースをかけていると、後ろから眺めていた浩志が眉をしかめて言う。
「あー、トマトソースか。俺、すっぱいの苦手なんだ。クリーム系のほうが好きなんだけどな」
 文句を言いながらも、お皿をテーブルに運ぶのを手伝ってくれる。いつものことだけど可愛い奴だ。
「贅沢言わないでよ。私が手料理作ってあげたんだから」
「手料理って。レトルトだろ」
「何よ。文句あるの? クリーム系食べたいのなら、新しいパスタ専門店が出来たから、そこに連れてってくれればよかったじゃん」
「うーん。今お金ないから、バイト料入ったらな」
「これだから学生は。情けないわね」
 浩志は苦笑いしながら、トマトソーススパゲティを食べ始めた。
 食べ終わってフォークを置くと、ポケットから煙草を取り出した。
「ちょっと。外に出て吸ってくれる? 煙草の臭いが服や髪の毛につくのが嫌なのよ」
「わかったよ」
 そう言って浩志は玄関のドアを開けて表に出た。たぶん、ドアの前に突っ立って煙草をふかしているだろう。

 浩志とはこんなに仲がよかったのに。一度も喧嘩したことはないのに。
 食事に行ったり家に泊まりにきたり、極普通のカップルだったのに――。

     ◇

 それがどうして、今、浩志から別れ話を聞かされないといけないの。
 浩志にこのカフェに呼び出されたのは二度目。一度目は付き合って欲しいと言われたとき。
 ありえない。私が浩志に何かした? この私のどこが悪いと言うのよ。
 私は首の後ろを掻き続ける男に、別れの理由を問い詰めた。言い渋る浩志は、情け容赦なく睨み続ける私を上目にみると、他に好きな人が出来たんだ、と小声で言った。
 男って浮気をする生き物だとは聞いていたけれども、浩志も同じ種族だったとは。

 二人の間に置かれたアイスコーヒーの氷が溶けて、透明と茶色の層を作っている。それに目を落とす浩志。浩志をにらむ私。
 夜のカフェはカップルばかりだ。幸せムード漂わせる彼らには、呼吸するのもやっとの二人など目に入らないだろう。
 長く感じられる沈黙。重い空気に苦しめばいいわ。
 しかし、沈黙に耐えられないのは私も同じだった。別れ話にうろたえるのは見苦しい女のすること。そして今まさに私は見苦しい女だ。頭に血が昇って冷静さを装う余裕がない。プライドを忘れた言葉が後を突いて出る。
「私のこと好きだったんじゃないの? なのに何で?」
「……君が嫌いになったんじゃないよ」
「意味わかんない。その女と私と、いったいどこが違うのよ」
「……君にはないものが、彼女にはある。それだけだ」
 浩志が哀れむような目で私を見るのが悔しい。もっと冷たく言い放てばいいのに。お前が嫌いだと。最低の女だと。
 そっちから別れをきりだしておきながら、最後まで優しいのは卑怯だわ。

 浩志は私を店に残して立ち去っていった。振り返りもしないで。
 なによ、これ。私は振られたの? ありえない。

 失恋ってもっと悲しくて苦しいものだと思っていた。なぜだろう。今はただ甚だしく悔しくて情けない。 誰だかわからない女に負けたからだろうか。ショックというより怒りに似た感情。
 突然の別れの宣告から二週間経つが、浩志は何の連絡もよこさない。もちろん私から電話なんてしない。すがり付く女みたいなかっこ悪いマネなんかできない。振られた理由も納得できない。
 この私がいったい何をしたって言うのよ。私に何が足りないの? 

 日曜日、何もすることがないのでアパートでぼんやりしていると、マキから食事の誘いの電話があった。マキは私が振られたことをまだ知らない。このまま一人でいても、ため息で体中の空気が抜けてしまいそうなので、気分転換に出かけることにした。

 アパートの近くにできたパスタが美味しいと評判のお店。浩志と行くはずだったのに。
 私たちは店に入ってすぐの窓際の席に座った。バッグを置こうとして体を横に向けると、奥のテーブルに見慣れた男の姿が見えた。慌ててバッグで顔を隠す。
 浩志だ。なんであいつがここにいるのよ。
 一緒にいる女が新しい彼女だろうか。黒い髪を後ろで一つに束ねた清楚な感じの子。後ろ姿の印象はそんなところか。私は背中を向けながら、横目で彼女を盗み見る。
 テーブルとテーブルの間に、観葉植物の大きな鉢が置いてあるので、向こうからこっちはよく見えていないはず。でも話し声は聞こえる。体はマキの方を向きながらも耳は二人の会話を聞き取ることに集中する。
 二人は時々笑い声を立てながら、バイト先での変わったお客さんの話をしているらしく、彼女の「いやだぁ、浩志くんたら」のゆっくりした高い声が耳に残って、無性に腹が立った。時々ちら見をしている私に気がつかない浩志が歯がゆい。もっとも見つかっても困るのだけれど、隠れようとしている自分もなぜだかもどかしい。

 そんな私の横を通って、店員が奥のテーブルにお皿を二つ運んできた。二人はサーモンクリームスパゲティを頼んだようだ。
 わぁおいしそう、と楽しげな声を出す彼女に浩志が言った。
「そういえば、クリーム系は重すぎるからあまり好きじゃないって言ってなかったっけ?」
「んん。そうだけど、同じもの食べておいしいって思いたいもの」
 浩志はそうか、と言って、フォークを手に取った。
 なに、あれ。自主性のない女ね。
 浩志は胸のポケットから煙草を取り出すが、テーブルに灰皿がなかったらしく、視線を左右に漂わせる。それを見た彼女が、手を挙げて店員に合図をすると、「すいません、灰皿ください」と言った。
 グラスの上げ下げも煙草のくわえ方も、私の知る浩志ではなかった。二週間会わないだけで、私の浩志はあの女の浩志に変わっていた。嫉妬心が嵐のように渦巻く。
 浩志が今着ているシャツは、去年の夏一緒に買いに行ったものだ。私が選んだブルーのニットシャツ。私の前では一度も着たこと無かったくせに。悔しい。

「ここのお店、おいしい。連れて来てくれてありがとう」
「おいしいだろ? 君に食べさせたいと思ってたんだ。今度はどこの店にする?」
「それより、お弁当持って、公園に行きましょうよ」
「それじゃあ、この前作ってくれた肉じゃが、また作ってくれよ」
「ええ。いいわよ。あ、浩志くん。口の横にソース付いてるよ」

 なに、この会話。この女は媚びてるの? 甲斐甲斐しく浩志を構わないでよ。私と一緒の時は、気を遣ってくれるのも、食べ物の好みを合わせてくれるのも浩志の役割だったのに。
 今まで私はずっとそうしてきたし、浩志も何も言わなかったじゃない。それのどこがいけないの? なのに浩志ったら満更でもない顔で、口の周りを拭いてもらったりして。
 なんなのよ。なんなのよ。なんなのよ。私といる時の浩志と全然違うじゃないの。なぜあの子といるとそんなに嬉しそうなのよ。


「―― どうしたのよ。さっきから黙り込んで。怒った顔してるし」
 マキに言われてびくっとする。目の前に置かれたトマトスパゲテイはすっかり冷めていた。
「うん、なんでもない」と、努めて微笑んで見せて、少し硬くなったパスタをフォークでほぐす。
「ねえ、マキ。今好きな人いる?」
「いるよ」
 パスタを絡め取りながらマキが答えた。
「彼氏とうまくいってんの?」
「うーん。どうだろう。彼は私だけを見てくれるわけじゃないからね」
「はあ? なによそれ。よく平気だわね。許せない、そんな男!」
 私は感情込めて、と言うより憎しみ込めて、フォークを掴んだ手でどんと音をたててテーブルを叩く。
 マキは窓の外の景色を眺めながら言った。
「相手を好きと思うだけで幸せなんだよ。彼を好きになった自分に満足してるかな。彼の笑顔だけで満たされるの。彼が私のこと好きでいてくれるなら、彼の気持ちと対等な気持ちで応えたい。どちらかが強すぎても弱すぎてもいけない。バランスも大切だからね」
 マキはグラスの水を一口飲んでから続けた。
「辛くない恋は無い。でも恐れていては恋はできない。今は生きる希望と喜びを与えてくれる彼に、感謝しているかな」
 私は、マキのゆっくりとした、まるで自分自身に語りかけているような言葉を黙って聞いていた。
 マキは話し終わると、フォークで器用にサラダのレタスをまとめて口に運んだ。

 マキはいつもハードルの高い高望みの相手や、妻子持ちの男を好きになる。昔からそうだった。そして今も報われない恋をしているのかもしれない。それでも幸せだなんて、私には共感できない。
「好きと思うだけでいいなんて、それは不幸だわ」
 そう言う私に、マキは否定も肯定もせず、口元だけで笑った。

 その時、後ろから椅子を引く音がして、浩志と彼女が立ち上がる気配がした。浩志の数歩うしろを彼女がついて歩く。誰が見てもお似合いのカップル。
 私の横を通り過ぎても、浩志は気がつかないなんて。二週間ですっかり他人になったということなのだろうか。浩志の背中をぼんやりと見送る。


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店を出た後、マキとカラオケに行ったが、今ひとつ盛り上がらなかった。
 無意識に悲しい曲ばかり選んでいる。ますます自分が沈んでいくとは分かっていたけれど、こんな気分で浮かれた恋の歌なんか歌えない。
 パスタ店でのマキの言葉を思い出す。そんな恋愛の形もあるのだろうか。おいしいものを食べに連れて行ってくれたり、欲しいものを買ってくれたり、そんな付き合い方じゃないと私は満足できない。笑顔だけで何が満たされると言うの。頭の中に様々な思いが入り混じり、整理できない。
 マキが歌うこの曲。私と浩志のお気に入りで、よく二人で聴いたっけ。
 スピッツの寂しく繊細な歌なのに、なんだか胸に刺さって痛い。
 曲の間奏がうつろに鳴り響くのに乗せて、マキがマイクを通して「もう帰ろうか」と言った。

 マキと別れた帰り道、雨が降り出した。初めはぽつぽつと身体に落ちてきた雨の粒は、無情にもだんだん激しくうち付ける。
 迎えに来てくれる浩志はいない。この雨は惨めな私にとどめを刺しているつもりなのか。
 びしょ濡れになってアパートにたどり着くと、洗面所の棚からタオルを取り出した。鏡の前に置かれたコップの中には、捨てることのできない彼の歯ブラシ。持ち主はもうこの部屋に来ることはないというのに。

 私にとっての浩志は、ただの便利な男だと思われているだろう。マキには。浩志にさえも。
 今改めて思った。あいつは初めて好きになった人だ。誰に何と思われようと本気だったのに。
 浩志が私を呼ぶ「エリコ」の声が好きだった。他の誰かが言う「エリコ」よりも。
 運転中に繋いだ左手も、ご機嫌を取ろうと必死な目も、私から無くなるなんて考えたこともない。何があってもそばにいてくれると信じていた。
 人を好きになるって、切なくて苦しいことだったんだ。
 私は彼の優しさにつけ込んでいたのだろうか。浩志の優しさは残酷だ。自分がなおさらお馬鹿さんに見える。

 私の頬を伝う雫は雨だと思っていたけれど、拭いても後から流れ落ちてくる。
 涙の理由を冷静に考えようとしたら、頭に浮ぶのは、あの日浩志の好きなクリームスパゲテイを作ってあげればよかったのかな、ってことばかりで。たぶん別れの理由はそれだけではないのはわかっているけれど、今はそのことばかりが悔やまれる。
 これが失恋というものなのだろうか。後悔と反省が繰り返し交互に押し寄せる。
 あいつの前で見せたかったな、この涙。悔しくて無理に笑おうと努力しながら、天井を見上げた。

 次の日、私の足は、彼女の勤めるデパートの地下食料品売り場へ向かっていた。彼女の地味な仕事振りを、この目で見てやりたい気分になったからだ。確かサラダコーナーでバイトをしていると浩志が言っていた
 彼女は髪をひとつに束ね、店の白いエプロンを着けている。化粧気はないけど古風な顔立ち。やっぱり男は顔のいい女が好きなんだ。売場から少し離れた場所から、しばらく彼女の様子を観察してやろう。

 彼女は、耳の遠そうなおばあさんに、ゆっくり大きな声で金額を伝えている。スローモーションのように財布を取り出して、小銭を一枚一枚並べていくおばあさんの動きを、笑顔で見守っている。並べ終わったお金を受け取ると、売り場のガラスケースの前に出てきて、丁寧に品物を両手で渡していた。ゆっくりと売り場を離れるおばあさんの後ろ姿に、「段差あるから気をつけてくださいね」と声をかけていた。
 そして次のお客さんにも同じように明るく対応している。親しみ込めて愛情込めて。まるですべてのお客さんが家族か友達のように。

 そんな彼女の様子を、私はずいぶんと長い間眺めていたような気がする。なぜだかその場から動けない。
 彼女の笑顔は柔らかで温かい。棘のない薔薇のように、さりげなく美しい。生き生きと働く姿がとても眩しく見えた。
 彼女は私に無いものばかり持っている。素直さを。純粋さを。優しさを。人を幸せにする笑顔を持っている。
 マキは彼の笑顔だけで幸せになれる、と言った。その言葉の意味が、今わかった気がする。

 私はサラダコーナーのガラスケースの前に立つ。彼女は私が浩志の元カノだとはおそらく知らない。 顔色を変えずに「いらっしゃいませ」と笑顔で言うと、私が注文するのを待っている。
 私は綺麗に並べられた色とりどりのサラダの方向を見ながら、「白菜とグレープフルーツのサラダ、二百グラム」とすまして言う。
 彼女は、「はい」と高い声で言うと、手際よくサラダをパッケージに取り分け、真剣な目で秤を見ている。私はてきぱきと動く彼女を横目で見ながら、ぽつりと言った。
「男って肉じゃがに弱いのよね」
「は?」
 彼女は手を止めてこちらを見た。
「肉じゃが作れる女は家庭的って決め付けているのよね。ばかみたい」
「……はぁ」
 彼女はサラダを包みながら困ったように返事をした。
「肉じゃが……作ってみようかな」
 小声で言うと彼女には聞こえなかったようだ。「お待たせしました。三百六十円です」と愛想のいい顔つきで朗らかに言った。
 代金を支払って品物を受け取ると、彼女は「ありがとうございました」と、やはり眩しい笑顔で頭を下げた。
 彼女の笑顔は私に感染したらしい。「それじゃあ」と言って彼女に負けない笑顔を返した。
 なんだろう、この感じ。学校で友達と下校の挨拶をしているような感覚。

 私の中に、ここに来る前にはなかった気持ちが生まれたのが自分でもわかる。ほっとしたような安心感。浩志もこんな安らぎが欲しかったのかもしれない。解放してあげよう。これが私の愛情。
 私達は、同じ速度で同じバランスで、愛し合うことが出来なかっただけ。素晴らしくあきらめがいい自分に驚きながら、不思議と足取りは軽い。誰かの為に、肉じゃがを鼻歌交じりに作る自分を想像したら、笑えてきた。

 冷房の利きすぎるデパートの、重たいドアを押して外に出た瞬間、身体を覆うぬるい熱気と太陽の光。じりじりと照りつける日差しを正面で受け止めて、日焼けを気にせず颯爽と歩こう。
 そうだ、これから美容院に行こう。髪を短くカットしよう。私に似合うに決まっている。
 そして、きっとまた、私は誰かに恋をする。
 

                                            了


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小説『ミントガムのあなた』

kage

2008/06/06 (Fri)

甘甘恋愛小説

  『ミントガムのあなた』


 まったく、嫌になる。毎朝毎朝この窮屈な満員電車。何回乗っても慣れやしない。ううん、慣れたくもない。
 長い髪を時間をかけてせっかく綺麗にセットしたのに、誰かのスーツのボタンに引っかかったりするし、汗をかいた中年のおじさんがぴったりくっついてきたりもする。朝からこの不快感、本当に何とかならないかしら。
 私は電車が揺れるたびに、前後左右にいる人と不本意なおしくらまんじゅうをしながらいつもそう思う。周りの人に八つ当たりしてもしょうがない。みんな同じように嫌な思いで乗っているのだから。あと二十分で私の目指す駅に着く。それまでの辛抱だ。つり革をぎゅっと握り締めながらヒールの先で踏ん張った。

 カーブに差し掛かって電車が大きく揺れたその時、私のお尻に何か当たっている感触が。間違いない。誰か触っている。人ごみに紛れているつもりだろうか。人と人の隙間から誰だか分からない男の手がにょきっと出て、薄いフレアースカートの上から私のお尻を確かに触っている。
 周りを見廻してみる。誰も私を見ていない。でもこの中の誰かが痴漢に違いない。いい加減にしなさいよ。女の子が誰しもおとなしいと思ったら大間違いよ。
 私は今も平然と触り続けるその手をむんずと掴んで上に挙げて、大声で叫んだ。
「この人痴漢です!」
 一瞬にして注目を浴びる。するとその手の先に、気弱そうな中年サラリーマン風の男の慌てふためく姿が現れた。
「ち、違いますよ。ボクはやってません」
 甲高い声でその男は、顔の前で手を左右に振りながら言った。どう見ても動揺している。
「明らかに触ってたじゃない! この手で」
 強く言う私に、周りの人たちはみんな無関心そうで、新聞で顔を隠したり、寝たふりしをして、誰も助けてくれない。すると痴漢は逃げられると思ったのか、私の手を振り払って隣の車両の方向へ逃げようとした。
「待ちなさいよ!」
 人を掻き分けて追いかけようとしたその時、ひとりの男性が痴漢の腕を掴んだ。
「どこへ行くんですか。僕、見ていましたよ」
 痴漢の手首をひねるように持ち上げてその男性は強く言った。その時ちょうど電車が駅についてドアが開いた。
「降りましょうか」
 男性はそう言うと、痴漢の腕を掴んだまま、電車の外に出た。痴漢に対しても丁寧な言葉使いをする人だなあ、と思って他人事のように見ていると、男性は私の方を振り返って、あなたも降りてください、と言った。
 紺色のスーツが似合う、きりっとした精悍な顔立ち、私を見た一重瞼の目は鋭いけど優しかった。二十代後半くらいかな。勇敢な人。
 こんな非常時なのに、私は思わず見惚れてそんなことを思っていた。男性に声を掛けられて、慌てて私も電車を降りた。

 男性は痴漢の腕を強く掴んだまま、駅事務所へと足早に向かった。もう逃げられないと観念したのか、痴漢もおとなしく従う。私はこの状況に自分でも驚いて戸惑ったけど、こうなったら後ろからついていくしかない。
 駅事務所に入ると、痴漢騒動には慣れているらしい駅員に、事務的に対応されてちょっとがっかりした。痴漢を捕まえたのよ。私じゃなくて、この人が。
 私と男性はパイプ椅子に並んで座って、駅員の指示を待つ。痴漢は私たちと離れた位置にある椅子に、ふんぞり返って座っていた。
 男性はどうしていいかわからない私の代わりに、駅員に説明してくれた。お陰で私が被害者なのに何も話さなくてもことが進んでいく。駅員は並んで座っている私たちが連れだと思っている。さっき会ったばかりの人なんだけど。
 すると駅員が私たちの前に置かれたテーブルの向かい側に立って、平坦な口調で説明を始めた。
「もうすぐ警察が来ます。あなたは被害者なのですから、警察に被害状況を説明することになると思います。告訴されますか」
 コクソ? ケイサツ? 心臓か破裂しそう。私これからどうなるの。さっきまでは強気だったのに。つい勢いで痴漢を捕まえなきゃって思って。でも警察とか告訴とか言われたら急に恐くなってきた。右手が震えているのを左手で抑えようにも、左手も震えてどうにもならない。震えは全身に伝わった。その様子を隣に座る男性はしばらく見ていたようだけど、私の耳元に顔を寄せ、周りに聞こえないような小さい声で、そっとささやいた。
「君はこの痴漢をどうしたい」
「えっ。どうって……」
 私も彼に合わせて小さい声で聞き返す。
「警察沙汰にするのか。警察が来れば君はどこを触られた、など詳細に聞かれることになる。今、そんなに震えているのに耐えられるかい」
「そんな……。痴漢が捕まってくれれば、それでいいんです」
 私は首を振って答えた。
「そうか。じゃあ、もういいね。出ようか」
 男性は駅員の方を向くと、僕たちもう帰ります、あとはお任せしますと言って、私の肩に手を置いて事務所の外へ連れ出した。駅員たちはあっけに取られたような顔で私たちを見ていた。

 駅事務所を出てしばらく歩くと、だいぶ震えは収まってきた。男性は私の少し前を歩いていたけれど、立ち止まって振り返ると、もう、落ち着いた?、と言ってポケットから出したガムを一枚、私にくれた。ガムを受け取ると、私は気を取り直してやっとお礼を言うことが出来た。
「あの、先ほどはありがとうございました。それに私のせいで会社に遅刻してしまいましたね。すいませんでした」
「ああ、構わないよ」
 男性はそう言って優しく笑いかけてくれた。痴漢にはあんなに毅然とした態度で険しい顔していたのに、私には別人のように穏やかに接してくれる。つい見つめてしまう。
 しばらく見つめ合ったあと、男性は何か付け足したそうに口を開いた。私は言葉を待つが、彼はうつむいて言い掛けた言葉を呑み込むように口を真一文字に結んだ。そして、それじゃあ、と言って手を挙げると、地下鉄の改札の方向へ向かって歩いて行った。私は後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くして見送る。
 手には彼がくれたミントガム。あの痴漢はどうなったのだろう。そんなことどうだっていい。私の頭の中は彼のことでいっぱいなんだから。なんだか胸を射抜かれた気分。もしかして、これって……。

 その後遅れて会社に行くと、当然上司からひどく怒られた。遅刻の理由も説明させてもらえなかった。受付嬢は会社の顔なんだから自覚するように、と言われた。分かってはいるけど、あの状況で自分の職種は何だっけ、とか考えられる余裕はないでしょう。
 はぁ、と息をついて受付のカウンターの横に立つと、隣のユウコが意地悪っぽく声をかける。
「美咲―。ち・こ・く。珍しいわね。何かあったの」
 私は、うん、とだけ言って椅子に座った。

 夕方、更衣室でやぼったい制服から私服に着替え終わると、バッグに入れておいたガムを取り出して見つめる。
 あれからずっとあの人のことが頭に浮んで消えない。名前も訊かなかった。名刺ぐらいもらっておけばよかった。きちんとお礼をしたほうが良かったかな。ふうっとガムを見つめてため息をつく。
 するとユウコが後ろから悪戯な声をかけてきた。
「なーに? ぼうっとして。そのガムいらないならちょうだい」
「だめよ」
 掠め取られたガムを奪い返す。
「どうしたの。今日変よ。今朝の遅刻と関係あんの?」
 うん、実は、と言って、電車の一件を話した。
 話を聞き終わったユウコは、ロッカーにもたれ掛かりながら、ふうん、とはっきり発音して言った。そして探偵気取りの口振りでこう続けた。
「その男、怪しいわね」
「えっ」
「痴漢と共犯なんじゃない? 美咲に告訴させないように外に連れ出して、痴漢を逃がしたかったんでしょう」
「違うよ。そんな人じゃない!」
 ユウコの前に立ちはだかって強く言った。
「他の誰も知らん顔していたのに、あの人は私を助けてくれた。そんな人なんかじゃ……」
「違うと言い切れる?」
 ユウコは腕を組みながら私の言葉を制していった。
「美咲。まさかその男に一目惚れしたんじゃないでしょうね」
 私の瞳の奥を覗き込むようにするので、すべて見透かされた気がして慌てて身体ごと横を向く。
「図星か。美咲は騙されやすいんだから、気を付けなよ」
 ユウコは子供を叱る母親のような言い方をすると、ロッカーの鏡に向かって化粧を始めた。
 ユウコの言うことが本当なら、電車の中で助けてくれたのも計画的ということになる。そんなはずはない。だってあの柔和な眼差しは悪い人には思えない。私が怯えて震えているのを見て、外に連れ出してくれたんだ。共犯だなんて、そんな人じゃない。
 自分に言い聞かせるように、何度も心で呟いた。

 帰宅後お風呂から出ると、濡れた髪をタオルで拭きながら、ドレッサーの引き出しにしまって置いたガムを取り出す。
 青い包み紙にペンギンの絵の付いたミントガム。
 ガムを持つ右手のマニキュアが剥がれているのに気がついた。塗りなおしておかなくちゃ。そんなところまで完璧にしておきたい。あの人に見られたら恥ずかしい。
 明日会えるわけじゃないのに、どうしてこんなにあの人のことばかり考えてしまうんだろう。今朝のことを、頭の中で何度も再生してしまう。また会えるかしら。そうだ、美容院の予約をしておこう。いつあの人に会ってもいい様に、いつも綺麗にしておこう。
 ……また会えますように。
 そう祈って、ガムをドレッサーの引き出しの中の指輪の隣に大切にしまった。

 今朝もいつもと同じ電車に乗る。人の往来の中で、あの人の姿を探すのが癖になった。満員の車内で、辺りを見回してみる。ホームに降りても、視線は紺とグレーのワンパターンのサラリーマン達の中から、あの人を探し出すことに集中する。
 今日もいなかった。そうよね。そう簡単に見つかる訳がない。

 受付カウンターに座ってぼんやり考える。満員電車のあれだけの人混みの中から探し出すのは至難の技だ。何か手がかりでもあれば……。手がかり? そうだ。そういえば胸に社員章があった。丸い形の中にアルファベットのMのようなマーク。ああ、でもはっきりとは思い出せない。それだけじゃあ会社名まで分からない。どうやって探し出せば……。
 仕事中でもそんなことばかり考えてしまう。隣でユウコが呆れたように、ふうっと大きく息を吐いた。

 あの人にとって私はたまたま出会っただけの女。覚えてもいないだろう。ましてや私にこんなに四六時中思われているなんて想像すらしていないに違いない。
 ユウコはあの人は痴漢と共犯だと言った。もしそうなら、何処かでまた同じことをしているのだろうか。そんな人じゃないと信じたい。でもたとえそうであったとしても、私はあの人を嫌いにはなれないだろう。もう特別の人になってしまっているから。あの人が共犯でもいいとさえ思えるくらいに。

 あの人のくれたミントガム。ねえ、ペンギンさん。あなたはあの人の名前を知っているの?
 私は社員章のマークとミントガムのM、この二つに因んであの人のことをMさんと呼ぶことにした。
 ワンルームマンションの薄暗い部屋の中に月明かりが差し込む。パジャマの上にカーディガンを羽織って、窓ガラスの向こうの、星空に向かって声に出してみる。
 ―― Mさん、Mさん、Mさん。

 あなたは今どこにいるの?
 わたしのこと覚えている?

  あなたの名前を呼びかける
  心の中でこだまする
  名前も知らない人だけど
  眼に焼きついて離れない
  
  あなたの眼差し
  あなたの声  
  あなたの手
  あなたの背中
  
  幻影の濁流に溺れそう
  ミントガム 願いを叶えて
  あの人に会えますように

 それからも毎朝、目が覚めると急いで駅に向かう。今日こそMさんがいる予感がして。
 そんな事を続けて二週間経った。会社に遅刻するのを覚悟で、時間をずらして違う電車に乗ってみたり、違う駅から乗ってみたりもしてみた。唯一の手がかり、社員章を見るため男の人の胸元にまず目がいってしまう。同じ会社の人を探し出せば、Mさんにたどり着く気がして。
 毎日、そう今日だって。電車の中でMさんを探し、会社にいてもMさんのことを考えて、家に帰るとお守りのようになったガムを手にしてMさんを想う。今の私のどこを切ってもMさんが出てくるだろう。身体の中はMさんの色で埋め尽くされている。

 お昼休み、社員食堂でAランチを食べながらユウコが言った。まだ諦めてないの、と。
「いったいどれだけの人が地下鉄を利用していると思っているの? その中から見つけ出すなんて奇跡よ」
「ん……」
 私はBランチの白身魚フライを箸で掴もうとして手を置いた。なんだか最近食欲もない。いつもならこれくらいぺろりだったのに。
「ほらー。美咲らしくない。だいたい美咲はかわいいしもてるんだから、そんな名前も知らない人、好きになることないって」少し怒ったようにユウコが言う。
 そう。私らしくない。私はもっと勝気で楽観的だった気がする。こんなにおセンチじゃなかった。
「私、なんか変かな」
「うん。重症だね」

 ユウコに言われて改めて思った。病的に、狂ったように、私はMさんが好き。
 恋をするのは初めてじゃない。だけど今まで付き合った人と、これほどまで胸を焦がす、痛い想いを感じたことはなかった。
 ドライブで行った海がきれいだったとか、地中海レストランで一緒に食べたシーフードがおいしかったとか、そんなことで楽しいと思っていたような気がする。要するに誰でもよかったのかもしれない。
 でも、Mさんに対する気持ちはそんな大まかな感情ではなく、もっとデリケートなものだ。
 少しの言葉のやり取りがあっただけ、それどころか名前も知らない人にこれほど熱くなれるなんて。
 好きになったんだもの。どうしょうもないじゃない。こんな気持ち、恋している人じゃないと分からないだろうな。
 ユウコが何と言おうと私は恋に堕ちてしまったのだ。そう、恋とは堕ちるものなんだ。堕ちてしまえばそう簡単に這い上がれない。

 私はユウコに言った。
「あの人は、忘れられない人なの」
 胸に固い意志を宿して、自分に誓うようにはっきりと。
 ユウコはくすりと笑った。

 忘れることなんか出来ない。自分でも不思議だけれど、会わなくてもどんどん好きになっていく。普通はデートを重ね、たくさん話しをしてお互いを知り、距離を近づけていくものだろう。私はそれが全くないのに好き度はますます上昇していく。
 私が勝手に作り描いているMさん像かもしれない。それでも構わない。
 こうしている間もまたひとつ好きになっている。意識しなくても、恋は走り出すのだ。
 会えなくても決して崩れることのない気持ちは、高く高く一段ずつ階段を昇っていく。そしてその先には、Mさんが私を待っている。そう信じたい。

 ガムを手に持って、部屋の窓を開けて星空を見上げる。招き入れた涼しい風が髪をなびかせる。まだ肌寒い春の夜に身をのり出した。
 Mさんもこの空の下にいる。同じ空気を吸って生きている。

 あなたは今どうしているの?
 私のことなど忘れているの?
  
  あなたに手が届かない
  通り抜ける夜風が私を不安にさせる

  ミントガムに祈る
  お願い Mさんに会わせて

 目が覚めると眩しい朝だった。降りそそぐ光の中なのに、なぜだろう、ふいに淋しさが沁みこんでくる。
 今朝もいつもの地下鉄の駅に向かう。こんなに近くにいるはずもないのに、つい目は探している。やっぱりMさんはいない。こんなことをもう一ヶ月も続けていると、さすがに心が折れそうになる。
 諦めようと思い、またすぐに諦めないと思う。不安を覚えると辛くなる。

 いつの間にか景色がピンク色に染まっていると思ったら、桜が咲いていたんだ。桜は殺風景な街の背景を華やかに変える。Mさんはどこで桜を見ているのだろう。
 桜の花びらが舞い落ちて、肩に降りた。『桜のような一瞬の恋』そんな歌の歌詞が頭に浮んだ。今、この桜の木の下にMさんがいてくれたら。
 街も呼吸している。移り行く時間を、あの日に戻すことができたらいいのに。そう思うと心細さがやってくる。

 営業マンなら毎日同じ電車に乗るとは限らない。出勤前に得意先に寄っていくこともある。たまたまあの日だけこの地下鉄を利用していただけかもしれない。
 やるせなく、ぼんやりそんなことを考えながら、いつもの駅で電車を降りた。早足に急ぐ人の流れの中、見るともなしに前を見ると、先を歩く人影に視線を奪われる。

 まさか。幻覚を見ているのだろうか。私、視力はいいの、間違いない。

 あの時と同じスーツ、同じバッグ、同じ背格好。
 Mさんだ。
    
 どうしよう、体が動かない。心臓がドキンと反応した。早く。何しているの。

 速い歩調で階段を昇っていくその人の、数メートル後ろを追いかけて走る。ああ、でも人混みで速く走れない。急がなきゃ。ここで見失うわけにいかない。なかなか前へ進めない。お願い、行かないで。
 人を掻き分けやっとその人の所までたどり着く。
「Mさん!」
 腕を掴んで声をかけると同時にその人は振り返った。

 冷たい空気が胸を通り抜けた。
 ……違う。Mさんじゃない。
 訝しそうに私を見るその人の腕から手を放し、すいません、まちがえました、と力なく呟く。
 その人は憮然とした顔で、私を頭からつま先まで見たあと、軽く舌打ちして前に向き直り急いで歩き出す。
 立ち尽くす私は人混みの中で崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。雑踏の中、声を出して泣きじゃくる。幾人もの人が、私には目もくれず横を通り過ぎて行く。
 周りの景色は色褪せていく。いいえ、そうではなく私が消えてしまったのかもしれない。周りの人には私が透明になっているかのように、見えていないのだ。存在がなくなっている。

 Mさん。Mさん。
 何もかも覚えている。一重瞼の奥の純粋な黒い瞳も、優しさを秘めた低い声も、耳や鼻や口の形も。 でも、二度と会うことのない人。もうこのまま気持ちを葬ってしまおう。
 私とMさんを繋ぐものは何ひとつない。再びめぐり合うことは不可能だ。私は何を期待していたのだろう。
 また会える、会いたい。そう思えば生きていけた。信じていた。でも今は生きていくのも苦しいだけ。私は抜け殻だ。Mさんの存在が私の中に無くなった空虚を抱えて前に進むしかない。はじめから空想の中で生きる人だった。幻覚だったのかもしれない。そう思って気持ちを押し殺して生きるしかない。
 なぜあの日出会ってしまったのだろう。あの時出会わなければこんなに苦しむことはなかったのに。
 いいえ、そうじゃない。私はこの一ヶ月激しく恋に胸を焦がした。恋のときめきをくれたMさんに感謝しよう。
 熱い涙がぽろぽろとあふれ落ちる。涙って熱いんだ。
 この涙の中に私の想いを全部こめて流し出してしまったからかもしれない。
 泣いたら少し身体が軽くなった。


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 その後はどうやって会社にたどり着いたか覚えていない。気がつくと受付のカウンターに座っていた。
 時々涙がにじみそうになってしまう。ユウコは何も言わなかったけれど、たまりかねて
「美咲、ずっと泣きそうな顔してる。ほら、笑顔」
「ごめん。笑えない。きっと明日は笑えるから、きっと……」
 言葉を発するのも苦しくて、語尾が消えてしまう。また泣きそうになったのを、ぐっとこらえた。
「……美咲。辛いのは分かるけど、十時に村井商事の方が来社予定なんだから、きちんとお応えしてね」
 そんな風に言ったように聞こえたけど、ユウコの声も頭を通り過ぎていく。
 じっとしているとMさんのことを考えてしまう。忘れよう。明日が来て、あさってが来る、それを繰り返していくうちに忘れられるかもしれない。そう思うしかない。思い出になる日がくるに違いない。悲しみは時間の中に溶けていくだろう。

 そう思った時、社ビルの入り口のドアが勢いよく開いた。顔をあげてそちらの方向をみる。ひとりの男性が駆け込んできて、一直線に私に向かってくる。

 うそ。どうして。これは夢?
 私はその人から視線をはずせない。
 どうしてここにMさんがいるの。

 Mさんは息を切らし、私の目の前に立つ。
 村井商事のひとってMさんだったの。
 Mさん? 本当にMさんなの?
 頭の中がざわめく。

 立ち上がってMさんの目を見つめる。やっぱり純粋な目だ。視線が凝固する。
 どうしよう、頭が混乱して声がでない。

 しばらくの沈黙の後、Mさんは意外にも語気が強めの声で話し始めた。
「探していたんだ」
「え……」
「探していた、ずっと君を。君は忘れているかもしれないけど、また君に会いたくて、いつもは使わない地下鉄に乗って探してみたりもしたけど見つからなくて、名前も聞かなかったから何の手がかりもなくて、何度も諦めようと思った。でも諦め切れなくて、今ここに来て、受付に座る君を見て信じられなかった」
 Mさんはそこまで一息に言い切ると、興奮している自分に気がついたのか、ひとつ咳払いをして落ち着かせてから、姿勢を正して、「君は」と言った。そして、一旦顔を伏せて床を見てから、意を決したように顔を上げて私を見ると、一瞬のためらいの後、真剣な表情でこう言った。
「忘れられない人なんだ」

 私たちは一ヶ月前から恋人同士だった。お互いにそうとは知らなかったけれど。好きの気持ちが高まったときに奇跡のようにめぐり会う。そんな恋の魔法にかけられていたのだ。神様は時々こんな意地悪をする。

  あなたの名前を呼びかける
  心の中でこだまする
  記憶の中の人だけど
  胸を埋めつくし溢れ出た

  あなたの眼差し
  あなたの声
  あなたの手
  あなたの背中

  今 私の前に舞い降りた

  ミントガム 奇跡をありがとう
  あの人に 会わせてくれて

 私は今、恋の光に包まれている。
 あなたに言いたい言葉がたくさんある。でも、胸が高鳴って出てこない。
 走る気持ちを伝えるために、私はゆっくり空気を吸って、ゆっくり空気を吐いた。

                                 了

小説『恋愛のお葬式』

kage

2008/06/05 (Thu)

二作目

 『恋愛のお葬式』

 私は黒い服は着ない。心まで暗くなるから。
 赤い服を着て、心の中をごまかしている。心が晴れるわけじゃないのに。

 この会社に勤めて五年目。同僚が寿退社するのを、何人も見送った。
「次は、ナツミ先輩ですね」という後輩の言葉も、いやみにしか聞こえない。
 総合商社の営業アシスタントと言っても、男子社員から回って来た書類をパソコンに入力するだけ。それも私より若い男子から。入社当初から変わらない単純な書類整理と、新人のミス処理にも飽きてきた。
 お茶くみは新人の仕事。男たちは新入社員の子にお茶を入れてもらえるのが嬉しいらしい。私も新人の頃はちやほやされたこともあったけど遠い昔のような気がする。それでも山下課長のお茶だけは私が入れることに暗黙の了解として通っている。
「山下課長。今日はどちらにされますか」
「そうだな。コーヒーにするか」
「分かりました。コーヒーですね」
 瞳の奥を探る。
 給湯室に行き、作り置きのコーヒーを、カップに注ぐ。課長の好みは、砂糖なし、ミルク多め。
 課長と私の関係は、二年になる。
 これは、二人の合図。コーヒーなら「今日はマンションに来る」お茶なら「今日は来れない」
 課長がコーヒーを頼んだのは、何日ぶりだろう。なぜだか自然と心が弾む。コーヒーにミルクを垂らして、白い渦を巻くカップの中を見ながら思わず鼻歌が出てしまう。
 「嬉しそうですね」
 ふいに、後ろから声を掛けられ、一瞬焦って振り返る。
「ナツミせんぱーい。今日の赤いカーディガン、新しいの買ったんですかぁ。先輩って赤とかピンクとか似合いますよねー。年のわりには」
 一言多いこの子は、後輩の真美。同期入社の女子社員はみんな辞めて、今一番仲がいいと言えるのはこの子しかいない。
 私が給湯室に入るのを見ると、自分もやってきて仕事を怠ける。お茶を淹れにきたわけでもないのに。茶色い巻き髪を指でいじっている真美を横目で見ながら、カップをお盆に乗せる。給湯室を出ると、真美も細かい歩幅で後をついてくる。
「せんぱーい、今日飲みに行きましょうよぉ」
 この子は甘えた声でしゃべるのがうまい。狙いなんだろうけど。
「今日はちょっと先約が……」
 視線を合わさず私が言う。
「へえ、そうなんだ」
 歩きながら真美はそう言うと、営業室の奥に座る課長と私を交互に見る。
私は、黙ってコーヒーを課長のデスクの上に置いた。課長はパソコンに目をやったまま、ありがとうと言った。
 真美は意味ありげな笑顔で私を見ながら、自分の席に着いた。
 おそらく、真美は二人の仲に感づいている。あの子に知られたら、会社中の人間が知っているも同然。まあ、いいけど。
 どうせもう、他の社員も知っている。美人と言われている私がこの会社でもてないのは、そのせいか。

 仕事は定時で終わり。残業なんかしない。
 夕暮れのスーパーマーケット。ショーケースの中で明るく照らされた、スモークサーモンを手に取る。夕飯の買い物に忙しい主婦たちに混じって食材を選ぶ。いつものインスタント食品をひとり分と違って、今日の荷物はずっしり重い。ちょっと買いすぎたかな。
 さっきまでオレンジ色だった空が、もうすっかり暗くなり、ネオンが一層明るく光る。家路につく足が、いつもより少し早くなっているのは気のせいだろうか。
 駅に近い都会的な高層賃貸マンション。独り暮らしの女が住むには広すぎる。けれども無理してでもいいところに住みたい。
 課長は言っていた。妻はカレーやスパゲティのような子供向きのおかずばかり作るから嫌になるよ、と。
 だから、課長の家では出されることのないフランス料理を、本を見ながら作る。ブランドのお皿にきれいに盛り付け、テーブルコーディネートも凝る。ワインもちょっと高いのを奮発する。妻の知らないところで張り合ってみる。コーヒーカップもお箸も、私たちお揃いなのよ。知らないでしょう。

 そろそろ来る頃かも。壁に掛かった時計を見上げてはそわそわしてしまう。まるで夫の帰りを待つ新婚の妻みたいだ。
 料理も出来た。部屋も片付いてる。よし、完璧。
 用意が終わった頃に、玄関のチャイムがなる。ドアを開けると、課長がのんびりとした声で「やあ」と言って、右手を挙げて立っていた。どうぞと言うと、慣れた足取りで、部屋の中に入る。いつも同じ位置に座る。ソファの右端。
「山崎くんのマンションに来るのは二週間ぶりか。久しぶりだな」
 そう言いながら部屋を見廻した。
「三週間よ」
 課長は私を下の名前で呼ばず、山崎くんという。会社でうっかり呼んでしまったら、まずいだろう、と言っていた。二人きりの時くらい名前で呼んでくれてもいいのに。細かいことにもこだわってしまう。
 小さなテーブルに向かい合って座り、ワイングラスを合わせる。ワインも赤が好き。冷たく熱い赤がいい。
 一口飲んで、視線をワインから私に移した課長が言った。
「今日の服、いいね。きみは明るい色がよく似合う」
「そう。ありがとう」
 思わず顔が綻ぶ。
 課長はいつもそんな風にさり気なく褒めてくれる。口紅変えたの? とか、髪染めたの? とか。それもわざとらしく言うのではなく、思い出したように。私のちょっとした変化に気付いてくれる男は、他にはいない。そんなところが、大人の魅力で好きだった。

 肌になじんだお互いの体温を確かめ合うと、課長はすぐ、バスルームに向かう。
 あの人は一度も泊まったことがない。早く妻や子供の待つ家に帰りたいのだろうか。水曜日は残業デーとでも言ってあるらしい。決まって水曜日にしか来ない。
 家庭のある男を好きになった。若い男にはない包容力と安らぎが欲しかった。でもこんなこと続けていてもしょうがない。体とは裏腹に頭ではそう思う。妥協と迷いが私の奥底でひしめき合う。
 シャワーを浴びて、私の匂いを消すと、あの人は妻が買ってきたであろうYシャツを着る。
 二人きりの時は私を愛してくれている。それでいいと思っていた。でも今は、付き合い始めた頃のようなときめきはない。あの人から家庭の色が垣間見えると、不安と苛立ちが背中に降りてくる。
 そういえばこの前も、「今年四歳になるんだ。かわいいだろう」と言って、あの人は私に携帯の待受に貼った娘の写真を見せた。「かわいいですね」と言うと、細い目をさらに細くして「そうだろう」と言った。私が軽蔑の眼差しで見ているのも知らずに。そんな無神経さには、さすがにいい気はしない。所帯じみている安物の靴下やネクタイを見ても醒めてしまう。昼休みに奥さん手製のお弁当を食べ後、お弁当箱を給湯室で洗っているのも知っている。奥さんに命令されているのだろうけど、嫌がらずに洗っている姿を、以前ならかわいいと思えたのに、今では無性に腹が立つ。
 課長じゃなくてもいいのに。なんでこの人と一緒にいるのだろう。
 課長との噂が広まっているので、この会社で別の男を見つけるのは無理だ。かと言って他に出会いもない。二十七歳という年齢が私を焦らせる。課長と別れたってかまわない。次は私だけを愛してくれる男を探そう。

「来週、きみの誕生日だろう。会うか」
 背中を向けてネクタイを締める課長の声は、生地の摺れる音と共に確かにそう聞こえた。珍しい。次の約束をするなんて。私の心の揺れに感付いているのだろうか。そんな優しさが憎らしい。
「さあ、空いているかどうか分からないわ」
 わざと曖昧に返事をしてみる。
「そうか。きみもいろいろ忙しいんだな」
 さらりとそう言うと、あの人は玄関に向かって歩いた。玄関までついて出てあげない。私はベッドの中であの人の後ろ姿を見送る。

 誕生日は絶対他の男と過ごしてやる。私だってその気になれば、デートする男の一人や二人いるのよ。
 そう思ってはみたもの、適当に声を掛ける訳にもいかない。女友達を誘うのは無理。みんな結婚しているか、彼氏がいる。真美を誘うにしても、あの子のことだ。「誕生日を祝ってくれる男もいないんですかぁ」などと言ってくるに違いない。
「もう二十八歳か……」
 仕事中だということも忘れ、思わず声に出してしまった。デスクに肘をついて、意味の無いため息をもらす。若い頃は二十八歳にはもう結婚していると思っていた。こんなはずじゃなかったのに……。あの人は私が別れを決意していることを知らない。今はもう、こっそり付き合う努力も煩わしい。部下に仕事を命じている課長をパソコン越しに冷ややかに見て、そう思った。

 朝起きると、恨めしいほど晴れていた。なんでこんなにいい天気なのよ。せめてどしゃ降りにでもしてみなさいよ。
 いったい誰に腹を立てているのだろう。私は。
 お気に入りのピンクのスーツを着て、家を出た。お化粧はいつもより念入りに。誰のためでもなく私のために。
 誕生日当日、課長には他に予定がある、と言っておいた。結局のところ誰も誘う人はいなかった。誰でもいいから声を掛けるのも、しゃくだったし、たまには誕生日にひとりで過ごすのもいいと思ったから。さみしくなんかない。

 会社帰りにショートケーキを一つと、ワインに合うチーズも買った。マンションに帰るとサイドボードからおそろいのグラスの片方を取り出して、立ったままワインを注ぐ。誕生日をひとりで過ごす人は日本で何人いるんだろう。私だけではないはず。そうでも思わないと気がめいる。
 窓際に立って夜景と重なったガラスに映る私と向かい合う。今のこんな顔、見たくない。
 ため息をついて一口飲む。ワインってこんな味だったっけ。この前課長と飲んだ時は、もっとおいしかった。広すぎる部屋に私はひとり。
 あの人は今頃、家族と食事をしているのかも。考えたくないのに、ひとりの時はつい頭に浮んでしまう。
 ぼんやりソファの右端を見つめていると玄関のチャイムが鳴った。誰だろう。こんな時間に。
 ドアを少し開けてそっと見てみる。隙間からのぞく課長と目が合った。
 目じりにしわのある優しい顔で微笑みながら、片手に持ったワインを肩の高さまで持ち上げて私に見せた。
 驚いて見据える私に、「なんだ。いるじゃないか」と言った。
「どうして」
「いいワインを見つけたから、きみと飲もうと思ってね」
 課長は朗らかにそう言って部屋の中に入ると、いつものようにソファの右端に座った。
 この人は私の本心を察して来てくれたのか。いつもそう。何も言わなくても、私のこと分かってくれている。

 恋愛は愛したほうが負け、という言葉を聞いたことがある。恋に勝ち負けなどあるのだろうか。私は負けたと思ってないし、勝ったとも思わない。いずれにしても愛していることには変わりないのだから。
 その優しい目は、今は私だけに向けられている。それだけで充分だった。こうして二人だけの秘密を共有する。そんな小さなことが幸せと思える。未来の約束はないけれど、今がよければそれでいい。
 理屈では分かっている。彼の私への気持ちは、妻や子供を大切に思う半分にも満たないことも。いずれ終わりがくることも。それでも愛とは見返りを求めずとも、本能のままに存在するものなのかもしれない。
 私はやっぱり深い底から抜け出せない。

 課長は持ってきたワインを一杯だけ飲むと、グラスをテーブルに置いて立ち上がる。ソファの横に置いたバッグを手に取った。
「今日はあまり時間がなかったのだけれど、少しでもきみに会えればと思ってね」
 帰ろうとするあの人の後ろ姿に向かって私は言う。
「今度、いつ会える?」
「そうだなあ……」
 相変わらずのんびりとした口調で答える。私はこの声で癒される。低いけれど、ゆっくりとして語尾に優しさのあるその声に。

 私が黒い服を着るとき。それは恋愛のお葬式。
 そんな日は、しばらく来そうもないだろう。
                                了



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